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 「口を慎め、柴望。壁に耳ありだ。誰に聞かれているかわからんぞ」

 柴望の呟きに、浩瀚は悪戯っぽい笑みを刷いた。長年仕えていてもどうにも読めぬ男であるのが浩瀚という男ではあると重々承知してはいたが、この事態をどこまで真剣に考えているかわらかぬその様子に、柴望は軽く浩瀚をねめつけた。

 「お言葉ですが浩瀚さま。ご身辺の警護は抜かりなくやっておりますよ。ただ、ご寝所だけは別にございますが」

 それは伽の相手をとっかえひっかえしていることへの揶揄であったが、浩瀚の涼しげな顔を崩すことは出来なかった。

 「私が好きにやれるのもお前のおかげだ」

 「感謝なさるのでしたら、少しは自重していただきたい」

 「まあ、そう言うな。慈悲を賜りたいと身を投げ出してくる娘たちを無碍には出来ぬではないか」

 「その中に刺客が紛れているとも限らぬのですよ」

 「待っているのだが、あいにくと今のところない」

 「何かことが起きてからでは遅いのです」

 「今日はやけにかみつくな」

 「不安でたまらないのですよ」

 柴望はそう呟いて浩瀚を見つめた。その柴望の様子に、浩瀚は苦笑する。

 「お前、それではまるで男の気を引きとどめようとする娘のようではないか」

 「何をおっしゃっているんです!」

 「怒るな」

 事実を言っただけだ、という台詞は、さすがに飲み込んでおいた。

 「そう心配せずとも、国府は自分たちのことで忙しく、こんな田舎のことまで気にしてなどおらんさ」

 「田舎の政(まつりごと)自体は気にしていなくとも、あなた様自身のことは気にしている者がいるのですよ」

 「そんなに人気者だったか」

 「侯!」

 ついに声を荒げた柴望に、浩瀚は苦笑した。

 「お前の言いたいことはわかっているさ」

 浩瀚はすっと目を細めて、口元に薄く笑みを刷いた。

 「だからこそ後宮に多くの女人を招いているのではないか。私が好きに遊んでいるという噂は、やつの耳にも届いているだろう。すべては、長らく国府から離れて腐り、女人に溺れだしたのだと思わせる策略だ」

 人の悪い笑みを浮かべる浩瀚を見返して柴望は、やはり侮れぬお人だと目を見開いた。

 
       
 
 
       
 
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 こちらへ流されてからひと月あまり。陽子は、柴望の官邸に世話になっていた。一応下働きのような仕事をしつつ毎日を暮らし、時々に柴望からこちらの世界のことについて学んでいた。とはいえ、柴望もなかなか忙しい身らしい。官邸には、三日に一度帰ってくればよい方で、その中で陽子との会話の時間が持てたのは、ほんの二、三度、半刻ほどの時間だけであった。おかげで言葉の通じぬ官邸の使用人たちとは自力で交流するしかなく、ずいぶんと言葉が鍛えられたという良い面もある。仕事に必要な最低限の言葉だけは、伝えあうことが出来るようになっていた。

 そんなある日、陽子は柴望に呼ばれた。

 「面倒を見ると言っておきながら、ほとんど構ってやれなくてすまない」

 それに、いいえ、と答えながら、陽子は勧められた椅子に腰掛ける。

 「とりあえず、これを返しておこう」

 柴望がそう言って差し出したのは、出会ったばかりのときに借りていった陽子の教科書。陽子は、それを受け取り妙に懐かしく眺めた。

 こちらは、例えるなら中国風に近い世界だ。漢字によく似た文字を使い、日本のような仮名文字は存在しない。文章はいわゆる漢文のようなもので、読めるようで読めないその文字に、陽子はやはり違和感を覚えずにはいられなかったが、最近それをようやく当たり前に受け入れられるようになってきていた。

 そんな中で再び目にした日本の文字。それが今の陽子には、逆に異質に見えた。

 「これを見ただけで、そなたがなかなか高度な教育を受けていたことがわかる」

 思わず自分の思考に沈んでいた陽子は、柴望の言葉にはっと我に返って顔を上げた。

 「そこで相談なのだが」

 「・・・・・・なんでしょう」

 「実はこれを、松塾というところで閭胥(ちょうろう)をなさっておられる、氏名を乙悦、字を遠甫とおっしゃる老師に見せたのだ。すると大変に興味を持たれてな。是非とも陽子と話をしたいとおっしゃっておられる」

