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「 楼 」 〜6〜
 

 瞼の裏が赤に染まっている。
 陽光が眩しく照りつけているらしい。頬が、頭が、胸元がじりじりと焙られる感じがする。蜂の羽音が耳のすぐそばで聞こえてくる。
 いまだ天が回り続ける感触と、頭の中で暴れている眩暈がおさまるまでしばし目を閉じていた陽子は、きゅっと右の手のひらに力を加えられたのを感じて、おそるおそる碧色の瞳を開いた。
 よく手入れの行きとどいた美しい庭だった。裕福な商人の別荘といった風体の瀟洒な二階建ての堂が、築山の向こうに三角形にそびえている。絶妙な配置で点在している奇岩、磨き抜かれた御影石、金粒の浮いた飛び石。そしてところどころひらけた隙間の花壇には休憩用の長椅子がぽつぽつと、綺麗に刈り取られた下草の上に置かれていた。飛び石をつたった先には、岩をくりぬいてつくったらしい広々とした池が青い水を湛え、わずかな風に糸のようなさざ波を寄せている。伏せた亀の甲羅の形をした円橋が岸と岸をゆるやかにつないでいて、それが水面にそっくりそのまま逆さまに映っている様は、鏡さながらの鮮やかさだった。橋のすぐ下には蓮の葉が点々と色どりを添え、白や桃色の見事な花が細く優美な茎の先で馥郁とほころんでいる。庭をぐるりとめぐっている朱塗りの長廊は、柱ごとの鴨居に見事な透かし彫りがほどこされ、金や青、赤、黄など豊かな彩色で華やかだった。土を積んで人工的に作ったらしい小高い丘には、反り返った屋根の頂に鳳凰の彫像をとまらせた六角形の東屋が低地を見下ろしていた。
 汀にほどちかい、こんもりした紅色の牡丹の茂みの影に、三人はこんがらがって倒れ伏していた。見たこともない美しい翼をはたはたと閃かせ、貴人の使う扇子程もある胡蝶が目の前をゆきすぎる。牡丹の蜜を求めて、ぶんぶんと蜂が飛んでいる。
 「綺麗……なところだな」
 金波宮ほどの仰々しさはなく、ほどよくくだけて小ぢんまりした庭のたたずまいは、常日頃大げさなものが苦手である陽子のお気に召したようだった。
 「隠遁官吏のお屋敷の庭、といった感じの楼ね。洒落てるわ」
 乱れた髪を簪でおさえながら青蘭が呟いた。
 「ここは、そなたが飛ぶつもりだった場所か?」
 浩瀚が尋ねると、少しためらったのち曖昧に首をかしげて、また落ちつきなく簪を抜いた。どこかでホトトギスが鳴いている。
 「たぶん。目的地まで遠いときは、あちこちの楼を経由しながら飛ぶものだから。方向はこっちで確かにあっているから、まあ正しいんだろうと思う」
 青蘭はふるりと頭を振った。空色の髪が柔らかな空気にほどけて舞った。どうも、おかしい。さっき身体の中にみつけた靄が次第に成長しているような気がした。頭の中に、薄く透ける布を一枚かぶさっているようだ。
 「見ろ、人が……」
 陽子の指差した長廊の先に、ぽつんと二名の男の姿が現れた。しずしずとこちらに向かってくる。
 「武人かしら」
 「いや、帯刀はしてないようだ」
 手の先を袖の中に入れ、長い裾を慣れた足取りでさばきながら滑るようにやってくる。先頭の男はやけにガニ股で、背が低い。後ろにつき従う男は対照的にひょろりと長身で、髪の七割方が白かった。
 背の低い男は、両手で顔の高さに漆塗りの膳を捧げ持っている。膳の上には、そっくり同じ金の杯が三つ並べてあった。長身の男は両手に水差しを支えている。その慎重な手つきから、縁までいっぱいに水を満たしてあるようだった。
 二人の男は牡丹の茂みのすぐそばで音も無く立ち止った。ともに顔を伏せているため、表情は見えない。
 「まろうどじゃ」
 背の低い男が言えば、
 「まろうどじゃの」
 背の高い男が繰り返す。
 「一献さしあげねばなるまいな」
 背の高い男が言えば、
 「一献さしあげねばなるまいよ」
 背の低い男がまた繰り返した。
 「ささ」
 「ささ」
 水差しから金の杯にとろりとした液体が注がれると、背の低い男は膳を頭上に高々と掲げたまま下草をかきわけてくると、足元にひざまづいた。
 「申し訳ないが、まだ旅の途中。喉は乾いておらぬゆえ、お気持ちだけいただこう」
 陽子をおさえて、一歩前に出た浩瀚は、注がれた金杯を軽く額に押しいただいて、中身を下草にあけた。じゅっと白い煙が立ち上った。
 「貴殿に返杯を」
 杯を膳に戻すと、長身の男から水差しを取り上げ、なみなみと黄金色の液体を注いだ。
