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「 楼 」 〜7〜
 

 青蘭が目をあけると、そこは白い寝台の上だった。横たわって手足を投げ出し、ぼんやりと天井を見つめている自分がいる。もとの妓楼の部屋にもどってしまったのかと一瞬思ったが、すぐに打ち消した。寝台は硬い木製のもので身動きするとギシギシと不穏に軋んだし、敷布はというとシミの浮いたぼろ布、その下に藁がのぞいているという粗末さだったからだ。
 狭い部屋だった。いや、部屋なのだろうか。ぐるりを敷布と同じような白い布で覆われているが、手を伸ばせば触れるほどの広さしかない。布を絞って天井でひとくくりにしてあるが、頂点の部分だけ小さな穴があいていて、そこから黒い夜空が覗いて見えた。どうやらテントのような簡易の寝所らしい。外は風が強いらしく、ひゅうひゅうと、布の間をすり抜けるすすり泣くような音が聞こえてくる。そのたびに天幕の布は内側へ大きくしなり、青蘭の頬にふわりと触れるほどだった。
 まくれた白布の裾から、短い青草の地面が垣間見える。枕元に置いてある小ぶりの燈籠を手にとると、静かに布をおしのけ、隙間から外をうかがった。
 水の匂いがつんと香る大気は澄んでいる。大きな湖か、川があるらしい。塩気はないので海ではない、と青蘭は思った。どこか遠くで、わあわあと大勢の人が叫ぶ声が風にのって流れてくる。何事だろう、と胸が騒ぐ。
 それにしても風が強い。びゅっとたたきつけてきた突風に思わず目をつぶった青蘭は、またそっと瞼を開けてみてぎょっと後じさった。目の前の青草の上に、さっきまではなかった男の足が、硬い革靴を履いてにゅっとそびえていた。
 「お。姉さん。まだ灯りがついているのに、一人で起きられたのか」
 予想外に明朗な声が降ってきて、青蘭はおずおずと男を見上げた。雲突くような大男である。さっぱりとした顔に無精ひげ、広い胸部を覆う革の胴衣は武人のものだ。黒い瞳は優しそうで、悪意なくこちらを見つめていた。
 「女の虜囚とははじめてだ。今までのところ全員男だったんだがな」
 「虜囚?」
 「まだその言い方のほうがマシだろ。化け物の餌って言うよりはさ」
 差しだされた大きな手を知らず知らず掴むと、手の平は傷だらけながら温かく、どこか日向の匂いがした。手は、青蘭を荷物か何かのように軽々とテントから引っ張り出した。
 「とりあえずあんたも皆を起こすのを手伝ってくれや。もうあとちょいで全員目覚めるんだ。そうすりゃ光も消えて、化け物も食うものがなくなるからな。あ、俺は虎嘯。あんたは?」
 「飛雀よ」
 虎嘯と名乗った大男は、じゃあ飛雀さん、頼んだぜと言い置いて、その大柄の身体にしては驚くほど身軽に走り去っていった。すぐに灯りのともった天幕をめくって大きな姿が見えなくなる。ひとり歩き出した青蘭は、さきほどから聞こえてきた人々の叫びが何だったかを知った。
 そこは見渡す限り広がっている、夜のしじまの河原であった。ゆったりと横たわる黒硝子のような大河、その両側に無数のテントがぎっしりと固まっている。灯の消えた天幕が夜風にひるがえるさまは、強風にあおられていっせいに白い葉裏をみせる樹木のようだった。
 天幕の間をぬって、わあわあと何かを大声で叫びあいながら、大勢の男たちが走り回っていた。天幕の内にともった灯りがひとつ消えるたび、中から新たな男が飛びだしてきた。そうして人が飛び出すたび、灯りが消えるたびに上空の何か巨大なものが不穏に身じろぎする。空間の鳴動が、箱渡りである青蘭にはぴりぴりと過敏に肌で感じられた。
 恐ろしいけれど、なんだかとても懐かしいものの近くにいるような思いがする。
 体の中で何かがもぞりと蠢いた。
 (怖い。でも懐かしい……)
 矛盾する思いに急きたてられて、青蘭は首をいっぱいに仰向かせ、夜空を見上げた。星の散った黒い空に、大きな黄金色の月がぽかりと浮かんでいる。月は何故だか二つあった。めまぐるしくあちらこちらに場所を移し、映すたびに墨汁色の大気はひどく荒れて、逆巻いた。月の表面を頻繁に、小さな影が横切っている。四足の、しっぽのある獣だ。動きはひどく素早く、獣に翻弄されるように二つの月はあちら、こちらに揺れ動く。
 (あれは―――目玉だわ)
 月ではないのだと気づいた時、体内で蠢いているものがぐっと喉元にせりあがってくるような心地にとらわれ、青蘭は思わずその場にかがみこんで口の中にたまったものを吐きだしていた。黄色い汁が草地に滴り落ちた。窪地にたまった汁の凪いだ鏡のような表面に、千々に乱れながらも不思議な映像が切れ切れに映しだされるのを青蘭は見た。

