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 今日の客人を初めて見た時、陽子はいつになく緊張した。いかにも怜悧なその客人は物腰こそ柔らかかったが、向けられる視線に何となく居心地のわるいものを感じずにはいられなかったのだ。

 なので客人が

 「柴望とは古い付き合いでね。私は浩瀚という」

 と自己紹介した時、陽子の肩から我知らず力が抜けたのだった。柴望と知り合いと聞いただけで、陽子は何となく親近感と安心感を抱いたのである。
 陽子の柴望に対する信頼度は、それほどに高かったのだ。


 「柴望さまのお知り合いの方でしたか」

 陽子はにっこりと微笑んだ。

 「中嶋陽子と申します。どうぞ、陽子とお呼びください」

 改めて頭を下げれば、客人は再び問うた。

 「どういう字を書く?」

 その質問に陽子は思わず笑った。客人が不思議そうな顔をしてわずかに首をかしげたのをみやって、陽子は笑いを収めきれない内に言い訳のように言葉を継ぐ。

 「柴望さまと全く同じ事をおっしゃるので、つい」

 その言葉に、浩瀚は思わず顔をしかめた。だがそれは、柴望と同じことを言ってしまったということに対してではない。柴望のことを語る少女の様子がとても親しげで、しかもうれしそうであることに嫉妬に似た感情を覚えたのだ。

 「それに、柴望さまも海客の名は変わっていると」

 古い付き合いだというのも何となく納得できます、とくすくすと笑う少女の声を聞きながら、浩瀚は正直おもしろくなかった。

 見ればわかる。二人は男女の深い仲ではない。というより、娘はまだ男を知らぬ蕾である。でも、垣間見る少女の柴望に対する信頼と親愛の深さは、移ろいやすい男女の情などよりもよほど質が悪いと浩瀚には思えた。

 そして自分はあくまで柴望の知り合いであって、一個の男としてはまだ彼女の中に存在していないという事実を認めざるを得ないのも、実におもしろくない状況であった。

 まずは彼女の中に「柴望の知り合い」という枠から確立した自分を存在させなければ、到底「異性の対象」としては見られないだろう。要は、「まずはお互いのことをよく知ってから」ということなのだが、「お互いのことを良く知り合う方法」が実は難しかった。なにせ「お互いのことを良く知り合う方法」などと囁いて閨に女性を招いていた浩瀚だから、今までの経験が全く役に立たないことを自覚するところから始めなければならなかったのである。

 浩瀚は陽子を見つめたまま、思わず考え込んだ。

 
       
 
 
       
 
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 わざわざ訪ねてきた老師との話し合いは、終始他愛もない雑談であった。もともと遠甫を訪ねた理由は、本当に「ご機嫌伺い」なのだから、浩瀚にとってはそれでかまいはしなかったのだが、来訪の本当の目的の方にさらなる目的が出来た浩瀚は、その目的をどうやって果たそうかと雑談しつつもそればかりを考えていた。

 やはり一番重要なのは、より多くの時間を共有するということだろう。男女の情のみならず人との関係性においては量より質ということも時としてあろうが、この少女相手にはじっくり時間をかけるのが良策だと思われた。

 しかしどうやって時間を共有させるか。そこへ持って行くきっかけがいまいち弱い。あれやこれやと悩んでいる内に、少女は「すっかりおじゃましてしまいました」と言ってさがってしまったのであった。

 「陽子はなかなかにおもしろい娘じゃろう?」

 遠甫が何やら意味深な笑みを浮かべて唐突にそう切り出したのは、二人きりになってすぐのことだ。浩瀚は遠甫の真意を測りかねながら、いたって平静な振りを貫いた。

 「そうですね。海客ゆえの気質なのでしょうか。少々意表を突かれる面があるようで」

 「めったに聞けぬ蓬莱の話を聞くだけでもおもしろいものじゃが、陽子のものの捉え方には時々はっとさせられる。それでいて人の心に敏感で良く気遣いのできる娘じゃ。やさしすぎるゆえ官吏には向かぬと思うが、官吏を支える立場にはとても向いておるじゃろう」

 その言葉に浩瀚は、益々遠甫が何を言わんとしているのか測りかねた。

 官吏を支える立場、とは具体的に何を指しているのか。脳裏にいくつか候補が挙がって、浩瀚は伺うように遠甫を見た。

 「わしは陽子を孫娘のように思うておってな。老婆心ながら色々と先のことを心配してしまうのじゃよ」

 「・・・・・・はあ」

 「何しろ陽子は海客じゃ。海客ならば二十歳になっても給田など受けられん。かといって、今の慶で海客が仕事を見つけるのも難しいじゃろう」

 浩瀚は未だ遠甫が何を言いたいのか測りかねてはいたが、その話の流れは、浩瀚にあるひとつの期待を抱かせた。

 つまりは、給田を受けられず仕事を得るのも難しいなかなかに器量よしな娘の居場所をどこかに作ってはもらえないか、と遠回しに州侯である自分に願い出ているのではないか。ならば自分はこの話に乗って、州城に娘の居場所を作りましょうと返答すれば、先ほどから苦慮している共有する時間を作るきっかけを手に入れることができるのではないか、という期待であった。

