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 浩瀚は躊躇なく牡丹を一枝手折った。

 陽子は驚いて浩瀚を見やったが、その花が王への献上品だと知っていたらこの程度の驚きではすまなかっただろう。その驚きは、単に美しく咲いている花を躊躇いもなく手折ったことに対するものであった。

 「季節はずれに花を咲かせるなど無粋に過ぎると常々思っていたが、今この時期に花を咲かせる意味をようやく見出した気がする」

 浩瀚は小さくそう呟くと手折った花を陽子の髪にそっと挿した。そのあまりに自然な態度にされるがままになった陽子だったが、状況を飲み込んだ途端何やら急に気恥ずかしさが沸いてきて陽子は思わず顔を伏せた。すると浩瀚の手がすっとあごに伸びてきて、陽子の顔を上向かせた。

 その手の感触に陽子はどきりとする。

 「そなたは牡丹の花がよく似合う」

 その響きは、色恋沙汰に疎い陽子でも艶っぽいと思うほどの低い美声であった。何やら胸がドキドキして、どうしていいのかわからずに陽子は戸惑う。

 「な、何をおっしゃるんです。からかわないでください」

 「からかってなどいない。思ったことを言ったまでだ」

 まっすぐに向けられた視線とかち合って気恥ずかしさに視線を伏せると、浩瀚の手はすっと離れていった。それにどこかほっとしつつも急に消えたぬくもりが名残惜しくもあり、陽子はさらに戸惑いを深めた。

 「それにしても、そなたの髪に飾ると薄紅もまるで白のようだ。百花の王とて真紅の乙女の前では色を失うと見える」

 どう返して良いものかわからずに陽子が黙り込むと微かに苦笑する気配がした。それに陽子は恥ずかしくなる。

 相手は大人の男の人なのだ。きっとどんな女性に対しても自然に褒めたりエスコートしたりするのだ。それにいちいち照れてお礼も言えず、気の利いた返答も出来ない自分が嫌になるくらい子どもっぽく感じた。

 「さて、では一服しに行くとするか」

 その呟きに、陽子は小さく「はい」と答えるのが精一杯だった。

 考えてみれば、浩瀚と二人きりで言葉を交わすのはこれが初めてだった。浩瀚と会う時はいつも必ず誰かが一緒であり、最初に松塾で会った時は遠甫が一緒だったし、州城での夕餉時にも必ず柴望が同席していた。夕餉の会話はいつも途切れることなく、浩瀚に対する陽子の印象は悪くない。だけれども、どこか鋭利な感じのする浩瀚に対しては、柴望に抱くような親近感は抱けなかった。柴望に対しては「父」とも「師」とも言えるような親愛の情があったが、浩瀚はやっぱり「異性」であり「大人の男」であったのだ。今それを改めて実感した陽子は、ただただ今の状況に戸惑っていた。

 
       
 
 
       
 
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 陽子が茶を入れる様子を浩瀚は静かに見つめていた。

 玉葉が仕込んだのだろう。流れるようなその所作は玉葉のそれとよく似ていて、それでいながらどこか奔放な彼女とは違った陽子らしい生真面目さを感じる所作であった。

 茶を所望したのはあの場のとっさの思いつきであったが、なかなか悪くない思いつきであったと浩瀚は一人悦に入る。

 二人だけの室内には静かでゆっくりとした時間が流れており、浩瀚はその心地よい時間にゆったりと身をまかせつつ、忙しなく追い立てられる日常からほんの束の間解放されていた。

 静かな時間を愛しい少女と共有できる幸福感。その少女が自分のためだけに茶を入れてくれる満足感。そんな思いに浸りながら、浩瀚は先ほどの花園でのことを思い返す。

 あの場で挿した牡丹はまだ陽子の髪を飾っている。それにちらちらと視線をやりながら、浩瀚はある思いがわいてきて思わず苦笑した。

 ―――季節外れの花の次は、枯れぬ花がほしくなるか。

 人とはかくも欲深きもの。かつては嘲笑したその思いに共感できる今の自分に浩瀚は苦笑せずにはいられなかった。

 だが、それでこそ人であるのだろう。悟った風に自己弁護しつつ「さて、次はあの髪に何を飾ろうか」浩瀚がそんな思いを巡らせていると、陽子が「どうぞ」と茶を差し出した。

 浩瀚はにこりと微笑んで茶器を受け取ると、差し出された茶をゆっくりと味わう。香りを楽しみじっくりと舌の上で転がすと、逃がすことなく抽出された茶のうまみが口いっぱいに広がった。