 ―――お父様が亡くなったよ、青蘭。
 兄の声がする。
 横を向いたの兄の顎の、そのつんと尖った美しい輪郭。あの角度はよく覚えている。たしか父の臨終の時ではなかったか。
 あの時も夜になったばかりの頃合で、窓からのぞいて見えるのは、ただ星を浮かべただけのがらんと殺風景な夜空だ。新月の晩だったので月は出ていなかった。
 立派な浮き彫りのある四柱で支えられた縦長にだだっぴろい部屋、父が息を引き取った寝室だ。ぐるりの調度は重厚でも、壯榻の天蓋の布は拭い忘れて久しい埃がたまっていたし、端がほつれて、房飾りは金の塗りが禿げていた。ところどころ黄ばんで破れてもいる。中央に、かさかさに乾いた老人が掛布もなしに仰臥していた。
 ―――違うわ、亡くなってないわ。お父様は飛ばれたのだわ。
 女の声……・自分と寸分たがわぬ、姉の声もする。
 そういえば己には姉がいたことを、青蘭は雷に打たれでもしたように唐突に思い出していた。なぜ忘れていたのかもわからなかった。兄妹三人、三つ子として生まれ、片時も離れずに育ったと言うのに。
 ―――青椿。そうだ、どうやらお父様は死の間際に、飛んだ。
 兄の顔はいつも右側から横向きに眺めることが多かった。姉は逆に左側から眺めていることが多かったはずだ。兄の唇は薄くて、少し尖っている。尖った唇は苦り切った口調で続ける。
 黄海の近くの街につくりおいた我らの楼ではなくて、何かの生き物の中に飛ばれたようだ。
 ―――よかったじゃない。探しに行きましょうよ、その生き物を。
 姉の声はここのところ極端に朗らかで、妙に耳にざらつく不快な響きを宿し始めていた。
探すことは探さねばならない、と兄は落ちついて言った。ただし父として再度迎えるためでない。
 ―――もう一度殺すためだ。
 姉はたちまち頓狂な抗議の声をあげ、その場で兄と激しく争った。やがて腕力にものをいわせて兄が青椿を抱えあげると、派手な騒音をまきちらしながら部屋から出て行った。地下牢へ行くのだろう、と青蘭は暗澹と思った。奇矯なふるまいの多くなった姉は、ここのところ鎖でつないでいる日が多くなった。
 おそらく、と青蘭は目をつぶる。すでに寄生されているのだろう―――父と同じく。

 吐き気がこみ上げ、内臓すべてを出す勢いで青蘭は黄色い汁を、またえずいた。これは記憶の欠片だ、とむせこみながら思う。虫が食ったはずの、失ったはずの記憶の映像だ。汁はいっとき波紋でさざめき、凪いだときには今度は違う光景になっていた。

 同じような暗い室内。ただし今度はもう少し狭い。家具調度はほとんどなく、床に直接敷いた布団に、やせ細った青年が目ばかりをきろきろとさせて横たわっていた。青蘭は手前にひざをついて、手に小鉢をかかえている。薄い薬湯がわずかばかりの湯気をくゆらせている。
 ―――お兄様。どうぞこれを飲んで。
 兄の尖った顎はさらに細くなり、骨の上に皮を直接貼りつけたような不健康な白さだった。唇の隙間に緑色の液体がいくばくか落ちていったのを安堵と共に見やり、青蘭は衣の袷、ふところに手を差し入れた。
 ―――父は、おそらく金剛山に多数生息するヤマネコの中の一匹に飛んだのだと思う。白い猫だ。
 裸の木をゆきすぎる冬の靄に似たかすかな音で、兄は青蘭に話しかけた。
 地下牢から脱走した青椿は自分を人買いに売って、父を迎えに黄海に行った。虫はもう、脳を支配するところまで侵していた。
 気付かなかった、と兄は吐息をついた。まだもうしばらくは大丈夫だろうと思っていたのだが。
 青蘭の手には、もう小鉢はなかった。かわりに、きらきら光る鋭い短剣が握られていた。
 ―――お兄様は、やはりお父様とお姉様を殺すおつもりなの。そのお考えで変わりはないの。
 ない、と兄は唇だけを動かした。虫は、黄海の生き物だ。
 ――― 一族の寿命を長らえるため、こっちの勝手に使ってよいものではない。また使えるものではない。こっちが操られるだけだ。虫は増殖する。そうして、やがて堯天にのぼろうとするだろう。それだけは阻止しなければならない。
 そうね、と相槌を打つ。
 虫はとりついた生き物の身体を、意志を喰らいながら長い寿命をもたらす。父は滅びゆく箱渡り族を少しでも永らえさせるため、禁忌をおかしてまで虫を飼った。それがすべての始まりだった。
 青蘭は哀しく、愛しくてならない男を見下ろした。
 ―――では、お兄様。私にも虫がついていたことに、なぜお気づきにならなかったのです。
 振りかざした剣に思いのたけの髄を込める。刃身はにぶい光をはなつ。
 ―――もう、虫は勝手に私の手を動かすことができるほどになりました。ほら。
 人の肉はかくも柔らかいものだとは思っていなかった。ずぶり、と肉が鳴った。男の胸の肉はもっと強靭なものだと無意識に想像していたが、刃先は意外なほどにやすやすと肋骨の間を滑り、ゆっくりと鼓動を刻んでいた心臓を真正面から縫いとめた。兄には、肉と呼べる部分がもうほとんどついていなかったのだと、赤くぬめる手のひらでさすってみて初めて知った。
 ―――気づいていたとも。もちろん。
 赤い玉状の血を噴き出しながら、兄は囁いた。断末魔の中でも不思議と泰然と見える骨ばかりの姿を、青蘭はうっとりと見つめる。ごぼっと朱色の川を流して、大丈夫だ、というように兄はわずかにうなづいた。
 ―――おまえも、この兄が殺してやる。
 ―――父も、青椿も、おまえも。みんなだ。
 ―――家族たちはこの俺が始末をつけてやる。虫に支配されていない最後の箱渡りとして。
 待っていろ、という息が、兄の人として最期の言葉だった。
 必ず来てください、と息を返したが、触れた唇は早くももう、ぬくもりを消し始めていた。
 脳裏にぼんやりと小さな鳥の映像がよぎって、兄もまたいまわのきわに飛んだことを知った。瑠璃の羽をした可愛い小鳥だ。おそらく、あの鳥の中に兄は飛びこんだのだろう。憑かれた家族を虫ともども殺すという責任を果たすために、いつか青蘭のもとに帰ってくるに違いない。

