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 清河を見送り部屋に一人残された陽子は、部屋に面する庭に視線を向けた。窓から望むその庭は、ここまで来る間に見た庭より一層美しく手入れされているようであった。緑と咲き誇る花々の色合いが見事で、降り注ぐ陽光にきらきらと光る蓮池はさながら宝石を散りばめたようである。

 「・・・・・・ちょっとだけ、ね」

 誰に対する言い訳か。陽子はそう小さく呟いて庭へと降りた。

 時同じ頃、麦州城の主である浩瀚は、なにかと悩ましい問題を抱え、気分転換でもしようと庭を散策していた。執務室にこもって頭を悩ませていた時には、思考がどんどんと袋小路へとはまっていくような感覚を覚えたが、こうして日の光を浴びてみれば、あれほど悩んでいた問題が些細なことに思えてくるから不思議だ。

 ―――なるほど、時にはこうして日の光を浴びるのも大切だな。

 そんな独り言を心の中で呟いて、浩瀚は視界の端に鮮やかな緋色を捕らえた。一瞬、花かと思ったが、その目にも鮮やかな緋色が髪の色であると気づいて足を止めた。

 見慣れぬ娘だった。

 ここはそうそう気軽に立ち入れる場所ではない。

 ―――何者か。

 浩瀚はいぶかしんでわずかに険しい表情をしたが、娘はいかにも楽しげに庭の花々を愛でている。どう見ても危険な娘には見えなかった。かといって下女や官吏にも見えない。となればあとは、自分と縁を持ちたい娘かもしれぬと、浩瀚はそんなことを考えた。

 実際に、そういう娘は多いのだ。偶然を装い、浩瀚と出会えそうな場所で待ち伏せをし、あわよくば慈悲を賜ろうとする娘達。そんな娘達の思惑を見抜けぬ浩瀚ではなかったが、そんないじらしさを滑稽にもかわいくも思いながらあえて気づかぬふりを通している。

 要は、恋愛の駆け引きのようなものだ。駆け引きさえも楽しむのが恋愛である、という考えに立つ浩瀚は、恋も遊びの一環と割り切れぬ者でなければ相手にする気はさらさらなかった。

 まっすぐな恋情を向けられても面倒なだけだ。

 特に年若いほどその傾向が強いだけに、もしあの娘がそういう思惑でこの庭をうろついているのだとしたら、このまま立ち去るのが懸命かもしれないと浩瀚は思った。

 見ればまだ二十歳にも満たぬ少女。恋に恋していそうな年頃だ。

 それにしても何がそんなに楽しいのか。少女はあちこちに視線をとばしては、にこやかに微笑んだり、一人首をかしげたりしている。その様子についつい浩瀚は目を奪われる。

 その時、娘に一人の男が近づいてきた。見れば男は柴望である。柴望が声をかけたのか、娘がふり返る。柴望を認めた娘がにこやかに笑った。遠目にもわかるあふれんばかりの笑顔。それに返される柴望の柔らかな笑み。

 その光景を見て浩瀚は、なぜか、ざわり、と心がざわついた。


 
       
 
 
       
 
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 生暖かい夜風が頬を撫で、月影が風に揺れた。梢のざわめく音が辺りを飲み込むと、そこら中に響いていた虫の音がぴたりとやみ一気に静寂が押し寄せる。見上げると真円を描いた月が冴え冴えとした光を放ちながら正中に達しようとしている。

 浩瀚は露台へと続く仏蘭西窓から外へと出ると、そこに据えられた石案に運んできた酒を置き傍らの椅子に腰を下ろした。

 手酌で注いで一気にあおる。

 なぜか昼間見た光景が脳裏にちらついて離れない。それをなぜか苛立たしく感じながら、浩瀚はさらに酒をあおった。

 「何やら荒れていらっしゃる」

 不意に声をかけられ、浩瀚は一瞥する。見れば窓の桟にしだれかかるように女が一人。羽織った薄物の胸元は、誘うようにはだけていた。

 「何をしに来た」

 「随分とつれないことをおっしゃるのね」

 女は浩瀚の冷たい物言いにも動じることなく、するりと歩み寄ると浩瀚の肩に手をのせた。ぷんとした香が鼻につく。

 「今宵は、お約束いただいていたではありませんか」

 そうだったか?浩瀚は、女の言葉に記憶をたぐり寄せる。言われてみれば確かにそんな約束を交したような気がしないでもないが、所詮は閨の中での睦言だ。はっきりと覚えているというほどのものではないし、何より今は誰かを抱く気にはならなかった。