 「うまい」

 ひと言そう呟けば、先生の評価を待つ生徒のように息を詰めていた少女が、安堵したようにほっと息をついた。

 「玉葉の申す通りだ。そなたの入れる茶は格別だな。これほどうまく入れられれば茶も本望だろうと思わずにはいられない」

 「―――ありがとうございます」

 はにかむように陽子は笑った。

 「でも私は、玉葉さんに教えてもらった通りに入れているだけですから、きっと玉葉さんの教え方が上手なんです。こちらは蓬莱の入れ方と全然違うし、お茶も信じられないくらい高価なものだから最初はダメにしちゃったらどうしようってそればかりが気になってたんですけど、玉葉さんが作法よりも相手をもてなす気持ちを込める方が大切だって。そしてその気持ちがあればお茶は自然においしく入れられるものだって」

 「なるほど」

 浩瀚はもう一口含んで頷いた。

 「失礼します」との声とともに桓魋が現れたのは、その時であった。

 
   

 
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 桓魋は室内に足を一歩踏み入れた瞬間「しまった」と自分の間の悪さを呪った。

 房室の中には我が主と、その主がひそかに思いを寄せている少女の二人きり。この時間がいかに主にとって重要な時間であり、かつ自分がどれほど邪魔者であったかは、瞬時に向けられた突き刺さるような視線で明らかだった。

 できることならこのまま何も言わずに回れ右をして立ち去りたい。本能的にそう思った桓魋だったが、動揺のあまり反応の鈍った桓魋よりも陽子が口を開くほうが早かった。

 「桓魋さん。お久しぶりです。お元気でしたか?」

 「あ、ああ・・・・・・」

 にっこりと向けられた笑顔に、桓魋もまた笑顔を返す。若干頬が引きつっていたのは動揺を隠しきれなかったためだが、それでも浩瀚の冷たい視線とは対照的な陽子の温かな笑顔に心が癒される気がした。

 しかしそれも束の間、次の瞬間桓魋は、陽子の髪を飾る薄紅の花の正体に気がついて思わず言葉を失った。

 あれは、王への献上品ではなかったか。

 数多用意したうちのたった一輪とはいえ、当然他の花と同等に考えてよいもののはずがない。また、ただでさえ価値ある冬牡丹の王への献上品として用意されたそれは、下手な簪よりもよほど価値のあるものであった。

 それを少女の髪へ飾るそのことの意味に桓魋は思いを巡らせ、やはり自分の間がいかに悪かったかと桓魋は改めて痛感した。

 ここはもう、如何に不自然だろうと何だろうととりあえず立ち去ったが無難だ。いや、命が惜しければ是が非でもそうしなければならない。そう思った桓魋だったが、

 「ちょうどよかった。今お茶を入れたところだったんですよ。桓魋さんも一服なさってください。はい、どうぞ」

 断る間もなく茶を差し出されて、桓魋はわずかに躊躇いつつも茶器を受け取らないわけにはいかなかった。

 ここで断わってはあまりに失礼。

 しかし桓魋の行動は明らかに主の不快を買ったようで、向けられた視線はさらに激しく桓魋に突き刺さった。

 「では、私はこれで。お二人ともお仕事がんばってくださいね」

 桓魋に茶器を渡した陽子は、そう言って一礼する。その姿を見て、桓魋は思わず陽子にすがりそうになった。ここで立ちさられてはますます自分の身が危うい。

 「いや、そんなに急がなくとも」と桓魋は何とか引きとどめようとしたのだが、陽子はどこか苦笑するように笑った。

 「お仕事でいらっしゃったのでしょう?これ以上お邪魔できませんから」

 そう言うと、桓魋の願いもむなしく陽子は房室から去って行ったのだった。

 
 
       
 

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 二人きりの室内には、いやな沈黙が満ちていた。桓は茶器を手にしたまま、静かに冷気を発し続ける浩瀚の前にただただ身を小さくしていた。