 ひととおり汁を喉の奥から絞り出すと、ようやく吐き気はおさまった。口元をぬぐって、青蘭は空を見上げた。黄金色の目をした白く巨大なヤマネコが―――いや、あれは父だ。たった今思い出した。父が、犬に似た妖魔と激しく争っている。機敏に飛びまわる妖魔に手を焼いて、牙をむいたり手で払ったりとびかかったり、いらつくたびにこの広い河原やこことつながっている楼の連結すべてがぎしぎしと悲鳴をあげている。
 あの目はまぎれもなく虫の玉だった。しかしじっと眺めると、恐ろしいことにほんのごくわずか、父の残骸がそのまなざしの底に潜んでいた。
 父はいつも、兄と一緒の卵果に入って生まれた娘たち、青椿と青蘭をあのような目で見たものだ。父は兄だけを溺愛し、いつだって兄にしか興味がなかった。
 虫に食われながらも、なお心のどこかの部分だけは死守して残し、父はこの広大な楼を、虫の餌場をつくったのだ。死守したのは、いつか堯天にのぼってみせる、箱渡りが栄光に包まれて金波宮に迎えられるというただそれだけの野望のことだ。父の凝り固まった妄執のすさまじさに体の芯から冷える心地がする。そして何より、青蘭は自分の意志で妓楼に身売りしたつもりだったけれど、結局は身体の中にすでに巣くっていた虫に支配されるまま、より多くの餌を引き寄せる手助けをしただけだった。父はそのために自分を招き、ここへ呼んだのだ。
 食い散らかされてすっかり穴だらけになった記憶の欠片は、いっそ戻らなかったほうが幸せだったかもしれない。―――もう自分には、健康的な陽の香りのする汗をかく日は、二度とこないのだ。
 目の奥が痛んで、青蘭は瞼を押さえた。ずくずくと山と谷のある極端な痛み、後頭部から前の方へとじわりと押し出されるような痛みだった。
 (時間がない)
 青蘭はふいに、そのことに気づいた。自分が自分でいられる時間はもうほんの、あとわずかしかないのだ。
 引いては返すたびに大きくなる目の痛みは、心の警鐘をめいっぱいに打ち鳴らした。背ほどの長さのある棒がころがっているのを、青蘭は急いで抱え込んだ。どこか広い場所を、と頭をめぐらせて、すこし向こうの前方に草の生えていない地面がむきだしになっている空き地があるのを見つけて走って行った。全速力だった。棒の重さなどにかまっていられない。
 柔らかな土に背負った棒を打ちつけ、大きな、できるだけ大きな円を描く。円陣だ。天幕から叩き起こされた人間たちはもうかなりの数となって、灯りの消えた幕間を駆け抜けたり、天を見上げてうずくまったり、河原を右往左往しては大声で叫んだりしている。ここはどこだという悲鳴、家に帰してくれと喚く声に混じって、ひときわ高く、落ちつけ、集まれと叱り飛ばす声もする。
 地上の喧騒と天上の混乱の中で、複雑に入り組む文字と紋様を間違えないよう、扱いにくい棒で描いていくのは思ったより体力の要る仕事だった。夜の肌寒い空気などどこかへ消しとんでしまい、額にはふつふつと汗が浮いてきた。
 ―――陽の香りのする汗ではないけれど、こういう汗も案外悪くないわ。
 手のひらも汗ばんで力を入れるたびに棒がぬるりと滑るのを押さえながら、青蘭はひたすら描き続けた。
 「おーい、飛雀!」
 さきほど虎嘯と名乗った大男が、こちらへ駆けてくるのが見えた。頭一つ抜きんでて高いので遠くからでも良く目立つ。派手な衣装の田舎くさい女を一人かたわらに連れている。青蘭は迷った末、円陣の最後の仕上げの要の位置に一つだけ特殊な文字を付け加えた。かなり難しい技で、これが使えたのはかつて父の他には兄だけだった。青蘭はこれが初めてだったが、もはや運を天に任すしかない。
 「飛雀さんよ、悪いがこの娘と一緒にいてやってくれんか。……う、わっ?なんだこれは」
 「駄目、まだ入らないで、踏んじゃ嫌よ」
 すぐ近くまできた虎嘯にたたらを踏ませて、青蘭は早口で言った。
 「この円陣を使えばきっとここから出られるわ。起きた人達を全員集めて、掛け声と同時に一緒に入ってちょうだいな、いい?中の文字を消さないように注意して。特にこの文字は大事にしてね。苦労して書いたんだから」
 「円陣か。なんだか似たもんを見たことがある気がするが」
 「でしょうね。箱渡りがよく使うのよ」
 「箱渡り?」
 「いいから早く。長くは持たないわ」
 私も、それからこの楼の世界も。青蘭は口にせずに胸中だけで呟いた。
 どおん。