 「そんな。偉い先生にお話しするほどものを知っているわけではありません」

 「堅く考える必要はない。乙老師は大変に博識であるのは確かだが、それ以上に非常に好奇心が旺盛なお方。ただ蓬莱の話をするだけでも良いのだ。こちらでは子どもでも知っているようなことを陽子が驚くのと同じように、こちらの者にとっては、あちらのことは驚きに満ちている」

 陽子がその例えに頷けば、柴望はゆったりと微笑んだ。

 「それに陽子自身も、乙老師のもとで学ぶのがよいと思う。下働きのようなことをさせているだけでは、そなたは惜しい。向こうでしっかり学んでいるのだから、こちらでも学べば身につくだろう」

 乙老師にそなたの身を預けようと思うがどうだ、という柴望の提案に、陽子は頷いた。

 

 

   
 
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 陽子は、松塾に身を寄せることになった。

 最初の日こそ緊張していた陽子であったが、遠甫は想像以上に穏やかな老人で、同時に茶目っ気たっぷりの気さくな人であり、すぐに新しい生活に馴染むことが出来た。

 遠甫のもとには毎日のようにたくさんの来客がある。多くは塾生であったが、遠くからわざわざ遠甫を尋ねてくる人もいるようだった。遠甫はそれらの人々と、時には世間話に興じ、時には政治について討論した。陽子は特に退席を命じられない限りその場にいて一緒に話を聞き、遠甫に話を振られて会話に混じることもあった。

 そうしてこちらのことを、陽子は徐々に学んだのである。

 ただ、文字だけは話を聞いて学ぶわけにもいかないので夕餉の後に遠甫に手ほどきを受けた。漢字に似た文字は覚えやすくはあったが、使い慣れぬ筆には散々苦労させられたのだった。

 ある日、陽子はいつものように遠甫に字の手ほどきを受けながら、ふと思い出した疑問を口にした。

 「そういえば、海客というのはどのくらいの数いるのですか?」

 「そうさのぉ」

 遠甫は白い髭をなでながら、しばし考える。

 「正確な数はわからん。が、流れてくる数で言えば三年にひとりいるかいないかといったところかの」

 「……それは意外と多いですね」

 「とはいえ、その中から生きて流れ着く者といったらもっと少ない。十年にひとりおるかといったところか」

 「どうしてです?」

 「さて。蝕に巻き込まれて生きていられることが稀なのかも知れぬし、岸からだいぶ離れた海の真ん中に投げ出されて溺れ死ぬのかも知れぬ。海客は大体、虚海側に流れ着くからの。陽子のように青海側に流れ着く者は稀じゃ」

 「そうなんですね」

 「じゃが、まあ。蝕はどこで起きるかわからぬ。つまりは海客がどこへ流れ着いてもおかしくはない。蝕はあちらとこちら、本来交じり合ってはならぬ世界が交じり合うことで起きる災害とは言われておるが、わしらとて詳しいことは何もわからんのじゃ」

 へぇ、と陽子は興味深げにうなずく。つまりは、時空のゆがみみたいなものかと思う。

 「では、私はその蝕に巻き込まれたから、見た目が変わってしまったんでしょうか?」

 「ほう?」

 遠甫の眉が興味深げにぴくりと動いた。

 「陽子はこちらへ来て見た目が変わったのか?」

 その問いかけに、陽子はうなずいた。


 
       
 
 
       
 

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 「では、そなたは胎果なのじゃな」

 「胎果?」

 陽子は、首を傾げて繰り返す。

 そんな陽子に遠甫は、しばし言葉を探すように黙り込んでから、ゆっくりと口を開いた。

 「以前陽子には、こちらからあちらへは人の身では渡ることは出来ぬというたが」

 はい、と陽子がうなずけば、遠甫は言葉を続ける。

 「実は卵果は別なのじゃ。時々卵果は蝕に巻き込まれてあちらへと流れる。卵果とは、命はあってもまだ形を持たぬ存在。ゆえに虚海を渡ることが出来るのだろうと思われる」

 「……なるほど」

 卵果の存在は以前教えてもらっていたし、実際に里祠におもむいて里木を見せてもらったこともある。信じられない話だが、こちらの人はみな木になるのだ。

 「あちらへと流れた卵果は、異界の女の腹に流れ着くといわれておる。そうして、あちらの女の腹から、あちらの子どもと同じように生まれてくるのだと。ま、これは実際わしが見て確かめたわけじゃないがの。一説によると、そういわれておる。そうして、本来こちらに生まれるはずの者があちらで生まれることがある。そういう者を胎果と呼ぶのじゃ」