 その静寂の中、浩瀚が茶を喫するかすかな音だけが時々に響く。物言わぬまま茶を喫するその態度もまた桓魋にとって重圧だった。

 背中を嫌な汗が伝う。

 いかなる状況にあっても恐れずひるまず冷静であれるようにと訓練に訓練を重ねた武人であるにもかかわらず、桓魋の心は折れそうであった。

 もういっそのこと、さっさと叱責されたがましだ。蛇の生殺し状態に桓魋が根を上げようとしたその時、

 「―――飲まないのか?」

 沈黙は唐突に破られた。

 突然発せられた声に桓魋はびくりと浩瀚を見やる。そして指摘された茶器に視線を落とした。

 そう言えば、言われるまですっかり忘れていた。

 「せっかく陽子が入れてくれたのに冷めてしまうぞ」

 「え、あぁ、はい。・・・・・・いただきます」

 ひょっとしてお咎めはないのだろうか。そんな淡い期待を抱きつつ、桓魋はくいっと一気に茶を飲み込んだ。

 刹那、口いっぱいに広がった芳醇な香りに桓魋は驚く。正直こんなうまい茶は初めてだった。

 絶妙な渋みと甘みは思った以上に乾いていたのどを優しく潤し、のどごしは柔らかくさわやかであった。たった一杯で十分満足させてくれる一杯。しかし同時に、もう一杯味わいたいと思わせる魅力ある茶であった。

 「・・・・・・」

 桓魋は空になった茶器を思わず未練がましく見つめた。

 一気に飲んでしまったことを後悔する。もっとじっくり味わえばきっともう少し複雑な香りと味を楽しませてくれたに違いない。

 「こんなうまい茶は初めてです」

 言って視線を上げれば、浩瀚の視線とかちあう。すると、浩瀚の口角がわずかに上がった。

 「それは、私とて同じだな」

 その一言に桓魋はどきりとする。そしてその一言に含まれた浩瀚の心中に思いを巡らせた時、桓魋は本気でうなだれてしまった。

 「―――本当にお邪魔をしてしまったようで。申し訳ありません」

 素直な謝罪に浩瀚はわずかに苦笑した。

 

   
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 桓魋が入ってきた時、浩瀚は正直相当不愉快だった。本気でどうしてくれようかと考えたほどだが、ほんのわずかに残った理性が私情で州師将軍を処罰するのはさすがにまずかろうと暴走に歯止めをかけた。

 そのほんのわずかに理性を保たせたものが、陽子の淹れてくれた茶である。どうやら陽子の淹れる茶には鎮静作用があるようだ。しかしそもそも浩瀚が不機嫌になった原因が陽子に絡むことなのだから、桓魋は陽子によって身を危うくし陽子によってその身を救われたことになる。

 そう思えば浩瀚の口元から苦笑が漏れた。冷静さが戻れば終始恐縮しきりの桓魋の身が哀れにも思えてくる。

 浩瀚は、桓魋のこの気の良さを憎めなかった。

 しかし邪魔をされたのは事実。ここはひとつ是が非でもその償いをしてもらおう。そう考えた浩瀚は、平伏せんばかりの勢いで謝罪の言葉を口にする桓魋を見やってわずかに笑んだ。

 「本当に悪いと思うなら、ひとつ手を貸してはくれぬか?」

 浩瀚が言えば桓魋は少々警戒気味に浩瀚を見た。

 「・・・・・・といいますと?」

 「なに、難しいことじゃない。今宵陽子を送り届ける役を代わってほしいのだ」

 桓魋の顔が思いっきり歪んだ。

 「―――当然随従はつけてですよね?」

 「そんな野暮なことを言うものじゃない」

 間髪入れずに返された答えに桓魋の表情が一層険しくなる。しかし浩瀚の表情は変わらず涼しげであった。

 「むちゃを言わないでください。そんなことを許したら柴望様にどんなお叱りを受けるか」

 「心配しなくても柴望はしばらく留守だぞ」

 「・・・・・・いずれお戻りになるのだからいっしょでしょう」

 「州侯の願いより州宰の叱責を恐れるとは、私は将軍の人選を間違えたかな」

 「―――これは州侯としてのお願いなのですか?」

 桓魋がやや拗ねたように言えば、浩瀚がにやりと笑った。

 「いや、違うな。ただの一己の男としての友へのお願いだ」

 浩瀚の言葉に桓魋は小さくため息をついた。

 「侯は本当にずるいお方ですね。断れない言い方をよくご存じだ」

 「では頼みを聞いてくれるか?」

 「同乗なさるのはお譲りしましょう。しかし、つかず離れずお供させていただきます」

 仕方ない。それで手を打つか、と浩瀚は笑った。

 

   
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