「おや、そこにおるのは李真かね」
夕闇が迫っていた。空は赤く染まり、その明かりがまだわずかに地上を照らしてはいたが、人の顔の見分けがつきにくくなってきた時分。遠甫は門前をうろうろとしている若者の姿を見つけて声を掛けた。
そのままゆったりと近づいていけば、若者は振り返って丁寧に拱手する。
「どうかしたのかの?」
「まだ、陽子が帰ってこないんです」
返ってきた応えに、遠甫は長いひげをなでながら、少し考えるように首をかしげた。
「陽子が?確か今日は市へ出かけると言うておったか?」
「ええ」
遠甫の問いかけに李真は頷いた。こんなに遅い時間まで陽子が帰ってこなかったことは今までない。もちろん州府で仕事の時は例外で、夕餉を済ませてくるのでもっと遅いが、かならず桓堆という人が送り届けてくれている。
やっぱり一緒に行けば良かったかと、李真は夕闇に包まれていく通りを見やった。
比較的治安の良い麦州だが、それでもたちの悪い連中というのはどこにでもいるものだ。陽子は美人だし、何と言ってもあの鮮やかな緋色の髪は人目を引く。市で変な奴らに目をつけられたとしても不思議はない。
いや、それよりも・・・、と李真は小さく首を振った。
もっと問題なのは、ひょっとしたら今日待ち合わせをしていると言っていた州府で知り合ったという若者かもしれない。男と二人で出かけると聞いて正直気分は良くなかったし、男が抱いているかもしれない下心を心配しなかったわけでもないのだが、州府で働いている身元のしっかりした人を疑ったりするのは失礼だと必死に自分に言い聞かせ、表面上は笑顔で送り出したのだ。
だがやはり、もっと危機意識をもったほうがよかったかもしれない。
第一ちゃんとした人なら、少女をこんな暗くなるまで連れ回したりするような無責任なことをするはずがない。
「僕、ちょっと市まで行ってきます」
今にも駆け出さんばかりの勢いで李真が言えば、遠甫があわててそれを止めた。
「待て待て、もう市は閉まっておる。それに、そろそろ帰って来るじゃろうて」
「でも」
「ひょっとしたらどこかで夕餉でも、という話になっておるのかもしれんしの。とにかくあと半刻ほど待ってみよう。下手に騒ぐと、陽子が気に病むかもしれん」
遠甫の言葉に李真はわずかにはっとして、しぶしぶといった感じで頷いた。
確かに必要以上の心配は陽子を恐縮させるだけだろう。それで変な気遣いをして陽子が自ら自分の行動を制限するようになるのは李真の本意ではなかった。
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