 しかし次に続けられた遠甫の態度で、浩瀚は益々その心中がわからなくなってしまったのである。

 なぜなら、なぜか遠甫は、柴望の近況ばかりを気にし始めたからであった。

 
   

 
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 何気ない振りを通しつつ遠甫と会話を交していた浩瀚は、あるひとつの可能性に思い当たってしまった。

 官吏を支えるに良い、というのはつまり官吏の伴侶を指し、その官吏として遠甫は柴望を一番の候補と考えているのではないか、ということだ。そう思えば遠甫の会話は、終始そのような意味合いを含んでいる気がしてならない。当然それは浩瀚にとって、おもしろいはずのない話だった。しかし浩瀚とて無駄に頭の切れる男だ。いかに逆境を己の流れに変えるか、その方法を冷静に考えられる才知を持ち合わせていた。策を巡らして、ずばり問いかける。

 「ひょっとして老師は、あの娘と柴望の婚姻を望んでおられるのでしょうか?」

 問えば遠甫はゆったりと笑った。

 「何、そこまでは申しておらん」

 その言葉に浩瀚は内心ほくそ笑む。これで「橋渡しをしてくれ」と言われたわけではないという事実を手に入れられたからだ。

 「ただ、柴望もなにかと気にしておるようじゃし、陽子も柴望を慕っておる。その先まで縁があるならそれに越したことはないと思うだけじゃよ」

 「そうですか」

 「しかし、こればっかりは本人達の気持ちしだい。とはいえ、柴望もなかなかに忙しい身ゆえ二人きりで会うなど難しかろう。恋は落ちるものだが愛は育むもの。そもそも時間がなければ育みようがない」

 確かにその通り、と浩瀚は心の中で最大の賛意を示した。愛を育むには時間が必要なのだ。だからそのために、

 「老師、及ばずながら私も、老師の憂慮を少しでも軽くする手伝いをいたしましょう」

 己の策を進めるための言葉を口にして、浩瀚はにこやかに笑った。

 「とはいえあからさまな手回しは本人達が不必要に意識するでしょうし、彼女はまだ未成年。事を急くことはないでしょう。それに彼女には、まだまだここで学ばねばならぬこともあるでしょうしね。ですから、勉学の妨げにならぬ程度で月に何度か州城に来てもらい、ちょっとした雑用をしてもらうというのはどうでしょうか。海客であればこそ頼みたい仕事なのだという体裁を整えれば彼女も変に身構えることはないでしょうし、柴望と言葉を交す機会も増えるでしょう。あるいはその間に、彼女自身が新たな道を見つける可能性もありますしね」

 「なるほどのぉ」

 遠甫は髭を撫でながら感嘆したふうに呟く。

 「具体的なことは柴望と話し合って決めましょう。決まれば老師に連絡を。それを受けるか受けぬかは、最終的には彼女自身が決めることですが」

 あいわかった、と遠甫が頷くのを見て、浩瀚は満足げに微笑んだ。

 
       
 
 
       
 

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 陽子は、月に二日ほどの割合で州城へ赴くようになった。

 表向きは、雑用のお手伝い、ということだったが、陽子に任された本当の仕事は何とも意外なものであった。それは、とにかく一日を州城で過ごすこと。そして一日の最後に浩瀚や柴望と夕食を共にして、その日見聞きしたものや不思議に思ったことなどをその時に語って聞かせるというものであった。

 最初その仕事内容を聞いた時には全くねらいがわからず戸惑ったが、なんでも「こちらのことを先入観のない眼差しで見つめられる存在というのは貴重で、我々がそこから得るものは大きいのだ」ということであり、自分が何かしら人の役に立つというのなら、と陽子は州城でのお手伝いを了承したのである。

 陽子のその仕事は、登城するところから始まっていた。具体的な指示を出されたわけではないのだが、「何かしら見聞きしてそれを伝えるのが仕事だ」というのなら、それを意識的に行うのが仕事を全うするということだろうと、根が真面目な陽子は、そんなふうに考えていたのだ。