 「いかがかな」
 二人の男は伏せた顔を見合わせ、首を振った。
 「やれ。やりにくいのう」
 「飲んでくだされば良いのに」
 「良いのに」
 「良いのに」
 ゆるりとあげたその顔を見て、陽子はあっと小さく声をあげた。衣装こそ改められているが、寝具通りの枕屋の店先で、茶を飲んでいた二人の男に違いなかった。
 「お嬢ちゃん。困るなぁ、勝手に楼の中をうろつかれちゃ」
 ガニ股で背の低い、犬歯の男がにいっと歯を剥いて笑った。長身の白髪の男は、青蘭に軽くうなづいた。
 「お久しぶりですな」
 「えっ?」
 「お見受けするところ、もう少しといったところ」
 男はさらに続けてなにか言ったが、言葉は陽子がいきなり振った剣の残光で途切れて散った。
 「私達はここから出るつもりだ。あなた方に邪魔はさせない」
 二人の男はまた顔を見合わせた。肩が揺れている。笑っているらしい。
 「どうぞご随意に」
 「お逃げくだされ」
 ただし、と水差しを持ちあげて傾けながら、長身の男は袖で口元を隠して呟いた。
 「逃げげられれば、ですがな」
 水差しの口から糸のように液体が滴ると、雫は地面に落ちる前にくるっと丸まって玉となった。ぱちっと玉が割れたかと思うと、角の生えた獣の首、毒々しい鱗粉をまきちらす蝶々、千本もの足が生えた大蛇などがわらわらと薄気味悪く這いだして、こっちに迫ってきた。
 「我らは追いまするぞ」
 「おお、追いまするぞ」
 いざって長廊へと後ずさるとまた顔を俯かせて、大小二人の男は擦り足のまま歩み去って行った。
 目の前に飛んできた蛾をばさりと切って捨てると、返す刀で大蛇を地面に縫いとめ、かみつこうとする獣の首をにこやかに足蹴にしている浩瀚の手を引っ張って、陽子は青蘭に叫んだ。
 「はやいところ次の楼へ飛ぼう!追手がかかったみたいだ。急いで、行ける所まで行こう」
 「え、ええ。そうね」
 周囲を見渡すと、うらうらとしたのどかな光景が広がっている。青蘭はどこかに違和感がないか目を凝らした。この調和した庭のどこかに空間の歪みが潜んでいる。妓楼の寝台の穴のように、空気を通す穴がどこかにあるはずなのだ。
 鏡のように凪いだ池がゆらりと揺れ、水面が割れて、朱色の巨大な鯉が顔をだした。ぱくぱくと空気を吸うってから、瞼の無い眼をぎょろりと光らせ、青蘭を睥睨した。
 「瑠璃色の鳥が来るぞ」
 鯉はしわがれた声でそう言うとまた身をひるがえして、水をかきわけるとずぶずぶと沈んでいった。丸まった背の鱗の、その皿ほども大きな一枚一枚が水をはじいて、目もくらむような綾な虹色の光を四方へ放った。水面が虹色に染まる中心に、わずかな渦が巻いている一点があるのを青蘭は見逃さなかった。
 「あれよ!」
 指差して駆けだすと、陽子や浩瀚の手首にはめられた輪がぼうっと熱を発して、二人を池へと引っ張った。鯉の最後の尾ひれがしぶきを跳ね上げて消える直前、青蘭はその先端をかろうじて握りしめ、頭から池へと飛び込んでいった。
 水の中は宝石のような無数の沫に満ちていた。頬をくすぐる柔らかな感触、服と肌の間にすべりこんでくるひやりとした水の心地よさに、薄い衣が金魚の尾のように広がる。米粒ほどの小さな金魚がそこかしこに無数に舞っていた。
 上を見上げると、陽子、続いて浩瀚が飛び込んでくる様が見えた。泡に包まれ、銀光に縁どられた少女の朱髪は太陽の焔のように煌めいている。ふわっとまくれた衣が水圧でたくしあげられ、真珠色の腿の付け根まであらわになるのに、同性ながら思わず見とれた。
絵に描いたような見事な抜き手をきって降りてくると、さりげなく腰に回された浩瀚の手をひっぱたき、陽子は問うように青蘭を見つめた。
 うなづいて、下方を指さす。朱色の鯉の揺れる尾がひらり、ひらりと打ち振られながら、池底へと消えていく。底は思ったよりよほど深いらしく、陽光のとどく薄青からやがて煮つめた紺色となって、その先はもう見えなかった。牡丹の花にヒレが生えたような生き物が、水の中でも聞こえる、るるる……という甲高い音を出して優雅にゆきかっているかと思えば、目の生えた杯が二枚、貝の真似をしてふらふらと流れていく。渦は、そんな水中の変わった生き物の合間を縫って、さらにもっと下にあるようだ。三人は身を寄せ合って、固まって潜水した。不思議と息苦しくはなかった。右方から、不意に何かぐんにゃりとした網のようなものが流れてきて、近くまで来るとわっと裾を広げた。タコ足に似ているが、吸盤のあるべきところには黄色い目玉が無数についている。
