| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

       
 
<31>
 

 下官とは官吏が私的に雇った者のことを指す。つまりは官吏ではないので位はない。どんなに偉い人の下官だろうと長年勤めている下官だろうと、下官は下官。表向きはそうなっている。つまり下官同士すれ違う時は会釈程度で良いのだ。

 ただ表向きはそうでも、実態は少々異なっているのが現実というやつである。やはり高位の官を主にもつ下官の中には、他の下官より上という思いを持っている者もいる。そういった者は、他の下官に礼を強要するのであった。同じ下官同士、なのに礼を強要されれば心情的には「同じ身分はずだ」と言いたくもなるが、なにせその下官を通じて自分の主の立場が危うくなるようなことにでもなったら困る。よって従わざるを得ないのが大人の事情というやつであった。

 なのでそういった「困り者」は、下官達の間では要注意の要チェック人物で、下官が下官に礼を取っている現場を見たら「あいつはそういうやつなんだな」と心のメモ帳に書き留めておいて主の立場を損ねぬように気をつけねばならない。だが当然、下官の態度は主の評価につながる。下官が横柄な態度をとっていれば知らぬところで主の評判を貶める事になる。ゆえに本当に使える下官は腰が低いし、礼を強要して得意げになるなんて愚かしい真似はしない。だが、時としてそんな裏事情を知らぬ不慣れな下官が誤解を招く行為をすることがあった。

 つまりは、今の陽子のような状態である。

 そんな時、礼を取られた下官にしてみれば正直はた迷惑以外のなにものでもないのだが、無視して通り過ぎては本当に「困り者」のレッテルを貼られかねない。よって青年は、わざわざ立ち止まって陽子に声をかけたのだ。声をかけ礼を解いてもらう。そのことで、もしこの現場を誰かが見ていても不慣れな新米の下官だったのだなと思ってくれるだろうという思惑であったのだ。だから青年は、不慣れな様子の新米下官が礼を解いてくれさえすればすぐに立ち去るはずであった。しかし、あげられた面を見た瞬間、青年は思わず息を呑んだ。顔を上げた少女が思いのほか、かわいらしかったからだ。

 「失礼しました」

 少女は、青年の言葉に恐縮した様子を見せながら立ち上がった。そして、

 「どうか、今のはお見逃し頂けると助かるのですが」

 と自分を見やるその上目遣いに青年は確実にやられた。

 このとき陽子自身は、無意識であったのだが・・・・・・。

 「いや、謝ることでもない。慣れないうちは、ややこしいのは確かだ」

 青年は努めて穏やかに、少女をおびえさせぬようにと柔らかく微笑んだ。

 「私は、春官御史に仕える孔友という。君は?」

 「あの。・・・・・・書庫で玉葉様のお手伝いをしている陽子と申します」

 その物慣れぬふうの自己紹介に、孔友は思わず顔をほころばせた。主の官名をきちんと言えぬのは下官として失点だが、目の前の少女はかえってそれが好ましかった。

 
       
 
 
       
 
<32>
 

 にこやかに笑う青年の様子をうかがいながら陽子は内心ほっと息をついた。実は陽子は、孔友が心配したような裏事情を知っていたわけではなかったが、過分な礼は時に嫌味になる事がある、と耳にしていたため青年の気分を害したのかもしれないと心配したのだ。

 「書庫の・・・・・・。なるほど、それでそんなに本を抱えている訳か」

 納得げに呟く青年の言葉に陽子は頷いた。

 「それで、今抱えているやつはどこへ運ぶのかな?」

 「―――春官府へ」

 陽子が答えれば青年はなぜか一瞬瞠目し、そして、

 「ならばちょうど良い。私も春官府へ戻るところだ。手伝おう」

 突然にそう申し出たのである。正直陽子は戸惑った。素直に申し訳ないと思ったし、見知らぬ人間にこんな風に手伝ってもらってもいいものなのか、わからなかったからだ。だが、戸惑う陽子をよそに青年はさっと荷の半分ほどを手に取ってしまい、陽子を促しつつさっさと歩き出してしまう。もうこうなると固辞する訳にもいかなくなってしまった。何せ目的地が同じならずっと同じ道を行くのだろうし、好意を無碍にして雰囲気を悪くしてしまう勇気は陽子にはなかった。

 「・・・・・・では、お願いします」

 わずかに先を行く青年の後を追いながら陽子が軽く頭を下げれば、青年はちらりと振り返って笑った。とてもさわやかな、感じのよい笑顔であった。陽子はその笑顔に、わずかに胸がきゅんとした。それは、テレビを通して見る俳優や、グランドで汗を流す姿を見かけるだけの関係でしかない先輩になぜかドキドキしてしまうような十代の少女にありがちな乙女心であったが、それでも陽子は、こちらに来て初めて真の意味で異性というものを意識したのである。