 すさまじい轟音がとどろいて、空が割れた。一瞬、痛いほどの白光が空を射抜いて、えぐりとる勢いで地面に突き刺さった。大地は揺さぶられ、ごうごうと鳴った。河の水が不気味にうねって、沸騰したようにいっせいに泡立った。目もくらむような雷鳴がすぐ近く、河にかかる橋のたもとに落ちたのだ。
 轟音の余韻の中に、不快な金属音のような、苦痛にのたうつ獣の叫び声が溶けている。空に浮かぶヤマネコの右目を、ついに妖魔がつぶしたのだ。ぽとぽとと、溶岩に似た黄色い雨が頭上から降ってきた。一滴がかなり大きめで、地面におちるとぬちゃっと嫌な音がした。
 「虎嘯、急いで皆をここへ!雨に触らないよう言って!」
 「よし!」
 虎嘯という男は以前に軍の長などの経験があるのだろうか、人を統率してまとめることにずいぶんと慣れているようだった。不規則に落下してくる雫を器用によけながらも、瞬く間に号令をかけ、使える人間をうまく手足として使いながら、かなりの短時間でほとんどの人間たちをこの円陣のある空き地へと集めてきた。見事な手際だった。
 「いいわ、じゃあ行くわよ、せーの、でみんなで円陣の中へ。足は持ち上げて歩くこと。せーの!」
 全員が円陣に入ったのを見届けると、青蘭はふところから短剣をとりだした。兄を刺したあの短剣だ。今またこうして役に立つことがあるとは思ってもみなかった。
 「飛雀さんよ。早くおまえさんも入りな」
 虎嘯が言うのに手を振って、青蘭はさっき最後に付け加えた複雑な文字の上に手首をかざした。
 ―――どおん。
 また落雷だ。今度は円陣のすぐ横の土手の一本杉に落ちた。たちまち半分に裂けた幹からめらめらと焔が吹きあがるのに怯えて浮足立つ人々、両手をあげてそれを鎮める虎嘯の姿を横目にちらりと見て、青蘭は一気に手首に短剣を突き刺した。
 あっさりと動脈が切れた。ひしゃくで水をまくかのように大量の血が飛び散る。苦労した要の文字にどっとばかりにしたたり落ちていく血液には、ほんのわずかだが、青いものが一筋混じっていた―――虫の体液だ。
 眩暈を押さえてその場にうずくまりながら、青い血などで円陣は果たして正しく用をなすものだろうかとわずかな懸念がもたげるのを感じたが、たちまち地面に描いた溝が盛り上がり、次々に輪とつながってじんじんと小刻みに震え始めた。色のない光で空気の一粒までもくっきりと浮き立たせながら、輪の中に佇む大勢の人の姿が霞み始めたのが見えた。
青蘭は安堵のあまり、体の中がからっぽになったような気がした。
 (成功だわ)
 要となる文字を間違いなく描いた上に、力のある箱渡りの血液を大量にそそぐことで可能となるこの技を―――全員が一度に安全に飛ぶことができ、追手に尾行されることはなく、以後楼に閉じ込められることはなく、中にいたときの不愉快な記憶はすべて忘れることができる技―――今さらながら、はじめて己ひとりの力でこなすことができたことに、青蘭はほっと溜息をついた。
 (よかった。これで一度に全員が飛べる。軌跡も残らないはず)
 目の奥を押す痛みはすでに割れ鐘をがんがん打ち鳴らすほどに強まっていた。青蘭はくずおれた人形のように草原に寝っ転がった。―――もうすぐだ。あとはじきに来てくれるだろう兄に任せれば良い。それまで、己の目で見えるほどのことはすべて見ておこう。
 どく、どくと脈拍につれて徐々に腫れはじめた瞼を無理に押し上げると、片目のつぶれた猫が怒り狂って妖魔を追い回している光景が見えた。
 背景の空はもう真っ暗ではなかった。
 なにもないところにぽかりとトンネルがあいたかと思うと、穴の向こうに無人のままの豪勢な妓楼の寝所がのぞいた。その穴に重なるようにして別に四角い骨組だけが浮き出して、建設途中とおぼしき楼の輪郭がはらりと粉と化す。水平線に近いところでは、山紫水明の麗しい景色が絵画のように切りとられて透けているし、水車小屋の水車がごっとんごっとん米をついている音が、どこからともなく響いてくるのが聞こえる。
 楼をつくった主の異変に感応して、楼の連結がゆるんだ世界は相互にさまざまに乱れはじめていた。
 (翔鷹はどこへ飛んだのかしら)
 手のひらで目を押さえながら思う。無事にいてほしい。あの男の人、穿龍さんも。ああ、迎えに行くと言ったのに、自分はもう行けそうもない。ごめんなさい。
 ―――もうすぐだ。あとわずか。
 どこからともなく、鳥のさえずりが聞こえたような気がして、青蘭は微笑んだ。