 ぱちぱちと瞬きを繰り返しているさまを見れば、目玉の表面はふつふつと蠢いている―――虫だ。
 楼に閉じこめて客をとらせようとしたさっきの箱枕屋の二人がともに、浩瀚に化けてやってきた男と同様に虫にとりつかれていることを、陽子ははっきり悟った。追手というのは人間ではない。虫なのだ。
 慌てて青蘭の手を引いて避けさせると、さらにその前に浩瀚が立ちふさがって陽子を背後にかばった。簪で数個の目玉を突き刺してやると、網は怯んでしゅうっと萎んで後退した。その隙に、さらに下方へと急ぐ。
 紺色から藍色に変わった水の色とともに、水温も冷んやりと下がっていく。やがて前方に、巨大な桃色珊瑚の白茶けた死骸が見えてきた。その上に、肉厚のまんじゅうのような二枚貝が口を開けて、聞きなれぬ異国の歌を歌っていた。音は水に触れるとぱちんとはじけて色とりどりの小花となり、波間に漂っていく。貝の周囲は降り積もった小花で花畑のようだった。渦の中心はその中にあった。貝がうまく口を開けているタイミングに合わせて中に入ることができれば、次の楼へ飛べるはずだ。
 呼吸を計って、青蘭が貝の縁に手をかけて合図すると同時に、するりと細身の身体を滑り込ませた。白い泥に身を沈めているような奇妙な感覚、ついで下半身を中心にぐるぐるとした渦に瞬く間に飲み込まれていくのを感じる。手首の輪がたちまち熱くなる。光ってうねり、小刻みに振動しては陽子、浩瀚に絡みつき、三人が相次いで泥に沈みこませた。貝の口がぱちりと閉じる音がして、目の前が暗くなった。生温かく生臭い内臓がぎゅうっと押しつけられるのをすり抜け、三人はぬるぬるした得体の知れぬ液にまみれながら、暗い渦の彼方へとまっさかさまに落ちて行った。

 ホーホケキョ。
 麗らかな鳴き声が耳朶をくすぐった。少し肌寒い。まだ冬の名残が残っているようだ。大気に漂う雪と早朝の気配に包まれて身震いをする。一転、鼻腔には甘やかな香りが漂ってくる。咲き染めの梅の香である。
 夜明け前の薄暗さの中でそっと目を開いた陽子は、浩瀚の腕にしっかりと抱きかかえられている自分の身体を見つけて瞬きした。浩瀚の腕は細いようでいて案外筋張っている。触ると見た目よりずっと固いという意外性もまた、彼の仕組んだ緻密な計算ではないかと陽子は勘ぐってしまう。
 少女が軽く身じろぎをしても微動だにせぬ腕に、かえって相手がすでに起きていることを確信して強引に身を起こしてみた。案の定、男は片目だけ開けて笑ってみせると、あっさりと主を腕の中から解放した。
 少し離れたところで青蘭が足を崩して座っているのが見える。まだぼうっとしている。
 冷えきった床は白檀でできていて、足で踏みしめるたび薫香がたちのぼった。―――さほど広くない室内である。
 天井は組み格子で、格子のひとつひとつの間は彩色されているが、何の絵なのかは霞んで見えない。三人がいる場所は四方を長い衝立で仕切られていて、奥の空間や扉は隠されている。広く切られた窓辺には浅緑色の薄い紗布をめぐらせた几帳がたてかけてあり、外から吹き込む微風でかすかに波打っていた。窓辺の近くに座卓があり、蜂蜜の入った大小の玻璃の瓶がいくつかと、女物の細筆と硯とがのっている。几帳を静かにめくって、陽子は思わず息を詰まらせた。窓の欄干の向こうには一面、花の海が広がっていた。紅、白、桃色。三色の色彩が混じり合い、競い合って、あるものは凍えた蕾、あるものは爛漫に花弁を広げている。微風がなでるたびに甘い香りをすくいとり、高い尖塔の頂上にあるらしいこの室内にまで運んでくるようだった。空は雪雲に覆われ、日の出を待つ間の淡い墨の色に沈んでいる。
 「浩瀚。来てみろ。綺麗だぞ」
 ホーホケキョ。ケキョケキョ。
 鳥の声と香りが心地よい。すぐ側に立った男のすらりとした体躯に、陽子はちょっとならいいかと寒いふりをして身をすり寄せてみたが、固い腕が腰に回される気配に慌てて身を離した。薄闇に浮かぶ浩瀚はなんともいえない表情を浮かべて主を見下ろしている。
 「塔のてっぺんみたいだな」
 「はい。この楼はおそらく、花満豊塔を模して作られているのでしょう」
 「おカマ……なんだって?」