 「私もそれだと?」

 陽子は、信じられずに目を見開いた。

 「では、私はもともとこちらの人間ってことですか?」

 「こちらへきて見た目が変わったというのなら、そういうことになる」

 「でも、私はあちらでは父方の祖母に似ていると言われていました」

 「うむ。あちらでは親や祖父母から姿を受け継ぐそうじゃな。今の陽子のような姿で生まれてくれば、さぞ大騒ぎになるじゃろう」

 「そうですね」

 「だから、そうならぬために胎果は殻を被って生まれてくると聞く。それを体殻とよぶ。体殻は、あちらで生まれても差し支えないようにかぶせられたものじゃ。だから、こちらへ戻ってくれば必要がなくなる。ゆえに、胎果はこちらへ戻ってくれば天帝から与えられた本来の姿に戻る。胎果は本来こちらの生き物。あちらのいたときの姿はいわば仮の姿じゃ」

 「つまり、今の私が本来の私?」

 陽子は、なおも信じられないように呟いた。

 「私はもともとこちらの人間?」

 戸惑ったような陽子の問いかけに、遠甫は穏やかな笑みを浮かべてうなずく。

 「そうじゃ、陽子。そなたは本来いるべき世界に帰ってきたのじゃよ」

 お帰り、陽子。

 その言葉が、温かく陽子の耳に響いた。

 

 
       

   
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 「陽子!」

 と、声をかけられ、陽子は立ち止まってふり返った。

 こちらへ来て半年。陽子は、日常会話には不自由しないまでに成長していた。

 ふり返れば、年端の変わらぬひとりの少年が駆けてくるのが見える。陽子はその姿を認め、大きく手を振った。

 「李真!」

 李真は松塾の塾生のひとりだ。もともとは陽子のように身寄りがなく、縁あってここに預けられ、下男のような仕事をしていたらしい。その暇暇に老師の手ほどきを受ける内に頭角を現し、今やちゃんとした塾生のひとりと認められるようになっていた。

 「今日の講義は終わったの?」

 陽子が問えば、李真は頷く。

 「それより今から買い出し?手伝うよ」

 李真は、にこにこと笑みを浮かべながら、陽子が手に提げていたかごに手を伸ばす。もともと下男の仕事していた李真は、「慣れているから」と言っては、こうしてよく手伝ってくれるのだ。

 「忙しくない?」

 「陽子の手伝いが出来ないほどには忙しくないよ」

 その言葉に、陽子は「じゃあ」とかごを渡す。

 正直、李真が手伝ってくれるのはありがたかった。日常会話には不自由しないようになったと言っても、市場の売り子たちの話は早口で聞き取りにくいし、野菜は結構な重量になる。それに、李真は街の中を案内してくれたりするので楽しい。

 二人は連れだって買い物に向かう。

 「それにしても陽子はすごい」

 突然の言葉に、陽子は軽く驚いて李真を見る。

 「急にどうしたの?」

 「急じゃないよ。常々思っている。だって、陽子はひとりこちらへ流されてきたのに、ずっと前向きに生きている。言葉だって、ずいぶん上達した」

 「それは、そうしないとこちらでは生きていけないから。それに、蓬莱の人間にとって異国の言葉を覚えることは馴染みがあるんだ。向こうは基本的に国が違えば言葉が違うから、学校の授業でも外国語を学ぶ時間があるんだ」

 「国によって言葉が違う?それって不便なんじゃない?」

 素直なその疑問に陽子は苦笑する。

 「不便だよ。そのせいで、試験されることがひとつ増えるんだから」

 「なるほど」

 陽子が言外に込めた皮肉に気づいたように、李真は笑った。

   
   
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