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 玉葉から陽子が目覚めたという連絡を受け取った浩瀚は、急いで陽子のもとに向かった。後宮に急きょしつらえた部屋は北宮の一室で、そこはもともと城の主の許しなくば何人たりとも立ち入ることが許されていない場所であり、部屋に向かう走廊に人の気配は全くなかった。

 そのことを充分承知している浩瀚は、普段は決して人に見せることのない急くような足取りで走廊を駆け行く。少々上がった息を整えながら部屋へとたどり着けば、陽子は寝室続きの小部屋で一人窓辺に立っていた。

 「―――陽子」

 浩瀚が声をかけると、陽子はゆっくりと振り返った。その表情にいつもの明朗さはなかったが、陽子は浩瀚を認めるとふわりと笑った。そのことに浩瀚は、自分の来訪を受け入れてもらえたようで内心ほっとする。

 「体調は?」

 浩瀚はゆっくりと陽子に歩み寄って翡翠の双眸を覗き込む。自分をまっすぐに見つめてくるその双眸の美しさに、浩瀚は目がくらみそうだった。

 「大丈夫です」

 その言葉が真実かどうか確かめるように、浩瀚は陽子の全身にゆっくりと視線を這わせた。その視線に戸惑いつつ、陽子は頬を赤らめながらわずかに身をよじって視線を伏せた。

 「……その、実はあまり記憶がないんですが、浩瀚さまが助けてくださったのでしょう?ありがとうございました」

 「礼など良い。そなたが無事だったのが何よりだ」

 「……あの、他の方は」

 「―――少し庭を散策しよう」

 浩瀚は答えをはぐらかすようにそう言うと、陽子の手を引いて外へと連れ出した。日差しは明るく温かかったが、まだ年が明けたばかりの季節だ。息を吐けば白く、身の引き締まるような冷気が外には漂っていた。浩瀚は上着を脱いで陽子の肩にかけると、何か言いたそうにした陽子に静かに首を振って言葉を封じ、そのまま黙って庭を歩いた。

 浩瀚は歩きながら始めて陽子を見かけた日のことを思い出していた。州城の庭の片隅で蝶のようにひらひらと軽やかに庭を散策していた少女。一人だというのに楽しげで、何にでも興味深そうにその双眸を輝かせていた。

 思えば自分はあれだけの笑顔を向けられたことがない。よく笑う少女は誰に対しても輝くような笑みを見せるのに、自分の前ではどこか遠慮がちで、困ったようにはにかむ。陽子には笑っていてほしいのに。誰よりも大切にしたいのに、考えてみれば自分が一番陽子を不幸にしているのかもしれない。今回のことだって、もとをただせば自分の読みの甘さが招いた結果で、陽子はそれに巻き込まれたのだ。どうしたら彼女が幸せに笑ってくれるのだろう。浩瀚は庭を散策しながら静かにそのことを考えていた。

 
       
 
 
       
 
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 「何も心配する必要はない」

 庭の中ほどまで歩いてきたところで、浩瀚はふと足を止めて陽子を振り返った。

 すべてから彼女を守りたかった。苦しみも悲しみも彼女に近寄らせたくはなかった。

 「しばらくは、ここでゆっくりするといい。欲しい物があれば何でも用意しよう」

 贅沢を楽しむことで彼女の心が癒えるなら、どんな贅沢も叶えてやろうと浩瀚は本気で思った。

 浩瀚は彼女の上着に手を伸ばす。男物の上着は彼女には大きすぎて、だぶつく前をそっと整える。その手に一瞬だけ視線を落として、陽子は浩瀚を見やった。

 「私は海客です。こちらのことは詳しいとはいえませんし、理解できないこともたくさんあります。けれども、今この国はとても大きな問題を抱えていて、皆がいろいろ苦労しながら生きていかなければならない状況なのだということはわかっているつもりです」

 陽子は努めて冷静に言うつもりだった。しかし言いながら感情が高ぶってくる。それを無理に抑えようとすれば言葉が震えて、訳も分からず涙がこぼれ落ちた。

 「けれども、あんな酷いことが起きるなんて!何の心配もないって言われても納得できません。どうしてあんなことが起きたんですか。みんなはどうなったんですか。私たちはこれからどうなるんですか。説明できないのは、私が海客だからですか?」

 「違う。そうじゃない」

 「なら教えてください。塾のみんなはどうなったんですか。無事なんですか?今どこにいるんですか?みんなも州城にいるんですか?遠甫は無事なのですか?」

 矢継ぎ早の質問に、浩瀚はどこからどう答えたものかと悩む。その戸惑いに陽子は困惑した。

 「―――まさか!」

 マサカジブンダケガ?