 「花・満・豊・塔。古典に出てくる伝説の牢獄でございます。王がある妓女を寵愛し、臣下の反対を押し切って王妃にむかえましたが、女はその後下級官吏と姦通しました。王は激怒し、花に囲まれた塔をつくらせ、王妃を閉じ込めたのだそうです。美しい景色だけは楽しめますが、困ったことにいくら探しても出口がないという塔です」
 へえ、と陽子は麗しい花の海を眺めやった。こんなに美しい場所に閉じ込めるとは、王の妓女への愛は残っていたということだろうか。陽子の考えを読んだように、浩瀚は言った。
 「かえって地獄でございますよ」
 「なぜだ?」
 「考えてもごらんください。牢獄らしい殺風景ならば、やがては己の境遇にあきらめもつきましょう。が、目の前にすぐ手の届く範囲で綺麗なもの、美しいものがあるというのに、いくら手を伸ばしてもそこへは届かないと日々思い知らされるのです。絶望や焦燥感は、普通の牢獄の比ではなかったことでしょう。その王は、頭の良い、そして非常に残酷な方だったのですよ」
 「―――ああ」
 痛みや恨みや怒りや嘆き、さまざまなものが沁み込んだ土から生えているだけに、この花はこんなに美しく咲き誇るのかもしれない。これを毎日見続けなくてはならないとすると―――確かに勘弁して欲しいかもしれない。そうだな、と陽子はうなづいた。
 かたん。
 背後で音が鳴った。二人はおしゃべりをやめて振りむいた。外も暗いが、外に慣れた目では中はほとんど見えぬに等しい。暗がりで、さらに黒く塗りつぶされたものがふらりと動いている。
 「飛雀?」
 白檀を踏みしめて室内へ戻ると、虚ろな目をした青蘭が、倒れた衝立の横にだらんと両手をたらして立っていた。
 「衝立が倒れたのか。怪我はないか……おい、飛雀」
 「あ」
 青蘭の目に確認の光がともって、陽子の顔を見つめた。内臓を吐きだすような重い吐息をついて、娘は首を振った。
 「鳥の声が聞こえて……そしたら、なんだかおかしくなってしまったの」
 ホーホケキョ。また、うぐいすの声が流れ込んでくる。
 「あの鳥か。たぶん鶯だと思うけど」
 「うん。鶯よね。だったら違うの。って、何が違うのか自分でもよくわからないんだけど……でも、大丈夫よ」
 心配そうにのぞきこんでくる少女の翡翠の目はまっすぐに澄んでいる。ふと何かが緩んで、青蘭はぽんぽんと赤い頭を叩いた―――大丈夫よ。もう一度言ってみる。
 「主……翔鷹さま。あれを」
 浩瀚が倒れた衝立の向こうにあらわれたものに注意を促した。重厚なクジャクを彫り込んである分厚い壁がそそりたっている。その壁に和紙が貼ってあり、和紙には漢数字で「三」とだけ書かれてあった。
 「三ってなんだ」
 「一、二、三の三でございます」
 「それぐらいはわかる」
 「おや、さようで。ご無礼つかまつりました」
 青蘭は室内の衝立を勘定した。八枚あった。
 「『一』から『八』まで紙がありそうね。ためしにもうひとつ、どけてみましょうか」
かたん。やはり現れた頑丈そうな壁に、今度は「七」と書いた紙が貼ってあった。
 「『一』を探してください」
 浩瀚が他の衝立をどけながら言う。順番に並んでいるわけではなさそうなので、とりあえず手当たり次第の衝立を動かす羽目になった。
 「あったぞ。『一』だ」
 両手をはたきながら陽子が呼んだ。その和紙は窓辺のすぐそばの、紗のなびく几帳の横に貼ってあった。梅の香りがつんと濃く匂った。風が少しきつくなってきたようだ。夜明けが近いのかもしれない。
 「この壁に出口はないか。探してみてくれぬか、飛雀」
 「ええ」
 青蘭はざっと壁を眺めまわしたが、首を振った。
 「なさそうよ。風の渦がないもの」
 「『一』じゃなくて『八』じゃないか?最後の数字だし。ほら、あれ」
 さっき動かしたばかりの衝立の裏、「一」のすぐ左隣の壁には、「八」の字が躍っている。しかし浩瀚は難しい顔で眉をひそめた。
 「『八』はおそらく、ひっかけですよ。『はち』という音は虫の『蜂』に通じます。追手が来るとしたら、たぶんあそこから来ると思いますね」
 「そんなもんか?」
 「そんなもんです。ほら」
 浩瀚が指差すうち、「八」と書かれた紙が急に、強風に煽られたようにはためいた。と、その紙の裏あたりから、しわがれた男の声が陰々と響いてきた。
 「蜂蜜はあるかのう」
 「ございませぬな」
 しれっと浩瀚が答えるのに、しわがれ声は納得いかぬ様子で続けた。
 「あると思うたがなあ」
 陽子はもう少しで、あるよ、と瓶の並んだ座卓を指差しそうになって口を押さえた。こういうことは浩瀚にまかせておいたほうが賢明だ。