 

 ずいぶんと細い道に、浩瀚は立っていた。
 細い上に殺風景だ。道は白く、壁も白い。空気はぬるく、陽の角度からして、ちょうど正午を過ぎたぐらいか。うらうらとした陽気だった。
 男としてはさして大柄ではない浩瀚が両手を広げてみても、手首から先が伸びきらずにつっかえるほどの幅の道である。足元にはレンガが隙間なく敷き詰められていて、塵ひとつ、伸びる雑草一本なかった。
 少しは風でもあればよいのに、と上を見上げると、両側にそそり立つ真っ白な壁はちょうど二階建ての家ぐらいの高さでぷつんと切れて続いていた。壁と壁にはさまれた隙間から、洗濯したばかりのような青空が筋になって流れているのが見える。道は少し進んだ先で同じ白い壁に突き当たり、左右のどちらにも曲がれるT字路となっていた。
 ―――迷路。
 浩瀚は面倒くさそうに前髪をかきあげた。市井の衣に身を包み、黒髪を後ろに無造作にたばねただけの彼は、それだけでもずいぶんと雰囲気が違って見える。今はさらに、剣呑さの膜に覆われている。
 (呑気にちんたらと迷路で遊んでいる気分ではない)
 さきほどの円陣で、やむなく陽子と離れなければならなかったことが浩瀚の不機嫌さの唯一の理由である。青蘭という娘は動かずにそこで待っていろと言っていたようだが、もとから従うつもりはさらさらなかった。腰に巻いた雑嚢からおもむろに鉤のついた紐をとりだすと、ひょいと壁上に放った。鉤は簡単に壁のへりにひっかかった。紐をつかんで身軽に壁を登りきると、浩瀚は腰に手を当ててざっとあたりを見回した。
 不思議な楼だった。
 ひどく人工的で優雅さとは無縁である。白い壁と白い道からなる素っ気ない迷路は、視界の届く果てまではるばると、その幾何学模様の版図を広げていた。
 水平線は見当たらない。どこが出口とも判然としない。ただ青い空が蓋のようにかぶさっているだけで、虫一匹飛んではいなかった。風もなければ音も無く、ただしんと静まり返っている。
 壁の上の細い幅を無造作に歩いて行く。生まれたときからその幅で暮らしてきた者のように、体幹は微動だにせず、落下の気配はない。いくつもの曲がり角を長い足でまたぎながら、迷路の中心部へ迷いなく進んでいくと、目の端に何かがちらりと映った。白い世界の中でそれは異様に黒々と際立って見えた。立ち止まり、下の道へ飛び下りた。
 そこは白壁に囲まれた行きどまりの角だった。
 つきあたりの壁の中心になにやら棒のような模様が黒い塗料で描かれている。中央がふっくら膨らんでいる楕円形をさらにひきのばしたような奇妙な記号だった。顎に手を当ててしばらく眺めていた浩瀚は、またもや雑嚢に手をつっこみ、竹墨を取り出した。楕円形の両脇に鳥の翼を描き足し、輪郭をとってから翼の中を真っ黒く丁寧に塗りつぶすと、とたんに楕円の図形が数度羽ばたいた。かすかな風がおこり、男の頬をかすめてほつれ毛を揺らした。ためすように何度も描かれたばかりの翼をはためかせると、むくりと背を持ちあげて壁から浮き出てくる。ついで、勢いをつけて、ぽん、と白い壁から飛びだした。浩瀚は素早く両手で楕円の胴をつかみ、地面を蹴った。翼の生えた楕円の鳥はぱたぱたと、浩瀚をぶら下げたまま迷路の上を滑空し始めた。行きたい方向に腕に体重をかけると、楕円鳥は素直にそちらへ曲がる。右、左、直進といろいろ跳び方をためしてから、しばらくは鳥にまかせてどこへともなく飛んだ。あちらこちらを飛び回っているうち、一見真っ白と見えた迷路の随所には、随所に黒い印が散っていることがわかった。二つとして同じものは無く、すべてバラバラの意味不明な図形ばかりだった。
 あれこれと物色していた浩瀚は、Y字形の図形のある角まで来ると、楕円鳥から手を離した。急に軽くなったせいで、鳥は糸の切れた風船みたいにひゅうっと空高くのぼっていって、ついには点になり、青い空に溶けて見えなくなった。浩瀚は身軽に着地すると、Yの字がそっけなく描かれている壁を眺めた―――正確にはそのすぐ横の、白い枠にとりかこまれた、四角い額縁のようなものを。
 上空から見たところ、迷路の何カ所かにこの枠が置いてあった。記号の側にあるときもあったし、記号とはまったく関係なく通路に置かれているものもあった。白い枠は前から見ても、後ろから見ても、手をくぐらせてみても、やはりただの枠だった。何に使うのかも判然としない。
 とりあえず枠はおいて、Y字の図形に紐と球とを描きこむことにする。ほどなく蓬莱でいうところのパチンコの絵ができあがった。パチンコはさきほどの鳥のようにするりと壁から浮き上がると、たやすく手に落ちてきた。浩瀚が紐を引いて球をつがえ、ひっぱって放すと、勢いよく飛んでいって白壁にぶちあたってそこに大きな穴を穿った。
 無音である。柔らかく、空気の切れる気配がしただけ。おぼろ豆腐に指で穴を開けたような手ごたえのない感触である。丸い穴の向こうには隣の白壁がのぞいてみえた。
 今度は四角い枠の中にむかってまた球を打ってみた。枠の後ろの壁に同じような穴があく。と、枠の中の空間がざわめいた。ざざっと気が乱れて火花が散り、極彩色の渦が不規則に走り始める。色はやがて四隅に塊をつくり、塊はしだいに大きくなってねっとりと密集していって、ほどなく、それは美しい映像を結んだ。

 春の気配が漂う深森の、淡緑の下草があらわれた。枯れ草を押しのけ、新芽が土の中に顔をのぞかせている。むせるような土の香り、湿った温かな葉の手触りまで感じられそうな気がする。そっと手を入れてみると、枠の向こう側へ抵抗なく手首が抜けた。映像は紙ほどの薄さしかないようだ。さらに、下草を踏みしめる小さな爪先があらわれる。枠の中は気まぐれにざざっと細かな皺がよるものの、すぐにまた水滴が波紋を広げるようにして澄む。
 爪先は泥だらけの粗末な長靴をはいている。底の分厚い長距離用の靴だ。細く華奢な指先が、顔を出したタラの新芽を摘んだ。小麦色の肌は残雪の崩れた黒い土を背に、濡れたような琥珀の照りを帯びていた。摘み撮った新芽を腰の袋に入れようと身をよじった際、帯のあたりに立派な剣が吊るされているのが見えた。