 朝の府第はどこも慌ただしく、多くの官吏がひっきりなしに通りや回廊を行き来する。陽子に対しては、にこやかに挨拶をしていく者もいたが多くは完全に無視して通り過ぎていく。中には冷ややかな眼差しを向けてくる者もいたが、その理由は陽子にはさっぱりわからなかった。ただ、一応城内での作法については学んだのだが何せ新米、どこか不作法なところがあったのかもしれないと己を省みるのであった。

 登城した陽子が最初に行くところは書庫である。ここで玉葉という人の指示を受けながら、書物の整理をしたり、痛んだ本の修繕をしたりするのだが、多くは玉葉との会話に費やされた。

 玉葉は、とても穏やかな感じのする年嵩の女性だ。落着いた雰囲気にゆっくりとした口調、一つ一つの動作にも余裕があって、その品の良い感じに陽子はたちまち憧れてしまったものである。そして何より彼女はとても博識だった。本の修繕などではやはり内容が目に入る。するとささやかな疑問が生じたりするのだが、そんな時に何気なく陽子が玉葉に質問すれば、するすると答えが出てくるのみならず、それに付随する話やらがおもしろおかしくついてくるのだ。そんな会話の中で、玉葉は時に陽子に問題を提起してくることもある。その時には答えを教える、というより二人で議論を交すという感じになるのだが、そんな時でも堅苦しさはなく、彼女の穏やかな口調が変わることはなかった。

 陽子は、そんな彼女といろいろとおしゃべりすることが楽しく、州城での一番の楽しみといってもよかった。書庫の整理という本来の仕事があまりはかどらないことに罪悪感を覚えないでもなかったが、

 「ここには急ぎの仕事なんてないのよ。それよりたまにしか会えない陽子とおしゃべりすることの方がよほど重要だわ」

 と玉葉はにこやかに笑うのだった。

 

 

   
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 玉葉との昼食を終えたあとは、陽子は本をもっていくつかの府第を回る。本を届けて回るのだ。一人で府第に顔を出すのは緊張するし、広い城内を巡るのは結構時間がかかって大変な仕事だったが、あちこち見て回れるのは楽しくもあり興味深くもあった。

 そしてこの仕事をしてみてわかったことなのだが、城内を巡るのに時間がかかるのは、なにも敷地が広く各府第が離れているという単純な理由だけではなかった。

 こちらには身分の上下がある。それは、あちらでは想像できないほど厳格で、その上下によって色々と暗黙の了解みたいなものが存在するのである。

 そのひとつが、身分が下の者は上の者に対して必ず道を譲らねばならないというものだ。こちらではその身分が衣服や冠でわかるし、役職によって腰に下げている印綬が違うのでそれによっても見分けることができる。とはいえ、明らかな高官なら陽子にだって一目瞭然だが、数多ひしめく下級官吏の上下を見分けるのは結構難しく、そもそも印綬などというものに馴染みのない陽子にそれを見ただけで役職を判別しどの身分に相当するかを判断するのは正直言って不可能に近いことであった。

 ゆえに、間違いがないのは誰に会ってもとにかく道を譲ることだ。そもそも陽子の表向きの身分は、玉葉が私的に雇った手伝い、こちらでは下官というらしいものなので、官吏ならば誰だって上の人となるのだ。なので、人に会えば道を譲り礼を取る、確かに間違いはないが、そんなことをしていれば目的地に行くのにかなりの時間がかかるのは当然のことだった。効率や能率というものを優先しがちな現代の蓬莱の感覚からすれば、それは「時間の無駄」とも呼べるものであったが、それがこちらの流儀であり、陽子も特に不満や納得しがたいものを感じるわけでもなかった。

 その日も、陽子は玉葉に指示された本をもって城内を巡っていた。幾分か慣れた頃である。回廊の四つ角を右に曲がろうとして左から誰かがやってくる影を見つけた陽子は、端によって礼を取った。いつものように、である。しかし、いつもなら何事もなく通り過ぎていく人影は、なぜか陽子の前で立ち止まった。それを不思議に思いながら、何か不作法があったかと陽子は心配になった。自分が何か失態を犯せば、おそらく玉葉がその責を負うことになる。そのことを陽子は心配したのだ。だが、目の前で立ち止まった何者かは、陽子のそんな心配に反してくすくすと笑い声を漏らしたのである。それは、冷笑や嘲笑というものではなく、親しみを感じるような声音であった。

 「君、新入りの下官かな?」

 その問いかけに、陽子は頷く。声はまだ若そうな男のものだった。

 「このような場所がまだ不慣れと見える」

 それはあまりに事実を言い当てた指摘であったので、陽子は何も答えることができなかった。すると声の主が苦笑する気配がした。

 「顔を上げて。私にそんな礼は必要ないよ。何せ私とて下官なのだからね」

 その言葉にはっとして、陽子は目の前に立つ青年を見上げたのだった。

   
   
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