 「蜂蜜を所望じゃ。無いなら探しに、蜂を使いに出そうかのう」
 「こちらないは、あいにくと―――たしか、『七』の方角にあるとお聞きしましたかな」
 「おお『七』か。ではさっそく参ろう」
 とたん、「七」と書かれた和紙のある壁に、無数の礫がバラバラとぶつかったような音がした。音がするたび、あんなに固そうだった壁は盛り上がったり凹んだり、柔軟にその表面の形を変えたが、壁を突き破って何かが出てくる気配はなかった。
 「だましたなあ」
 「七」の壁裏から、また例のしわがれ声がした。
 「こっちからは出られぬわ。口惜しいなあ」
 「はて。では『三』の誤りでございましたか」
 「『三』か。さっそく参ろう」
 再び、「三」と書かれた和紙のある壁が泡のように沸き立ったが、「七」のときと同様にやがて静まった。同じことが他の数字、「五」「二」「六」「四」と繰り返された。しわがれ声がして浩瀚が答え、壁に何かがぶつかる音がして静まる。やがてとうとう「一」だけを残すのみになった。
 「『一』か。これで最後じゃな。さっそく参ろうかのう。蜂蜜はあるかのう」
 青蘭が出口がないと言い切った「一」の壁だが、もしも穴があったとしたら、そこからすかさずあの黄金色の虫が這い出てくることは想像に難くない。陽子はすでに水禺刀を正眼に構えている。
 「来たぞ」
 壁のうねりはひときわ激しかった。つぶつぶと豆のような起伏が表面に浮かんだかと思うと、豆粒は縦横無尽に壁の皮一枚下を這いずりまわり、飛び立とうと蠢き、豪雨の湖面のようにざわめいた。ごうごうと吠えたけるような風の音がする。それに呼応するかのように、梅の香りを運んでいた風も、今や几帳の布を床と平行に舞いあがらせるほどに強く吹きつけてくる。はたはたと紗の布の下に結ばれていた紫色の飾り紐が鳴った。紐は生き物のように踊って、束ねた端で座卓の上の細筆をひっかけた。筆は床に転がった。
 (……ああ)
 ふいに陽子は出口の扉を開く方法がわかった。
 (閉じ込めるために作られた花満豊塔)
 (出るには、中の人間が鍵を造る必要があるんだ)
 陽子の様子をちらりと目の端におさめた浩瀚の、その薄い口の端がわずかに上がった。
 「出られぬのう。そちらには入れない。ああ口惜しい。空腹じゃ。蜂蜜が欲しいのう」
 しわがれ声に地団太を踏んでいるような足音が混じる。諦めきれず、ひとしきり口惜しい、口惜しい、何度も繰り返しつつも徐々に声は遠ざかっていき、吹きしく風もおさまっていった。
 曇天の空を一閃して朱色の陽光が差しそめたとき、「一」という紙の下は、また頑丈で硬い壁に戻っていた。手のひらで撫でてみると、どうしてこれが動いたかと思うぐらいにかっちりとした木肌である。
 「追っ手はまいたようですね」
 「まいたけど……あたしたちも出れないんじゃなくって?入れないということは出れないいうことでしょう。どうやったら次の楼へ飛べるのかしら」
 途方に暮れた様子で、青蘭は周囲の壁をぐるりと眺め渡した。そして、たしかにここはよくできた牢獄なのだわと思った。
 陽子は落ちた筆を拾ってきて、毛先に墨を含ませた。浩瀚は片眉をあげて満足そうにそれを見守った。どうぞ、と恭しい仕草をする男をひと睨みしてから、青蘭を手招きする。
 「扉をあけるぞ、飛雀」
 「ええ?どうやるの」
 「飛ぶ準備は万端だろうか」
 「飛ぶのはいつだって大丈夫よ。でも扉って……」
 「簡単だ。書けばいいんだよ」
 たっぷりと墨を吸った毛先を「一」の上に押しつけ、まっすぐに下へ引く。「一」は消え、「十」となった紙が梅の香りにひらりとなびく。
 「『十』は「と」で、「と」は「戸」につながるんだと思う」
 「お見事です」
 珍しく浩瀚に褒められて、照れて筆を持ったまま頭をかいた陽子の腕を、「きゃあ、結髪に墨がつくでしょ!」と青蘭が掴んで止めたとき、ふわっと風が香った。夜の匂いがする。窓から吹き込む風ではなく、壁から吹いてくる風だ。
 瞬く間に空気が渦を巻き始める。壁に張られた紙がはらりと床に落ち、そこには小さな穴がぽっかりと姿を現した。扉が開いたのだ。と同時に、ぶんぶんという蜂の羽音が遥かかなたからこだまのように、かすかに響いてきた。
 「さあ、虫が来ないうちにはやく!」