 浩瀚はため息をついた。
 間違えようもなく主の姿だった。数か月前のまだ明け初めの初春の節、側近だけを供に山菜摘みに出かけたときのものに違いない。
 (なるほど。この楼は古文書にある「惑わしの迷路」を模したものか)
 その昔、寿命のない仙人用にと作られた監獄のひとつに「惑わしの迷路」なるものがあったと聞く。古文書によると殺人以外の重罪者に使用されたとある。ところどころに黒い印と何の変哲もない木枠があるだけ、あとはただひたすらに白い壁と隘路に埋め尽くされた無人の空間で、捕らわれた者はぐるぐると果てしなく道を巡るうちに、枠の中に己の欲望の根源である生々しい映像を見続ける。
 黒い印には特に意味はないが、工夫することで何らかの小道具として使うこともできる。わずかな希望を捨て切れずにやみくもに黒い印をいじっては脱出を試み、そのたびに徒労に終わり、落胆したところに罪の元凶となった映像をまざまざと眼前につきつけられ、迷う時間が長くなるほどに徐々に理性を手放してゆき、やがては狂気に落ちるものも多くいたという。昔は陵雲山の岩壁を削ってこのための広大な敷地を確保していたようだ。
 さきほどの花満豊塔といい、どうも自分は、牢獄と相性が良いらしい。

 枠の中はいつの間にか麗々と晴れ渡っていた。きつい光に照らされて一気に明るくなる。
 森の映像は唐突に終わり、のびのびと雲海を見下ろす屋根のきざはしと、そこに座り込んだ絹の靴が揺れる様が映っていた。いい天気だ。
 無音ながら、桃色の唇がぱくぱくと動いて何かを語っている。宙につきだされた足は二本、しかし靴は片方だけ。裸足のくるぶしがぶらぶらと前後に振れている。頬に朱色のおくれ毛が散って、陽を吸って金色に輝いている。ふいにくるりとこちらを振り向いた。翡翠の目がすこし笑みを含んで光っている。
 これは、つい先日の映像。積翠台から姿を消した主を探して露台に出ると、頭上から絹の靴が降ってきた。お転婆を叱ろうと屋根に上ると、瓦にちゃっかり茶道具一式を広げて待っていた主は、説教などどこ吹く風でこちらに茶をすすめてきた―――この見事な景色を肴にして一杯どうだ、浩瀚?
 はい、と自分は答えた。はい。いただきます。
 そうして、手ずから入れてくださった茶を賜った―――主の唇の触れた茶器で。

 ―――なるほど。
 迷路に捕らわれたものは、己の罪の元凶を枠の中に延々と見続ける。浩瀚は胸元に手をやった。茶器はそこにしまってある。あの日から、くだんの茶器は肌身離さず持っていた。
確かにこれは己の罪である。許されざる相手への秘めた想いは、天と慶への大罪以外のなにものでもないに違いない。
 しかし一方で、こうして誰にはばかることなく存分に主の映像だけを堪能することができるなら、これはこれで至福である気がするのも確かだった。迷路に閉じ込められて、いつしか罪を許されても迷路から出たがらない者も、そうして廃人になっていった者も、かつてはきっといたことだろう。
 物思いに沈む浩瀚をあざ笑うかのように、また映像は切り替わった。こたびは暗い堂内のようだ。

 壁沿いに螺旋を描いて上へ上へとのぼっていく石の階段が見える。
 中央には膨大な書架が石筍のごとく無数にそそりたち、複雑に組み合わされた格子の中にぎっしりと詰まった書物は、紙の匂いと埃とを吐きだしている。
 金波宮の図書府の奥にある、禁書ばかりを納めてある古塔の中だ。通常は鋲のついた鍵で閉ざされており、いくつもの面倒な決裁を経ないと中に入る許可が下りない。古今東西、慶のみならず十二国をめぐるありとあらゆる危険な情報を集めた書物の山である。
 小さな蝋燭がひとつ灯った中に、顔をうつむかせて一心に何かを読んでいる男がいる。ありし日の浩瀚自身である。
 映像が大写しになり、男の手元を照らした。『慶国潜蟲譚』とある。脇に積んであるのは『寄生蟲解体図』、『喰蟲総覧』など、どれもぞっとしない絵の踊る巻物ばかりだ。
 ―――その蟲、野木にたよらず、おのれの血肉にて卵果をなす奇蟲なり。
 ―――奇蟲、宿主に入る。胃の腑、肝の腑など喰いつつ肥え太り、やがて血潮に乗りて頭頂へと至る。ついに眼球を喰らい、眼窩に新たな卵果をなす。
 ―――奇蟲、潜むに特に貴仙を好む。とくに王を喰らうに歓尽きることなし。
 映像の中の浩瀚は、また別の書物を繰りだした。今度の書は『箱渡族禁淫夜話』とあり、ごく薄い冊子だ。
 ―――箱渡り族の長の娘、かつて禁を犯して天にそむき、巨蟲と野合す。いかなる呪技か、里木に卵果実る。第一子は死産なり。長、赤子の額を割ると、小蟲湧きいずる。娘、その蟲と再び野合す。
 ―――卵果再び実り、第二子なる。こたびは息あり、子は人の姿して、性は女。成人してのち、この蟲娘、里中の男と野合す。卵果次々実り、蟲子多く生まれる。
 ―――箱渡り族、代を経るごとに衰退す。純血の人少なく、里は蟲子あまた住む。蟲子、雨を嫌い、灯火を好む。また動物の中に箱渡することをおぼえるも、特に瑠璃鳥、白山猫を好む。
 ―――蟲、里の蟲子を操りて黄海を出、陵雲山にのぼらんとす。
 この後は、数千年も前の慶の金波宮を騒がせた蟲騒動の顛末へと記述がうつる。
 いわく、正寝に蟲子が箱渡りし、王を喰らおうと試みるが失敗。以後、箱渡り族は王の隠密の役を解かれて追われ、生き残った者がひそかに山陰に隠遁するのみになった。そして、
 ―――蟲の波に周期あり。数百年から千年ごとなり。必ず後世これを繰り返すべし。
という一文で書は終わっていた。

