下官とは官吏が私的に雇った者のことを指す。つまりは官吏ではないので位はない。どんなに偉い人の下官だろうと長年勤めている下官だろうと、下官は下官。表向きはそうなっている。つまり下官同士すれ違う時は会釈程度で良いのだ。
ただ表向きはそうでも、実態は少々異なっているのが現実というやつである。やはり高位の官を主にもつ下官の中には、他の下官より上という思いを持っている者もいる。そういった者は、他の下官に礼を強要するのであった。同じ下官同士、なのに礼を強要されれば心情的には「同じ身分はずだ」と言いたくもなるが、なにせその下官を通じて自分の主の立場が危うくなるようなことにでもなったら困る。よって従わざるを得ないのが大人の事情というやつであった。
なのでそういった「困り者」は、下官達の間では要注意の要チェック人物で、下官が下官に礼を取っている現場を見たら「あいつはそういうやつなんだな」と心のメモ帳に書き留めておいて主の立場を損ねぬように気をつけねばならない。だが当然、下官の態度は主の評価につながる。下官が横柄な態度をとっていれば知らぬところで主の評判を貶める事になる。ゆえに本当に使える下官は腰が低いし、礼を強要して得意げになるなんて愚かしい真似はしない。だが、時としてそんな裏事情を知らぬ不慣れな下官が誤解を招く行為をすることがあった。
つまりは、今の陽子のような状態である。
そんな時、礼を取られた下官にしてみれば正直はた迷惑以外のなにものでもないのだが、無視して通り過ぎては本当に「困り者」のレッテルを貼られかねない。よって青年は、わざわざ立ち止まって陽子に声をかけたのだ。声をかけ礼を解いてもらう。そのことで、もしこの現場を誰かが見ていても不慣れな新米の下官だったのだなと思ってくれるだろうという思惑であったのだ。だから青年は、不慣れな様子の新米下官が礼を解いてくれさえすればすぐに立ち去るはずであった。しかし、あげられた面を見た瞬間、青年は思わず息を呑んだ。顔を上げた少女が思いのほか、かわいらしかったからだ。
「失礼しました」
少女は、青年の言葉に恐縮した様子を見せながら立ち上がった。そして、
「どうか、今のはお見逃し頂けると助かるのですが」
と自分を見やるその上目遣いに青年は確実にやられた。
このとき陽子自身は、無意識であったのだが・・・・・・。
「いや、謝ることでもない。慣れないうちは、ややこしいのは確かだ」
青年は努めて穏やかに、少女をおびえさせぬようにと柔らかく微笑んだ。
「私は、春官御史に仕える孔友という。君は?」
「あの。・・・・・・書庫で玉葉様のお手伝いをしている陽子と申します」
その物慣れぬふうの自己紹介に、孔友は思わず顔をほころばせた。主の官名をきちんと言えぬのは下官として失点だが、目の前の少女はかえってそれが好ましかった。 |