 大きくなる羽音に背を押されるように、三人は一緒になって穴へと頭から飛び込んだ。漆黒の穴は、雪雲の褥ように冷たく湿っていた。強い梅の香りと夜の匂いとが穴の中までせめぎ合っている。背後から、ぶんぶんと不穏に唸る羽音はいっそう音量を増していくようだ。
 目の奥にちかっと星がはじけて、何事かと陽子はうっすらと瞼を開いた。とたん、はるばるとした夕空に輝く星々、長く伸びる銀色の大河を見たような気がした。ちかっという光は河反射した何かのひかり……あるいは、河の付近から立ち昇ってくるもののようだ。しかしすぐに光景はよじれて、何が何やらわからぬまだらの色合いとなって消えた。回転は速度をあげ、陽子は今度こそ硬く目をつぶって渦に身を任せた。

 どっどっどっど。
 大地が振動している。臥している腹が妙に生温かった。ドロドロと鼓膜を打つ地鳴り、地底の奥の奥、さらにもっと奥の方から伝わってくる不気味な震えが、皮膚を通して骨を揺らし、内臓を不規則に押してくる。腐った卵に似た匂いがつんと満ちている。このきな臭い匂いには覚えがあった。中学の修学旅行で、箱根の地獄谷を訪れたことがある。長い髪をきっちりとおさげに結った陽子は、女の子らしいレース付きのハンカチで鼻を押さえたものだ。温泉の、硫黄の匂い。
 ちゃりん、と金属が鳴った。刃物か、と瞬時に身体が覚醒する。背の反射にまかせて飛び起きた。妖魔に追われて山をさまよったあの日からずいぶんと年月がたったけれども、あの時、骨の髄で覚えこんだものはいまだに身体に沁みついて離れない。腰の水禺刀に手をやって身を低く落とすと、目の前にころころと黄金色の丸いものが転がってきた。さては追手の虫かととっさに切りつけると、きーんと澄んだ音がして丸はあっさり真っ二つに割れた。半月型になったそれを拾い上げる。見たこともない文字の描かれた金貨だった。
 「なんだろ、これ」
 独り言のつもりだったが、すぐ後ろから返事が返ってきた。
 「盗賊の財宝のようですよ」
 振り向くと、緩やかな岩のアーチを背にして浩瀚が立っていた。片手に金貨、もう一方の手に不思議な宝玉を持って、重さを計るように手を上げ下げして比べている。茶褐色の岩肌に囲まれた、広大な洞窟の中だった。
 陽子は背を伸ばして上を見上げた。天井はここからはうかがえぬほど遥か遠くにあり、黒く霞んだ闇の中に消えていた。腹這いに倒れていたのは、ちょっとした広場になっているひらけた空間の、ほぼ中央に近い場所だった。むき出しの岩はかなりの地熱を帯びていて、立っているだけでもじわりと足裏が温もってくる。かなりの湿気があるため、岩の表面はしっとりと水滴を浮かべ、汗をかいた男の肌のように見える。気をつけないとうっかり滑って転びそうだ。陽子は何度か足をおろして岩の感触を確かめた。
 広場をぐるりと囲むようにして、岩壁を丸く掘り抜いた壁穴がいくつもあいている。穴といってもそれぞれが部屋といえるほどに十分な広さがあり、もっぱら貯蔵庫として使われているらしく、ひとつひとつの壁穴には奥の方までさまざまなものがぎっしりと積めこまれ、入りきれないものはアーチを越境して広場へにまで積まれていた。
 浩瀚が拾ったのは、そうして山からこぼれおちたもののひとつらしい。金貨、宝玉の他にも、翡翠細工の美しい箱や、螺鈿の杯、白磁の壺、女人用の紅玉の腕輪、丹念に磨かれた白銀の馬具などもある。
 洞窟内は何色ともはっきりしない、陽炎のようにゆらめく光の波にあまねく満たされていた。明かりとりに切られた窓も見当たらず、燈籠などが鎖で吊るされている様子もないのになぜだろう、と頭を巡らせていると、ふと、大きな丸い珠の上に覆いかぶさるようにかがみこんでいる青蘭の姿を見つけた。
 嬉しそうに微笑んで目を閉じ、まるで赤ん坊を抱えるようにしてやわらかに珠を撫でている。珠は、どういう仕組みになっているのか、奥芯からゆるゆると発光してた。油を燃やした焔の灯りよりはよほど優しく穏やかで、ほっこりとぬくもりが感じられる。
 青蘭がかかえているのはタンポポの花弁を集めたような黄色い光の珠だった。改めて周囲を見まわすと、岩床のあちこちに同じような珠が無数に転がっていた。ざっと目測で30ほどもあろうか。おのおの異なる光を発していて、萌え初めの若葉が陽に透けた色、朝焼けの空に浮かぶ紫雲の縁飾りの色、薫風を溶かした早瀬の色、苔に包まれた朽木の色など、空気に鮮やかな色の粒子を吐きだしている。色は、上へ昇るにつれておのずと混濁し、また新たな色を産んでは、目も綾な極彩色の川となって殺風景な岩壁を染め上げていた。