 それは本当に無自覚であったが―――

 そして一日を終えて夕食時。陽子はいつものように浩瀚と柴望と会食した。その席上、

 「そろそろ仕事には慣れてきたかな?」

 ふと浩瀚にそう投げかけられて、陽子は今日のちょっとした失態を思い出す。それでその話をすれば、二人はただ穏やかに笑った。慣れぬ内はややこしかろう、と。

 だが陽子は、その先の話までは何となくできなかった。あの時孔友は、本当に春官府に戻るついでに手伝ってくれただけだ。その証拠に、春官府に着いて陽子が礼を述べれば「礼を述べられるほどのことでもない」とさわやかに言い残してさっさと仕事に戻っていった。その姿に陽子は思わず、紳士だ、と感動したものだが、彼の善意や自分の感動を安易にこの場で話してしまってよいものなのかがわからなかったのだ。自分の「よかれ」が彼にとって迷惑にならないのかどうか。ひょっとしたらあの行為は、下官としては褒められた行為ではないのかもしれない。ばれればお叱りを受けるようなものかもしれないのだ。だから陽子は、あえて話題にすることでもない、と判断して黙っておくことにしたのだった。

 
   

 
<33>
 

 「陽子!」

 不意に掛けられた声に顔を上げ、陽子はそこに孔友の姿を認めて微笑む。

 孔友と知り合って以来、陽子は頻繁に孔友を見かけるようになった。春官府は礼典、祭祀、儀礼を司る。よってもともと他府よりも書庫とのつながりが密接であり、見知れば顔を合わせる機会が増えるのはある意味自然な流れであったが、当然そこには男性側の意図的な行動の賜物と呼べるものも多々含まれていた。もちろんそれは陽子の知るところではなかったし、そんな疑いを持つことさえ陽子にとっては想像の埒外であったが―――

 「今日もお使いご苦労様」

 ねぎらいの言葉に陽子はわずかに会釈する。

 こういう言葉を掛けてもらうのはやはりうれしい。他の府第でもそこそこ顔見知りになった人は何人かいたが、これほどうち解けてはいないし、ましてやねぎらいの言葉など掛けてくれる人などいない。ねぎらって欲しい、というわけではないのだけれども、やっぱり言われるとうれしいのがこういう言葉だと思う。

 だから陽子は、孔友に会うのがうれしかったし、春官府へのお使いは他の府第よりも気持ちが浮き立った。そんな思いが顔に出て、孔友の前で陽子の表情は自然笑顔になった。

 「うちへの届け物はあったかな?」

 「ええ、これ全部そうですよ」

 「では、ここで預かろう」

 「いいんですか?助かります」

 その心底ありがたそうな表情に孔友はわずかに苦笑した。

 年末が近づいていた。官府はどこも慌ただしさを増し、陽子も日に何度も書庫と府第を往復する必要があった。そうでもなければ生真面目な陽子がこんな風に好意に乗っかる事などない。それを承知した上での孔友の苦笑であった。

 「忙しそうだね」

 「他の方々ほどではありません」

 陽子が言えば、孔友がふっと笑う。

 「陽子のいいところは、そういうところだね。なんだか素直に己の身を反省する気になるよ。ところで―――

 と孔友は伺うように陽子を見る。

 「陽子にひとつお願いがあるんだけれども」

 「お願い?」

 陽子が首をかしげると、孔友が陽子を見つめたまま続けた。

 「今度の休みに少しつきあって欲しい場所があるんだ」

 つきあって欲しい場所。陽子は言われたことを口の中で繰り返し、どこか困り気味の孔友を見つめた。

 
       
 
 
       
 

<34>

 

 冬至が近づいていた。

 冬至は、国でもっとも重要な祭事が行われる日である。王宮では言わずとしれた郊祀―――王が自ら郊外へ赴き、天を祀って国の鎮護を願う祭礼―――が執り行われるが、各州城でもまた、同じような祭事が行われる。ただ王宮と州城との違いは、王が祈りを捧げる相手は天であるが、各州が祈りを捧げる相手は王であるということだった。王の御代長からんことがひいては国の安寧に繋がるゆえに、州を預かる州侯達は王に祈りを捧げるのだ。

 たとえ傾きかけ、もはや命数幾ばくかと心中思っていようとも建前はそうであり、祭事を中止するわけにはいかなかった。そんなことをすれば主上に対して反意ありといっているのも同然で、足をすくいたいと虎視眈々と狙っている連中に格好の口実を与えるだけ。よって情勢微妙な現在の状況の中、麦州ではより念入りに祭事の準備が行われていた。

