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 「侯自らが赴かれることもありますまい」

 柴望はしばし悩んでそう言った。

 「お忙しいのですから、私が老師の都合をお聞きした上で州城へお招きする手はずを整えましょう」

 その提案に浩瀚は苦笑した。柴望の態度が、何やら必死に自分を塾へ近づけさせぬようにしていると見えたからだ。

 私が塾へ顔を出したら何か不都合でもあるのか。

 よほどそう言おうかと思ったが、この場では飲み込んでおいた。

 「私はご機嫌伺いをするのに、老師を呼びつけるほど厚顔な男ではないつもりだが?」

 「・・・・・・老師とて、侯の現在の状況にはご理解を示されますよ」

 「私は、たった二刻ほどの外出もままならぬ身か?」

 浩瀚は思わず口調が不機嫌になるのを止められなかった。

 「勝手に出かけては迷惑かろうと思って話をしに来たのに、手はずを整えるつもりがないのなら勝手に出かける」

 半ば脅しに近い台詞を吐きつつ、もはやそれでも良いか、と浩瀚は思う。

 こうしてわざわざ柴望に話を通しに来たのは、柴望に語った通りの思いもあったが、一番の目的は老師目的で塾へ行ったらあの娘と出会ったという形が欲しかったのだ。

 偶然出会い、それをきっかけに誼を結ぶことになったとしても誰にも文句を言われる筋合いなどない。そんな思惑が浩瀚にはあった。

 もちろん、浩瀚の伺候に対して柴望が手はずを整えたという既成事実がある方が、周囲に偶然出会ったのだと思わせる効果は高いであろうが、とにかく塾へ行かないことには何も始まらないのだ。

 ―――あるいは、終わらないとも言うべきか。

 そう、浩瀚は別に娘が愛おしくてしかたないゆえに再会を望んでいるわけではなかった。

 はっきり言えば、そんな感情を持ち得るほど娘を知っているわけではない。

 見かけたのはほんの一瞬。ただ、その時に焼き付いた笑顔。それが脳裏から消えなくて、 とにかく気になる、というのが正直なところだった。だから、行って、会って、少し話をすればこのもやもやとした気持ちもなくなるのではないか。やはり未だ初心な小娘とあきれ返り、何がそんなに気になったのかもわからない位に、すっぱりと気持ちから消え去るのではないだろうか。

 そんな思いがあるからこそ余計に、偶然を装った形で出会いたかったのだ。こちらが勝手に期待して、勝手に落胆している分には娘を傷つけずに済むし、娘と随分と親しい柴望に余計な心配をかけさせることもない。つまりこれは、浩瀚なりの気遣いだったのである。

 だが、誼を結ぶことになったとしても・・・と考えている時点で、まだ自分の思いに気づいていないだけである、ということを浩瀚は未だ自覚してはいなかった。

 
       
 
 
       
 
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 ―――侯の本当の目的は、外出をして気分転換を図りたいのかもしれない。

 外出を渋る自分に対して浩瀚の見せた反応を静かに観察しながら、柴望は密かに苦笑した。

 柴望と浩瀚の付き合いは長い。互いに官吏になる前からの付き合いだ。ゆえに柴望は、浩瀚が清廉潔白な真面目な青年とはとても言い難い素行を見せていた若い頃のこともよく知っているし、州侯に就任してから後も、とても州侯とは思えぬ姿を見せられたことも何度もある。そのひとつが、変装して州城を抜け出し、市井に降りて羽を伸ばしたりしていたことであろうか。したたかな男ゆえ息抜きと称しつつ視察目的もあったと思うが、時には妓楼で派手に遊ぶこともあった。

 しかし思い返してみれば、市井に降りる時、それは何処か心に余裕を失っていた時かもしれない。自分の立つ大地を再確認し、雲の上にいては忘れがちな感情を呼び起こしに行っていたのだろう。

 そう考えれば、今のこの時期に城下へおりたいと言い出すのは至極当然のことのように思われた。慶国は揺れている。朝は瓦解の色を強めている。中央の混乱は当然余州に影響を与え、慶の中でも豊かと言われる麦州にもなにかと問題が多い。そして個人的にもなにかと中央から目をつけられている浩瀚だ。刺客に命を狙われることも数知れず。

 このような状況では、飄々としていて掴みどころのない男とはいえ、肉体的にも精神的にも疲弊するだろう。

 しかも近頃は、忙しい合間を縫って良く庭を散歩している。日の光を浴びると不思議と頭が冴える、とそんなことを言っていたが、それではもはやごまかしがきかぬ心の状態にあるのかもしれなかった。