 唐突に恐怖が突き上げた。胸をつかまれたような息苦しさに、陽子はあえぐ。空気を求めるように口の開閉を繰り返したが、呼吸はうまくいかなかった。

 「陽子、落ち着きなさい」

 浩瀚が肩をつかんで陽子を激しく揺さぶった。そのまま胸に抱き、背中をなでる。

 「落ち着いて。ゆっくり息をするんだ。ゆっくり、ゆっくり。吸って、吐いて」

 吸って、吐いて、と繰り返されるその言葉に従って、陽子は深呼吸を繰り返した。やがて陽子の息は落ち着きを取り戻したが、浩瀚はそのまま陽子の背をなで続けていた。

 陽子はそんな浩瀚の腕の中におとなしく身を預けた。浩瀚の腕の中は、暖かくて、居心地がよくて、何より安心感があった。本当は自分がこんな風に甘えていい相手ではないことはわかっていたが、今だけは浩瀚の好意に甘えたかった。現実を知りたいと思いながらも、一人で聞くのは怖くて、抱きしめてくれる誰かがいなければとても立っていられそうになかった。


 
       
 
 
       
 
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 「―――教えてくれませんか、すべてを」

 腕の中で小さくつぶやかれたその言葉に、浩瀚はゆっくりと息を吸い込んだ。できれば全てを彼女から遠ざけたかったが、彼女が望むことを拒むことも浩瀚はできなかった。

 「おそらく全ての始まりは、もうずっとずっと前に根があるのだと思うが、この国はずっと波乱含みでね。王の治世も安定しなければ官吏らも派閥争いが絶えたことがないのだ。そんな状況の中で松塾出身者も一派閥と見られていて、一派閥の人間を生み続ける松塾そのものを敵視する輩がいたのだ」

 浩瀚の声は、辺りの空気に直ぐに溶け込んで消えてしまうほどひそやかだった。

 「松塾出身者の官吏も多いとはいえ、塾生のほとんどはいまだ官吏ではない一般の民だ。私もまさか塾そのものを消し去ろうとする暴挙に出てくるなど、思ってもいなかった」

 「では、松塾を襲わせた犯人は官吏なのですか?」

 「証拠はない。しかし、ただの賊徒が松塾を焼き討ちする理由がない」

 浩瀚の言葉に陽子は身を震わせた。

 ――― 一人やるごとに褒賞が出るんだ。

 そう言って笑った賊徒の声が耳の奥で響いた。

 政敵ではなく、政敵になるかもしれないから、という理由だけであそこにいた人達は殺されたのか。現状を嘆きつつも将来を夢見、ただひたすらに良い国を作るために官吏を目指していたあの人たちを。武器を持たず丸腰だったあの人達を。ただ新年を祝うために集っていた無防備な人達を。

 「犯人の狙いは、松塾を再起不能なまでに叩いてしまうことだ。だから助かった者達の所在は伏せていた方が安全なのだ。生きているとわかるとまた襲ってくるかもしれないから」

 「では」

 陽子は身じろいで浩瀚を見上げた。すがるような視線を受け止めて、浩瀚は陽子の髪をなでた。

 「助かった者たちも多い。遠甫もご無事だ。今は隠れ家に匿っていて、接触も慎重に行っている。・・・・・・だから、簡単に会わせてやることはできないのだが」

 浩瀚の言葉に陽子はうなずいた。

 「ご無事だとわかっただけで、ほっとしました」

 「遠甫も陽子のことを心配していたようだ。―――何か伝えたいことがあるなら伝言を受けよう」

 「ありがとうございます。・・・・・・では、私は大丈夫だと」

 「必ず伝えよう」

 浩瀚は惜しみつつ陽子を腕の中から解いた。代わりに手を取って帰路へつく。柴望が陽子と浩瀚を引き離すべく玉葉と接触していることなどいまだ知る由はなかった。

 
       
 
 
       
 
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 陽子に会えさえすれば柴望は陽子を州城から連れ出す自信があった。現在の状況を説明すれば、陽子は浩瀚や自分のおかれた立場を理解し、自ら州城を出る選択をするはずだと信じていたからである。陽子は聡い。そして何より他人を思いやる気持ちが強い少女である。しかし玉葉と接触した柴望は、告げられた事実に驚いた。

 「今、陽子がいるところは後宮なのよ」

 後宮に入れられた女は、主の許可なく出入りすることはできない。この州城の主といえば、もちろん州候浩瀚のことだ。浩瀚は、今まで偽装なのか本気なのか、後宮に多くの女人を招いていたが、全ての女人に出入り自由を許していた。来る者拒まず去る者追わず、である。しかし、許可を与える、ということは、本来許可がなければ自由はないということの裏返し。外へ連れ出すことも、もちろん柴望が訪ねることも浩瀚の許可なしにできなかった。