 王朝が末期になればなるほど、より熱心に祭事が行われるというのはある意味非常に皮肉なことであった。

 そして浩瀚の憂慮は、祭事の準備だけにとどまらない。冬至が終わればすぐに新年がやってくる。新年の大礼朝賀には、州侯は金波宮へと赴かねばならない。王の徒(いたずら)な勅により混迷の極みにある今の堯天ではどんなことが起きても不思議はない。何事もなく無事に帰ってこられるという保証などどこにもなく、事前準備は余念なく慎重に慎重を重ねても過ぎるということはなかった。

 いや、ただただおとなしく、目立たぬように振る舞いさっと身を引いてくれば危険は格段に減るであろう。だが浩瀚は、年に一度、堂々と金波宮を訪れることができるこの機会を無駄にしたくはなかった。

 この王朝は沈む。それはおそらくそう遠からぬ内に現実になる、と浩瀚は予見していた。何か大きく主上を変えるような事態でも起こらぬ限り、それは回避不可能だ。ただそれが一年先の話なのか、五年先の話なのか、そんな具体的な数字まではわからない。だが、長引けば長引くだけ、流れる血の量は増し国土がより血に染まっていくのだけは確かだった。

 一州侯に過ぎない自分にできることは少ない。己の権が及ぶ範囲は所詮麦州一州に過ぎない。だが、慶の民として被害はできるだけ小さくしたいし、そのために自分が打てる手は、できるだけ打っておきたかった。でなければ慶は、二度と立ち直れないほどに荒れてしまう可能性だってあるのだ。

 折山。そう呼ばれるほどの荒廃だけは何としても避けなければならない。

 金波宮への参内は静かなる戦だ。その決戦を前にさすがの浩瀚も気が張り、人知れず険しい顔をしていることも多かった。だが、己の内の不安や葛藤を表に出すわけにはいかなかった。自分は麦州の州侯だ。自分を信じ自分についてくる者達を守り通さなければならない。浩瀚は瞑目してゆっくりと息を吐き出す。

 明日は陽子が来る。

 それが今の浩瀚には、何よりの心の慰めになっていた。

 

   
<35>
 

 柴望が浩瀚のもとを訪れると、ちょうど春官がさがるところだった。祭事の打ち合わせに来ていたのだろう。官は柴望と目が合うと、わずかに会釈をしただけで慌ただしく去っていく。忙しそうだ、とその背を見送ってから柴望は書房へと入る。

 「祭事の準備は滞りなく進んでおりますか?」 

 「ああ」

 柴望が声をかけると、部屋の主は正面に座していて手にした書類をぱらぱらとめくっていた。その手を止めずに首肯して、浩瀚はちらりと視線をあげて柴望を見た。

 「で、そちらはどうだ。準備は進んでいるか?」

 「ええ、大体は」

 柴望は答え、ただ・・・・・・、と口ごもる。

 柴望は朝賀の準備を采配していた。そしてそれは、浩瀚に答えた通りに大体のことにはめどが立ったのだが、ひとつだけ、ある悩ましい問題が柴望に立ちふさがっていた。

 そもそも朝賀の準備といえば、随従の数や警護、持参する身の回りの品などの確認、それに当然手ぶらで赴くわけにはいかないので献上品の選定や準備などがあるが、それ以外にも、金波宮滞在時の州侯の日程調整というのも大事な準備のひとつだった。というのも、新年の王宮では、朝賀の大礼や王も臨席する公の宴が催されるわけだが、その他に、諸侯が年に一度一堂に会する機会、官邸にて私的な宴もあまた行われる。それは、表向きは新年を祝う宴席であったが、当然私的な会談の場であり、どこの誰の宴に招かれ、どこの誰を宴に招くのかはとても重要なことであるのである。

 そしてそういう私的な宴席でも話せぬようなことを話し合いたい場合は、忙しい日程の合間を縫って個別の面会を設定したり、場合によっては密会する場を設けなければならない。特に、この機会に朝の中心に身を置く者達と接触したい、と考えている浩瀚の日程調整および面会の打診などは本当に大変な仕事であった。

 だが、それだけならいくら煩雑であろうとも、柴望は持ち前の根気強さと慎重さで浩瀚の意の沿うよう日程を調整してみせるだろう。

 ただ、あくまで表に出してもかまわない日程なら、だ。

 しかし今回の参内において、浩瀚は秘密裏に動きたい部分が多々あり、それを実現するためには数多の情報を収集し必要に応じて人を買収するなど、莫大な額の資金が必要であった。それらは形として残るもののない金の使い道だが、出し渋ることの出来ない必要経費。すべては抜かりなく。でなければ、命を危険にさらすことになりかねない。

 だが・・・・・・

 柴望が難しい顔をして黙り込むと、察しの良い浩瀚がにやりと人の悪い笑みを浮かべた。

 「予算内に収まらぬか?」

 図星なその問いかけに、柴望はただ黙って頷いた。

   
   
  背景素材
inserted by FC2 system