 ならば州侯を支える州宰の立場にある自分としては、侯の思いをくみ取ってやらねばならないだろう。

 麦州のためにも、この男にはまだまだ踏ん張ってもらわねばならないのだから。

 「わかりました」

 柴望は、何処かすねたような、険しい表情をしたまま黙り込んでいる主を見やってうなずいた。

 「勝手に抜けられても困ります。外出の手はずを整えましょう」

 柴望のその言葉に、浩瀚は再び視線を柴望に向けた。思わずにやりと笑ってしまいそうになったが、その思いをぐっとこらえてあえて神妙な顔をして見せた。

 「あまり大げさなことはしてくれるな。あくまで忍びで行く予定だ」

 「そうはおっしゃられても、護衛の者はつけてもらいますよ」

 「松塾へ行くだけだぞ?騎獣で行けば危険など起こりようがない」

 「それでもです。何かあってからでは遅いですから」

 では桓堆を、と言う浩瀚の言葉に柴望はうなずいた。

 
   

 
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 浩瀚は州城から桓堆のみを護衛につけて騎獣で飛び立った。松塾までは騎獣で向かえば一瞬の距離だ。あっという間に松塾の建物が見えてくる。二人は見事な手綱さばきを見せながら、院子(にわ)の広場に直接騎獣をおろした。

 「ようこそお越しくださいました」

 連絡が行っていたのだろう。庭には迎えの者がすでに待っていた。まだ年若い少年ともいえる出迎えの男が、丁寧に拱手して破顔する。

 浩瀚の身分を考えれば伏礼すべきであろうが、ここではどんな相手であろうと拱手するのが暗黙の了解となっているのだ。ゆえに浩瀚も丁寧に拱手を返した。

 「乙老師はおいでになるだろうか?」

 「はい、ご案内します。どうぞこちらへ」

 浩瀚は桓堆に騎獣を託すと、少年の後へ続いた。通されたのは遠甫が寝泊まりしている堂屋の客庁。そこで待つこともなく目的の人物は現れた。

 「おお、浩瀚か。よう来たの」

 「長らくご無沙汰しました」

 「よいよい。忙しい身じゃ」

 遠甫が柔和な笑みを浮かべながら椅子を示す。それに軽く会釈して、浩瀚は勧められた椅子に座った。

 「そなたも苦労が絶えぬようじゃの」

 老師の言葉に浩瀚は苦笑する。

 「それが官途に就いた者の宿命でしょう。世が平穏な時には平穏な時なりに、やはり何らかの苦労があるものでは?」

 まあ、もっとも、と浩瀚は続ける。

 「生まれてこの方、世が平穏だったことなど数えるほどの年月しかありませんが。此度もやっと王が立ったかと思えば、早くも瓦解を始めている」

 どこか皮肉混じりの浩瀚の言葉に、遠甫は思案げな顔をして長い髭を撫でた。

 「―――何やら近頃は、随分と堯天の方が騒がしいようじゃの」

 「ええ。主上はついに強硬手段を取り始めたようです」

 「国土も収まらぬ内に血の雨が降るか・・・・・・」

 その小さな呟きは言い得ぬほどの哀愁を帯びていて、浩瀚の心に何やら重く響いた。

 「―――同胞を救いたくはあるのですが、何分堯天は遠い。向こうから助けを求めて来なければ、手が出せぬのが実情で」

 「そなたは麦州の州侯ぞ。気持ちはわかるが、まずは麦州を守らねばならぬ」

 「それは承知しております」

 その時入室を問う声が響く。まだ年若そうな少女のものだ。その声に、浩瀚との会話に少々表情が険しくなっていた遠甫の顔が途端に柔和なものとなった。


 
       
 
 
       
 

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 室内に遠慮がちな少女の声が響く。

 その声に途端に柔和になった老師の顔を見ながら、浩瀚は正直驚きを禁じ得なかった。

 今でこそ好々爺のように見せている遠甫だが、この老人がかつては朝の中心に身を置き、時の王の御代を支えた伝説の飛仙であることを浩瀚は知っている。つまりその正体は、自分の処世術など足もとにも及ばぬほどの海千山千なのだ。

 市井に混じりて道を説き人を育てる遠甫は、確かに徳高く情深い。だが、同時に厳しい人でもあり、例え柔和な表情を見せてもその身の内にある鋭さが完全に消えてしまうことはない。浩瀚は遠甫をそう評していたのだが、自分の想像をあっさり踏み越えて、遠甫がまるで溺愛している孫娘を迎える老爺のような顔を見せたものだから、つい面食らってしまったのである。