 慶の山間の邑々で眠り人が多く見出されたとの報告が上がってきたとき、浩瀚はまず、かつてまだ己が新人の下級官吏だったときにコネをつかって塔に入り浸り、読み耽ったこの書物の内容に思い至った。
 配下の手の者にほうぼうを探らせ、潜伏させて得た情報はことごとく、数百年から千年周期といわれる蟲の繁殖期にはいったことをにおわせるものだった。このところ急に女官たちの間で緻世楼作りが流行し出したことも、タイミングが良すぎた。
 さっそく探させた箱渡り族の里はしかし、もうすでに廃屋の群れと化していた―――ただ、家屋にはわずかに人の居住していた名残があった。厨房の薪はさほど湿っていなかったし、食糧庫には腐りかけてはいたもののかなりの数の野菜が貯蔵してあった。書房には住人の日記らしきものも残されており、堯天へ行く旨をしたためたあとは空白で記述がなかった。無人になってからさほどの時間はたっていないらしい。
 ならばと行商人の足跡をたどって堯天の裏路を虱潰しに当たらせてみると、果たして怪しげな妓楼がひとつ見つかった。明らかに古びて手狭であるのに、訪れる客の数は不相応に多い。そうして、商売は繁盛している様子ながらも、商売娘の姿はちらりとも見えず、入った客より出る客がどうにも少ない。
 浩瀚は妓楼の近くの箱枕屋に、配下の者を鉋削りの職人として潜入させて警戒にあたらせた。箱枕屋を選んだのは、その店先に猫が―――白い山猫が、悠然と丸まっていたからだ。
 昨日、とうとう期が訪れたとみて、浩瀚は主に、堯天に降りるようにあえて勧めた。正寝に入り込んでいた蟲女官を、主のいない隙に安全に始末するつもりだった。しかし、箱枕についての不穏な報告を聞いたあとに堯天の街に降りれば、あの鉄砲玉のような彼女のこと、十中八九、勉強と称して箱枕屋を探したあげく、つっこまなくてもよい危険にどっぷりと、頭どころか首筋まで浸る恐れがあることは容易に察しがついたにもかかわらず、である。

 枠内がざざざ、と乱れ、細かな火花が散った。
 ぽつんと映像の中心が跳ねたかとおもうと、するすると帳を揚げたように画像が明瞭になった。そこはついさっき後にしてきたばかりの売春用の楼の寝台だった。天井から吊ったたくさんの灯火で、昼のように明るく輝いている。
 けばけばしくも煽情的な妓女の衣装を着た主の、その鎖骨のういた胸元の薄さ。陶器のように滑らかな艶、普段はめったに見られない、派手な形に結いあげた髪からこぼれ落ちる幾本もの金の歩揺。胡蝶がちかちかとさざめく、その光の残像の波紋。金魚の尾に似た薄紗から、ほのかにのぞいた指先。浩瀚、と己を呼ぶ主の、そのちょっと恥ずかしげな唇も紅で火照っている。