 「帰れ」

 短くいえば、女は笑う。

 「嫌なことなら、私を抱いて忘れてしまえばいいではありませんか」

 最高の夢を見せて差し上げてよ。耳元で囁かれた言葉に浩瀚はいいようのない嫌悪を覚え、女の手を払いのけた。

 「帰れといったのがわからないのか」

 そこで女は、ようやく浩瀚が本気だと気づいたのだろう。柳眉をわずかに寄せると、つんと口をとがらせた。

 「お恨みしますわ」

 それだけ言うと女は去っていく。しかし去った後にも残り香がまとわりつくように香って、浩瀚は不快に顔をしかめた。

 あの娘なら、こんな強い香りは纏うまい。

 浩瀚は無意識にそんなことを思う。纏うのは己自身の匂いのみ。そうして抱き寄せれば、簡単に男の香りを移してしまうのだ。

 今宵は、柴望の官邸に身を寄せていたりするのだろうか。

 浩瀚はそれが気になって仕方なかった。

 

 
   

 
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 「あの娘とはどういう関係なのだ」

 そう一言問いかければ済むことなのに、浩瀚はなぜかぐずぐずといつまでも問えないでいた。

 その躊躇いが何に起因するのか、自身にもさっぱりわからない。

 ―――何、柴望も楽しんでいるということだろう。

 わざわざ確認するのも野暮というもの。そういうことだと片付けようともしたのだが、あの日見た光景がどうにも脳裏に焼き付いて離れない。

 柴望を認めて笑う弾けんばかりの娘の笑顔。それを見て柔らかく微笑む柴望の眼差し。気づけばそれを何度も何度も思い返している。

 ―――きっと柴望があのように若い娘を相手にしているのが珍しかったのだ。

 だからこうも気になるのだ、とようやく納得の答えを見つけて、だからここは、いつものようにからかい半分に話題に乗せればいい、そうしてのろけ話のひとつでも聞き出せばいいのだと思ったが、しかしそのさまを想像すれば何となくおもしろくなくて実行には移せなかった。

 そうこうするうちに話題にするのも不自然なほどに時間が流れ、結局浩瀚はあの赤髪の娘が何者であるか聞く機会を逸してしまったのである。

 そんな浩瀚が思いもかけずにその娘の話題を耳にしたのは、娘を見かけてふた月ほどたった頃のことである。あの日以来浩瀚は、何となく例の庭を散策する癖がついてしまっていて、その日も政務の合間の短い時間を使って庭を散策して戻ってくるところであった。

 「なあ、近頃よく柴望さまを尋ねてくる赤い髪の娘がいるだろう?あの娘かわいいよな」

 浩瀚は聞こえてきた会話にドキリとして足を止めた。会話は、回廊を行く数人の男達のもの。見れば柴望の下で働いている下官達だ。とっさに物陰に身を隠して、浩瀚は男達の会話に耳をすませた。

 「あ、お前ひょっとして好みか?」

 「悪いか?」

 「まだ餓鬼だぞ」

 「見る目がないな。あれはあと二、三年もすれば相当な美人になるぞ」

 「今から手をつけとく気か?」

 「やめとけ、やめとけ。柴望さまにお叱りを受けるぞ」

 「え?ひょっとして?」

 「だろう?そうとしか考えられん」

 「あー、そうだよなぁ。彼女が来た時の柴望さまって何処かうれしそうだもんな」

 「何処かというか、見るからにうれしそうだろう。俺はあの方があんなににこやかにしているのを見たことがない」

 それもそうだ、と男達は和やかに笑った。


 
       
 
 
       
 

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 「しかし、それほど気に入られているのであれば官邸に迎えれば良さそうなのにな」

 「それが柴望さまの人柄だろう。今、松塾に預けておられるんだそうだ」

 「え!そうなのか。お前詳しいな」

 「彼女が流されてきた時に見つけたのが俺だからな」

 「流されてきた時?」

 「彼女、海客なんだ」

 ・・・・・・海客。

 浩瀚は、耳にした言葉を心の中で繰り返す。そこに一条の光を見いだしたような気がした。浩瀚は男達が去っていったのを確認すると、急く心を抑えて柴望のもとへと足を向けた。

 その頃柴望は、ある問題に一人頭を悩ませていた。陽子から届けられた手紙を何度も読み返し、難しい顔をしてため息をつく。手紙の相手はもちろん遠甫で、このところ国府のあらゆる所から塾生引き抜きの話がひっきりなしに来ていることを伝えていた。