 客房にいるものと思っていた柴望は、頭を抱え込んだ。

 「浩瀚様は一体何をお考えなのだ」

 女人追放の勅が出た後に後宮に女人を迎えるなど、万が一外へ漏れれば身を滅ぼしかねない。それがわかっているのか。

 「浩瀚様は何もかも承知の上でいらっしゃいましょう」

 柴望の心のうちを読んだかのように玉葉がささやいた。密やかな声は目の前でも耳をそばだてねば聞こえぬほどである。玉葉もこの件の重大さをわかっているのだ。

 「深夜誰も伴わずに後宮にお運びになり、以後私以外の誰にも世話を許しません。後宮に彼女がいることを知るのは、私と柴望様あなたと浩瀚様以外にはおられないでしょう。ひょっとすると門衛あたりが目にしている可能性はありますが、それとて今後宮に何人かおられる女人の退去にまぎれてわからなくなりましょう。浩瀚様は、後宮に残っておられた方に主上の勅をお伝えし速やかな退去を命じられたようにございますれば」

 玉葉が、残っておられた、といったのは、昨夏あたりより浩瀚は後宮を訪ねることをぱったりとやめ、女たちの新たな居住先を見つけてやることに積極的になっていたらからだ。それでも、女性達を無理に追い出すようなことはしてこなかった浩瀚だ。訪ねもせず、呼びもせず、それでもまだ後宮に居座り続ける何人かの女性達はそのままにしていたのである。

 「それではなにか。浩瀚様は陽子をこのまま後宮にとどめ置かれるおつもりなのか?本気で側女にでもなさると」

 「―――側女ではなく妻にとお考えなのではないでしょうか」

 「は?」

 「・・・・・・何せ陽子が今いる場所は、北宮ですから」

 そこは数ある後宮の宮の中でも后、つまり主の本妻が住むとされる場所である。そこに今陽子がいるという事実に、柴望はもはや絶句するしかなかった。


 
       

   
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 陽子を妻に?

 思わぬ衝撃に柴望はしばし思考を固めてしまったが、長年浩瀚の突拍子もない考えに付き合い実行してきた柴望である。気持ちを立て直すのは早かった。

 ―――いや、それは現段階では不可能だ。

 柴望は、冷静に思考を巡らせた。

 現在慶は海客に戸籍を与えない。よって海客である陽子は当然のことながら無戸籍状態である。天綱の定めによって、婚姻は同じ国に戸籍を有する男女でなければならないので、今の状態のままでは浩瀚がどんなに望んだところで陽子を妻に迎えることはできない。州候という立場をもってすれば強引なこともできなくはないが、当然慶の法では不法であり、不法によって得た戸籍での婚姻が、果たして天の認めるところとなるのかは柴望にもわからなかった。

 しかし、隣国雁では手続きをすれば海客にも戸籍を与えている。正当な戸籍を得ることができるのだ。そして戸籍は動かすことが可能なので、つまりは、陽子をまず雁へ渡して雁の戸籍を得、その後その戸籍を慶に移すというのが陽子に正当な戸籍を与える最も簡単で確実なやり方といえた。

 つまりはもし、浩瀚が本当に陽子との婚姻を望んでいるのなら、そこにこそ浩瀚を説得する糸口があるかもしれない。

 柴望は、見出した活路に胸を躍らせた。

 柴望は、何も別に浩瀚と陽子が結婚することに反対なのではない。ただ、時期が悪い。それだけだ。沈もうとしている現王朝の混乱が収まりさえすれば、いくらでも祝福できる

 「陽子に手紙を書く。それを何としても陽子に渡してほしい。……ただし、浩瀚さまにはくれぐれもばれぬように」

 柴望は玉葉を見やって表情を引き締めた。

 「二人を守るためには、今はどうしても離れていてもらわなければならない」

 「手紙を渡すことは可能でしょう。……しかし、外へ出すとなれば浩瀚さまに知られぬようにすることなど不可能ですよ」

 「そこは浩瀚さまにご納得いただく。そちらの説得は私がするから大丈夫だ」

 柴望は言って、手早く陽子への手紙をしたためると玉葉へ預けた。玉葉はその手紙を手に、柴望と別れた。そしてそのまま真っすぐに陽子のもとへと向かう。しかし玉葉は、柴望の考えすべてに共感できていたわけではなかった。柴望の言うことはわかる。浩瀚はいま、身の振りように細心の注意を払わねばならない状況の中にある。そんな中での陽子の存在は、弱点にしかならない。そして陽子もまた、危険に巻き込まれる恐れがある。しかし、浩瀚は意志の強い男だ。こうと決めて最後までやり通さなかったことは一度もない。陽子を傍に置くと決めたら何としても置き続けるだろう。それに陽子自身も、もし浩瀚のそばを離れたくないと思っているのなら、二人を無理に引き離すのは心苦しかった。

   
   
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