 「陽子か?」

 「はい。お客様と伺い、お茶をお持ちしました」

 「そうか。入りなさい」

 その声にいざなわれて、しずしずと少女が入ってくる。瞬間、鮮やかな緋色が目を射貫く。浩瀚の心臓が思わずぴくりとはねた。

 (―――陽子)

 浩瀚は耳にしたその名を、無意識に心の中で繰り返す。何度も何度も思い返してきた緋色に視線が縫いつけられた。

 「粗茶ですが」

 少女は言って、目の前の小卓に茶器を置く。遠目にはわからなかった翡翠の双眸がまっすぐに浩瀚に注がれて、浩瀚は思わずぞわりと感情を乱した。だが少女は、浩瀚のそんな様子に気づく様子もなく無垢に微笑む。

 「どうぞ、ごゆっくりなさっていってください」

 社交辞令をひと言添えて、一礼して去っていこうとする少女。客に茶を出しに来ただけならあまりに当たり前の動作なのだが、浩瀚は、この瞬間を無駄にしてはならぬと瞬時に思考を巡らせた。

 「―――そなた、名を陽子というのか?」

 浩瀚の問いかけに少女が顔を上げた。翡翠の双眸が、まっすぐに浩瀚を見る。たったそれだけのことが、浩瀚には新鮮だった。

 考えてみれば、こちらではあまり視線を合わせることはない。身分に上下あれば、下の者が上の者に視線を合わせるのは不敬だし、そもそも許しなく面を上げることも出来ない。同胞や気が置けない仲間内では視線の高さは同じだが、見られていると思うほど凝視されることも相手を凝視することもそうそうはない。そうする場合は、それに何らかの効果を狙っている時だ。なのに少女は、打算なくまっすぐに視線を向けてくる。それを新鮮な驚きとわずかの動揺で迎えつつ、浩瀚は汚れなき翠玉の輝きに捕らえられていた。

 
       

   
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 ―――欲しい。

 瞬時にその言葉が脳裏に浮かんで、浩瀚は思わず苦笑を禁じ得なかった。

 色々と理由をつけてここへ来たが、それがただの言い訳で、真実自分が何を求めていたのか、浩瀚はようやく自覚したのである。

 だが、その自覚は同時に戸惑いを生む。恋も遊びの一環と割り切り、恋愛を楽しむ余裕のある者しか相手にしてこなかった浩瀚だ。初心で無垢な娘との恋の始め方など、想像の埒外であった。

 「陽子とは、またずいぶんと変わった名だな」

 名を褒め、それをきっかけに戯れの愛の言葉を囁くなど、息をするほど簡単にこなしてきた浩瀚である。今この時も、娘を口説く言葉が幾通りも脳裏をよぎっていったが、そんな白々しくも軽々しい言葉を目の前の娘相手に吐くのはどうにも躊躇われ、結果出てきたのが随分と気の利かない台詞であったことに、浩瀚は内心自己嫌悪に陥った。

 ―――これではまるで、青臭い小僧ではないか。

 しかしそれでも表面上は平静を保って見せたのは、魑魅魍魎跋扈する政治の世界で生き抜いてきた男の矜恃であった。内心の動揺を表に出すようでは、政治の世界では生き抜けない。

 それにしても、人の名を無遠慮に変わっているなどとのたまう非礼極まりない男に対して娘が一体どんな反応を返すものかとうかがえば、娘は意外にもふわりと笑った。

 「やっぱり、変わってますか?」

 その意外な反応に、浩瀚は一瞬面食らった。

 「まあ、陽子は海客じゃからの」

 「―――海客」

 笑い含みのその声に、浩瀚は遠甫に視線を移す。

 「松塾に海客がいるとは知りませんでした」

 当然既知のことではあるが、それでも驚いてみせる位の演技は、浩瀚にとって朝飯前であった。

 「おや、そうじゃったか」

 遠甫がわずかに驚きの色を見せる。

 「てっきり知っておるものかと。何しろ陽子を連れてきたのは柴望じゃからの」

 「柴望が?」

 「昨年、青海の方で蝕が起きたじゃろう?」

 「ええ、覚えていますよ。幸い、たいした被害は出ませんでしたが」

 浩瀚が言えば遠甫はうなずいた。

 「その時に流れてきたようじゃ。何でも、蝕の被害を確かめに行って見つけたとか」

 そうでしたか、とうなずいて、浩瀚は再び視線を陽子に向けた。

   
   
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