 浩瀚はじっと見つめた。そこにはまざまざと己の罪が映っていた。
 (そうだ。これは我が罪である)
 危険を承知で、あえて堯天行きを勧めたのはなぜなのか。
 (主上の色めいたお姿を、単にこの目で見たかっただけなのだ)
 そんな些細な子供じみたことが、長年押し殺してきた、己の見果てぬ夢だったとは。
 (妓楼の個室で主と二人きりで過ごして)
 (そうして、危ないところであのお方をお助けするのは、他の誰でもなく、我一人でありたかった)
 まるで十五、六の餓鬼のようである。
 浩瀚は我ながら陳腐すぎておかしくなった。一国の冢宰ともあろう者がこれほど無様なこともあるまい。
 映像は始まったのと同じく、唐突に消えた。あとにはがらんとした枠だけが、真っ白な壁にかかっているだけだった。
 しばし目を閉じて微動だにしなかったが、やがて男はゆっくりと、その瞼を上げた。薄い茶色の鋭い瞳があらわれる。瞳にはさっきまでなかった光があった。
 (主上には、ご無事に金波宮までお帰りいただかねばならぬ)
 稚拙な罪の許しを得たいとは思わなかった。そもそも許しを請うほどの殊勝さがあるなら、最初からこんなことはしていない。ただ、こうして脱出することがかなわず、楼をぐるぐる飛びまわり続けるという好ましくない状況となっては、最悪の結果だけは何としても己の責任で回避しなければならなかった。主は慶国の王なのだから―――馬鹿な夢に巻きこんだ始末は、自分でつけるまで。
 ひとたび割り切ると、浩瀚の動きは素早かった。
 ―――まずこの楼を出ること。そして主に合流することだ。
 さっきのパチンコをとりだすと、ためらいもなく球を幾度もつがえては壁にぶちあてた。穴が開けばそれを乗り越え、また別の通路で新たな穴を開ける。むやみやたらと穴を開けてまくっているようでいて、その実計算されているところがこの男の男たる所以である。さっき空を飛んだ時、壁に描かれた黒い記号の中に棒が四本並んだものがあるのを、ちらりと視界の片隅に収めていたのだった。浩瀚はそれを目指していた。
 さんざんにあちこちに穴を開け、いささかの躊躇も無く迷路を破壊してゆきながら、大股に通路を歩いて行った。ひときわ大きく崩れた柔らかな穴の横を右に曲がると、いきなり、その図が目の前に広がっていた。同じ長さのただの黒い棒が四本、行儀よく並んでいる図だった。
 浩瀚は竹墨で四本の棒の上下に横棒をいっぽんずつ描き足した。「目」という漢字を横に寝かせた図になる。しかし、図はさっきの鳥やパチンコのように壁から抜け出したり、浮き上がって落ちてきたりはせず、ただむっつりと壁に収まったままである。
かまわず、浩瀚は図の横に座り込んであぐらをかいた。額に手をやると、軽く汗ばんでいる。
 そういえば天上にあがってから久しく汗などかいたことはなかったなと、思い出すともなく遠くはるかに置いてきた幼少のころを思った。
 荒れた畑の中に立つ納屋、壊れた窓からさしこむ焙るような陽をあびながら、祖父の残した古い書物を読み漁った骨と皮ばかりだった少年。黄ばんだ紙が反射して燃えるような白い海の中に、やはり黒い妙な記号が整然と浮かんでいた書物たち。あの頃は、たしかに陽の匂いのする汗を毎日かいていた。いつから、自分は汗をかかぬ身体になったのだろう。
つるつるした白い迷路の床に座り込んで袖口でそっと額を押さえる。うるさいほど聞こえていた脈が潮が引くように徐々に遠のいていくのが感じられた。こめかみの血流が間遠になり、冷えて行く。汗が乾いていくのをどこか名残惜しく思いながら、あとは待つこと以外もうすることがなかった。
 どれぐらいそうしていただろう。ぴくりともしない肩先で、組み紐で束ねた髪の毛束の、そのほんのわずかな先が微かな風を受けてこそりとたわんだ。
 「来たか」
 風は、最初は毛を揺らすか揺らさないか、小鳥の吐息ほどのものでしかなかったが、さらに少し待つうちに次第にはっきりと強さを増した。迷路の空気は動き出した。
 塗ったような青空も微妙にその色を変え始めている。空の一点に灰色の雲が湧きだし、風に後押しされて勢いを増していき、みるみるうちに雨雲となった。天蓋を覆って、あたりは一気に暗く陰る。雲の隙間で小さな雷鳴の卵が転がり、警戒した獣のような唸り声をたて始める。
 ―――水の匂い。
 ふと生ぬるい空気に水の気配が強烈に香った。
 数瞬の息を飲む沈黙。ついで―――
 幕を落としたように、ざあっと轟音に包まれた。夕立がやってきたのだ。
 浩瀚の唇の端がちょっとだけ上がる。見る人が見なければわからないが、これは彼のご満悦の表情である。
 さきほど楕円の鳥を、勢いよく天高く飛ばしたのは、この楼のどこかにあるであろう天井に穴をあけるためだった。穴があけば空気が漏れて箱の中に風も吹くし、風が吹いて大気が乱れれば雲も湧いて雨も降る。
 青蘭のような箱渡りではないため、隠れた渦の流れを感知して出口を探す真似ができぬ身であれば、あとはもう単純に、てっとりばやく楼を壊してしまえば出られるのではないかと考えたのだ。案外乱暴な男である。
 風は今やごうごうと猛り狂い、豪雨を横殴りの礫に変えていた。痛いほどの雨粒で全身を殴られ、ずぶぬれになりながら、しかし男はあいかわらずあぐらのまま姿勢を変えずに座り込んでいる。壁に開けた無数の穴から穴へと伝い流れて、道底にたまった雨水がかさを増していく。水深はどんどん深くなり、浩瀚のいる方へ飛沫を散らしながら押し寄せてきた。鉄砲水だ。
 濁流は龍のように水の尾をひらめかせながら、ゆらりと鎌首をもたげて通路の壁よりも高くそそりたった。
 浩瀚は来るべき衝撃を予感して、「目」を横に寝かした模様―――何を描いたのかようやくわかった。排水溝だ―――の棒を握りしめた。
 次の瞬間、水の龍は猛烈な勢いで男めがけて踊りかかってきた。
 渦は男をひきちぎろうときりきり舞いしながら、排水溝を見つけるとやみくもに荒れて殺到した。黒い柵は水の圧力でたわみ、持ちこたえられず、ついには壁の内側へむけてガツンとはずれた。ぽっかりとあいた穴には、向こうの白い壁はもう見えずただ奥深くどこまで続くともわからぬトンネルが黒々とのぞいていた。浩瀚の描いた排水溝は、ついに別の楼へつながる出口となっていた。
 逆巻く雨水の波にもみくちゃにされながら、浩瀚は柵をつかんでいた手を離した。たちまち、ごおごおと猛る水にもまれて、矢のように暗いトンネルを押し流されていった。

 
 
 
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