 「また変わったところに飛んだな」
 派手なんだか地味なんだか、いまひとつわからん洞窟だと陽子が呟く。
 「御意」
 「さっきから何を測ってるんだ?」
 青蘭の様子が気になりつつも、浩瀚が金貨と今度は別の宝玉を拾っては上げ下げし、考え込んでいる側にそっと寄ってみる。浩瀚は陽子の手首に持ち上げ、手のひらにぽとんと金貨を落とした。ぐるりを縁どる端はぎざぎざしていて、表に見慣れぬ文字、裏に小さな鳥の絵が描いてある。文字は画数が多すぎて、陽子にはお手上げだった。せいぜいこんがらがった刺しゅう糸の塊にしか見えない。
 「この字、なんて書いてあるんだ」
 「『貫』の古字です。重さの単位でございますよ」
 「一貫ってどれぐらい?」
 「ちょっと大きめの赤ん坊ぐらいでしょうか」
 赤ん坊。大きさでいえばちょうど青蘭が抱え込んでいる光る珠ぐらいかと見やると、娘は小刻みに身体を揺らしては珠の表面に頬を擦りつけている最中だった。小声で何かぶつぶつと言っている。陽子はちょっと心配になって浩瀚の袖を引いた。
 「なあ。青蘭は……どうしたんだろう?」
 「彼女はきっと灯りが好きなだけですよ。それより、こちらを」
 まだ何か言おうとする陽子を押しとどめて金貨をとりあげると、かわりにふっくらと丸い薄い桃色の宝玉を陽子の手にのせた。
 「重さはどれぐらいだと思われますか。さきほどの金貨より重いとお感じになりますか」
 「……いや」
 さっき浩瀚がしていたように、宝玉を持った手を軽く上下に振ってみる。重くない。というか、重さも何も感じない。鳥の羽と言われてもそうかと納得するし、逆に鉄の塊といわれてもそうかと思うだろう。手のひらは形ばかりは目に鮮やかな丸い空虚をかかえていた。
 「なんだこれ。重さがない」
 「やはりさようで」
 浩瀚はため息をついた。そして、これは難儀です、とも言った。この有能な臣下の口から難儀などという単語が漏れるのを聞いたのは初めてな気がして、陽子はびっくりして目を見開いた。
 「この楼を出る鍵はおそらく、『重さ』です。これだけ『貫』の金貨が散っていますゆえ、意図は明白。しかし今おっしゃられたとおり、ここにあるものは重さが無い。一貫だろうが二貫だろうが、測りようがないのです。この宝物の山に埋もれたどれかひとつにだけには重さがあって、それが次の楼へ飛ぶ出口となるのでしょう。が、これだけたくさんある宝物をひとつひとつ探すというのははっきり申し上げて無理です。その間に追手が追いつくでしょう」
 「さっきの蜂か」
 「はい。おそらくもう蜂の姿はしていないでしょうが」
 「やれやれ困ったな。……飛雀。おい」
 幸せそうに微笑んで揺れている娘の側にひざまづくと、やさしく肩を叩く。乱れた空色の髪の毛をかきあげてやると、うっすらと閉じたまぶたを開けた。細い錐ほどの幅からこぼれてくる瞳の光に、陽子ははっと息を飲んだ。
 黄色い、きらきらした……、この珠の光が反射しているのだろうか。いや……優しい穏やかな瞳、涼しげな水の色であったはずのその場所が、黄金色にぬめってはいないか。
 「飛雀!」
 強く肩を掴まれて、青蘭はびくっと身を起こした。
 (何を……していたのかしら)
 顔の下から差し込んでくる黄色い光にうつむくと、大きな珠がふんわり輝いていた。両手でかかえこんでいる。いま、自分は何をしていたのだろう。とんと覚えがなかった。のぞきこんでくる翔鷹は、ずいぶんと険しい顔をしていた。
 「翔鷹。あたし、どうしたのかしら」
 長いまつ毛に縁どられた瞼の帳があがると、雨に湿った梅雨草の、濡れそぼった青色をした目があらわれた。隅々まで探しても黄金色の欠片もないことに、陽子は肩から力を抜いた。やはり光の加減だったらしい。
 「飛び続けて、だいぶ疲れたんだろう。すまないな」
 「ううん、飛ぶのは好きなのよ。疲れたりしないわ」
 「……悪いが空気の渦を探してくれないか、飛雀。この宝物の山のどこかにあるらしい」
 「渦ね」
 目を閉じて、空気の流れに神経を集中する。視界が遮られると、とたんにドッドッドという大地の震動が心の臓を揺さぶるのに気を取られた。地熱が潮のように押し寄せ、また引いていく。肌に鳥肌をたてるほどの湿気と、きつい硫黄の匂い。わずかな渦を感じ取るのは、手練れである青蘭をしても至難の業であることがすぐにわかった。
 (……?)
