こちらへ流されてからひと月あまり。陽子は、柴望の官邸に世話になっていた。一応下働きのような仕事をしつつ毎日を暮らし、時々に柴望からこちらの世界のことについて学んでいた。とはいえ、柴望もなかなか忙しい身らしい。官邸には、三日に一度帰ってくればよい方で、その中で陽子との会話の時間が持てたのは、ほんの二、三度、半刻ほどの時間だけであった。おかげで言葉の通じぬ官邸の使用人たちとは自力で交流するしかなく、ずいぶんと言葉が鍛えられたという良い面もある。仕事に必要な最低限の言葉だけは、伝えあうことが出来るようになっていた。
そんなある日、陽子は柴望に呼ばれた。
「面倒を見ると言っておきながら、ほとんど構ってやれなくてすまない」
それに、いいえ、と答えながら、陽子は勧められた椅子に腰掛ける。
「とりあえず、これを返しておこう」
柴望がそう言って差し出したのは、出会ったばかりのときに借りていった陽子の教科書。陽子は、それを受け取り妙に懐かしく眺めた。
こちらは、例えるなら中国風に近い世界だ。漢字によく似た文字を使い、日本のような仮名文字は存在しない。文章はいわゆる漢文のようなもので、読めるようで読めないその文字に、陽子はやはり違和感を覚えずにはいられなかったが、最近それをようやく当たり前に受け入れられるようになってきていた。
そんな中で再び目にした日本の文字。それが今の陽子には、逆に異質に見えた。
「これを見ただけで、そなたがなかなか高度な教育を受けていたことがわかる」
思わず自分の思考に沈んでいた陽子は、柴望の言葉にはっと我に返って顔を上げた。
「そこで相談なのだが」
「・・・・・・なんでしょう」
「実はこれを、松塾というところで閭胥(ちょうろう)をなさっておられる、氏名を乙悦、字を遠甫とおっしゃる老師に見せたのだ。すると大変に興味を持たれてな。是非とも陽子と話をしたいとおっしゃっておられる」
「そんな。偉い先生にお話しするほどものを知っているわけではありません」
「堅く考える必要はない。乙老師は大変に博識であるのは確かだが、それ以上に非常に好奇心が旺盛なお方。ただ蓬莱の話をするだけでも良いのだ。こちらでは子どもでも知っているようなことを陽子が驚くのと同じように、こちらの者にとっては、あちらのことは驚きに満ちている」
陽子がその例えに頷けば、柴望はゆったりと微笑んだ。
「それに陽子自身も、乙老師のもとで学ぶのがよいと思う。下働きのようなことをさせているだけでは、そなたは惜しい。向こうでしっかり学んでいるのだから、こちらでも学べば身につくだろう」
乙老師にそなたの身を預けようと思うがどうだ、という柴望の提案に、陽子は頷いた。
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