 理由は、わからなくはない。台輔のそばに女官が寄るのを嫌った主上が台輔付きの女官を次々とやめさせているという話であったが、それがどうも金波宮全体にまで及び始めているというのだ。

 官の半分は女だ。女を追い出せば官吏の数が足りなくなるのは明白である。そして足りなくなった分は何処かで補わねばならない。それで目をつけられたのが松塾というわけだ。任官できる絶好の機会なのだから喜ぶ者もいるのかもしれないが、話はそう単純ではなかった。つまりは引き抜きの話があちこちから来るために、水面下での派閥争いが起きているのだ。下手に返事をすればその派閥争いに巻き込まれるのは必至であり、さらには傾きかけている今の朝に入ったところで国のために仕事をすることなどほとんどなく、勢力争いの捨て駒にされるのは目に見えている。

 のらりくらりと返事を延ばし、時には学業優先を理由に断ったりもしていたようだが、昨日届けられたばかりの手紙には、ついに大物が出てきたことを告げていた。

 塾生はみんなまとめて自分の下官になれと、冢宰である靖共が言ってきたという。

 「頭の痛いことだ」

 柴望は顔をしかめて手紙をしまった。そうしてその手紙と共に手渡されたもう一つの手紙を開く。まだ稚拙な筆跡ながら、日々の暮らしぶりや新たな発見や驚きなどがとめどもなく綴られたその手紙を見て、柴望の顔は思わずほころんだ。手紙の主は、これを届けに来た本人、陽子。学習の成果を見て欲しいと、二度目に手紙を届けに来た時から必ず添えられていた。時には文法の間違いを見つけることもあったが、それにしても一年足らずの間によくもこれだけ覚えたものだと、柴望はただただ感心する。そうしてそんな陽子のがんばりを垣間見るたびに、自分も負けてはいられないという気になるのだ。

 柴望の執務室に浩瀚が入ってきたのはその時であった。

 

 
       

   
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 「―――侯、いかがなさいました」

 柴望は部屋に入ってきた浩瀚を認めて、あわてて手紙をしまった。松塾の周りに不穏な影がちらついているなどということを多忙な浩瀚の耳に入れて、余計な心配をかけたくなかったからにすぎない行動だったのだが、浩瀚に目には柴望の挙動があまりに不自然に見えた。

 ちらりと見えた筆跡に浩瀚の想像力が刺激される。

 柴望と手紙のやりとりをするにはあまりに稚拙な文字。しかし、こちらの文字に不慣れな海客ならばうなずける。そして、無垢でまっすぐな人柄が見て取れるような几帳面な筆致があの娘によく似合う、と浩瀚はそんなことを思った。

 ―――手紙のやりとりなどしているのか。

 何となく気持ちをざわざわとさせながら、浩瀚は手近にあった椅子にぞんざいに腰を下ろした。

 「何か火急の用件でも?」

 一方の柴望は、こうして浩瀚自らが足を運んでくることなどめったにないだけに、何やら起きたのかと心配した。

 「いや、たいしたことではないのだが」

 腰を浮かしかけた柴望を手振りだけで押しとどめ、浩瀚はあくまでも何気ない風に口を開く。

 「お前は、近頃の乙老師のご様子など知っているか?」

 その言葉に柴望はひとりドキリとした。まさか例のことがすでに耳に入っているのかと思ったのだ。

 「―――お変わりないと思いますが」

 慎重に答えて浩瀚の様子をさりげなく窺う。とはいえ、浩瀚がその気になれば、どんなに親しい者にもその内心を読ませたりしないということは重々承知であったが―――

 「そうか。近頃多忙にかまけてすっかり疎遠になっていたからな。近いうちにご挨拶しに行こうかと思う。・・・・・・それに、いくつか老師にお考えを伺いたいこともあるしな」

 「そうですか」

 柴望はそう答えつつ、どうしたものかと考えた。

 浩瀚がいうように、近頃なにかと多忙なのは事実だし、頭の痛い問題が山積しているのもまた事実。老師と話をすることでそれらの問題に解決の糸口が見つかるかもしれないと考えるのはもっともなことかとも思う。

 ・・・・・・しかし。

 塾へ赴けば聡い浩瀚のこと、塾の抱える問題に気づかぬはずがない。余計な気苦労をこれ以上かけたくはない柴望は、もし、浩瀚がまだ塾を取り巻く不穏な動きに気づいていないのなら、しばらくは塾へは近づけさせぬ方が良いように思った。

   
   
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