 不意に、地面が歪んだ。地軸が左右にたなびき、また中心に引っぱられてまっすぐに戻る。
 「どうしかしたか?」
 「楼が歪んだわ、今」
 また揺らいだ。岩壁が奇妙にぶれて見える。くわっと岩壁に亀裂が走り、瞬きするほどのほんの一瞬、どこへ通じるともない奈落が足元にぱっくりと口を開けたが、次に目を開けたときにはもう、また地面は何事もなかったかのように元通りになっていた。
 内臓を突きあげる不穏な地鳴りと、鼓膜に爪を立てるような高音が響き、さすがに陽子と浩瀚も気づいて、てんでバラバラな方向を不安げに見上げた。
 どこか遠くから、空間の湾曲を伴う大きな体積のものがこちらに向かって接近してくるのを青蘭は感じ取った。
 (―――来るわ)
 かなりの大きさの別の楼が接近してきているのだと気づいたとき、青蘭の身体を戦慄が駆けのぼった。
 だ―――追手は楼の接合をするつもりなのだ。
 「つながせては駄目よ!一気になだれ込んでくるわよ」
 「どうしたらいい!」
 青蘭はあわただしく周囲を見回すと、側に転がっていた青磁の壺をひったくった。地面に打ち付けてこなごなにすると、大きめの破片で地面に紋様を描き始めた。大きな円の中に複雑な文字が互いにからみあって、唐草模様のように見える。
 陽子はこの円陣に見覚えがあった。堯天のあの古い妓楼に踏み込んだ時、足元にはちょうどこんな円陣が描いてあった。青蘭の素早い指さばきは、瞬く間に三つの円陣を洞窟の地面に作った。
 「出入り口の渦が見つからないなら、あとはこの円陣で逃げるしかないわ。できるだけ使いたくなかったのだけど……この楼は私が作ったものじゃないから、どこに飛ばされてしまうのかわからないのよ。とても危険なの。もしかしたらとんでもないところに飛ぶかもしれないわ。三人一緒は無理、こんな急ごしらえの円陣では不安定だから、一個の円陣で一人が飛ぶのがせいぜいだと思うの。とりあえずいったんバラバラに逃げて、あとで合流するしかないわ」
 青蘭はきっぱり言った。両の耳先に揺れていた小ぶりの硝子玉の耳飾りをはずすと、陽子と浩瀚に一個ずつ渡してよこした。
 「目印にこれを持っていて。それぞれの移動先でやたらと動きまわらないでね。すぐにあたしが迎えに行くから、それまでじっと身を潜めて待っていて」
 どおん、と楼全体に深い地鳴りが走った。三人は立っていられず、地面に手をついて体を支えた。洞窟の空気につんと金属を焦がすようなきな臭い香りが混じり、震えの源からただならぬ気配がただよってくる。早瀬が流れ下るのに似たさやさやという微かな水音が鼓膜をくすぐった。
 「接合されたわ―――来るわよ」
 奥の暗がりにぼうっと明るくなった。生臭く温かな波が光とともに押し寄せて、山と積まれた宝物がひときわ燦然と輝きをふりまいた。
 ふいに、地面にぱくりといくつもの裂け目があいた。たちまち躍り出た黄金色の光の矢は、天井に向かって幾筋もたちのぼる。宝物の絵が描かれた紙をハサミで簡単に切りこみをいれたような、偽物めいた光景だった。裂け目から熱風がたたきつけてきたかと思うと、湯気を立てた溶岩があふれ出て、陽子たちの方へと驚くほどの速さで流れだした。
 「急いで!」
 青蘭が叫んで陽子の背をつきとばした。浩瀚がその手を支え、自らも隣の円陣の中央に立つ。
 「虫が……」
 つかの間、見間違えかと目をこらしたが、そうではなかった。煮えたぎる灼熱の溶岩の中に、千もの足を蠢かせながら長い体をくねらせている、ムカデに似た生き物が無数に絡み合い、身をよじり、のたうっているのだ。ゼラチン質の体は半透明で、溶岩の色を透かせて朱色にぬめっている。ぞっとする眺めだった。
 「行くわよ、目を閉じていて」
 青蘭の切羽詰まった声と同時に、視野がすとんと切れた。もう慣れた暗闇の渦に飲み込まれる。浩瀚が手を離すのが感じられた。すり鉢状の渦に放り込まれる寸前、ちらりと透明なムカデの足がひらめくのが見えたような気がしたが、それもすぐに消え去った。
 闇の中で幾つもの星が明滅する。そういえば、と陽子は思い出した。最初に、妓楼で円陣を踏んで飛ばされた時、自分は確かに誰かの名前を呼んだ。こうして改めて円陣を踏んでみると、あの時呼んだのが誰の名前だったのか、わかるような気がした。指先の寂しさがその名を語っている。
 ぐるぐる回りながら、唇は微笑を浮かべて、もう一度、そっとその名前を呼んだ。


 
 
 
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