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 浩瀚との散歩を終え再び一人となった陽子は、やるせない気分のまま庭を眺めていた。

 昨夜起きたことが一体どういうことで、遠甫やその他塾生の何人かは助かり匿われていることはわかった。無事でいた人たちのことを良かったと思う一方で、犠牲になった人たちのことを思うと胸が痛い。喜びと悲しみと、怒りと恐れと、安堵感と罪悪感と、いろんな思いが入り混じってどの感情を表出していいのかわからない。

 これから先、自分がどうすればいいのかも皆目見当もつかなかった。

 ―――遠甫にお会いしたい。

 ―――助かった塾の方たちをこの目で確かめたい。

 しかし浩瀚にそれは無理だと暗に言われてしまっていた。自分が我侭を通したことで誰かが危険にさらされることなどあってはならなことだ。

 それに自分はどうなのだろう。自分もやはり塾にいたということで、賊徒に命を狙われているのだろうか。

 ―――間違いなくそうだろう。

 陽子は思う。でなければ、李真が殺された理由がわからない。

 その時、陽子は人の気配に振り返った。玉葉が戻ったと思ったのだ。何せここには浩瀚と玉葉しか訪ねてきたことがない。しかし、入り口に立っていたのは見知らぬ女性だった。

 反射的にびくりと身を震わせて、陽子は突然現れた女性を見やった。二十歳すぎ頃と思われるその女性は、女の陽子から見ても惚れ惚れするような美貌の持ち主だった。プロポーションも完璧で、蓬莱でならばモデルか女優かといった雰囲気だった。

 「・・・・・・あ、あの」

 どちら様ですか、と問おうとしたが、同時にゆったりと微笑んだ女性の気配に圧倒されて、陽子は言葉を詰まらせた。

 「北宮に誰ぞや入ったようだと噂を聞いてきてみれば。あなたなのかしら?」

 陽子は女の言っている意味が良くわからなかった。女はゆっくり近づいてきて、陽子に並んで窓辺に立った。

 「美しい眺め。さすが同じ後宮といってもここは格別ね」

 「え?」

 何気なく発せられた後宮という言葉に陽子は戸惑った。正直に言えば、後宮という響きにあまりいいイメージはない。

 「後宮って、ここ後宮なんですか?」

 陽子の戸惑い交じりの質問に女性がやや驚いたように振り返った。

 「あなた、ここがどこかわかってないの?」

 「・・・・・・州城ですよね?」

 陽子の答えに女は小さく息を吐いた。

 「そう、州城は州城よ。それは、間違いないわね」

 
       
 
 
       
 
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 「ここは州城の最奥。州候の許しを得た者しか立ち入ることが許されない場所」

 女は陽子を横目で見ながらゆったりと笑った。その言い方があまりに艶を孕んでいて、陽子には意味深にしか聞こえなかった。

 「・・・・・・その、つまり」

 「公務にお疲れの州候を私的にお慰めするための場所。といえば、あなたにもわかるかしら?」

 陽子の顔は見る見る真っ赤になった。つまりは目の前の女性は後宮に迎え入れられた女性で、浩瀚と非常に懇意で大人の関係にあるということなのだ。そして、大人の関係というのは、陽子にしてみれば考えるだけで恥ずかしかった。

 「私は、そういう関係ではありません!」

 湧き上がってきた羞恥心から、陽子は声を荒げてあわてて否定した。目の前にいる華やかな美人から見れば自分は子どももいいところだろう。そんな小娘が自分と同じ立場なのかもしれないと、きっとこの女性は腹を立てて様子を見に来たに違いない。そんな誤解は真っ平だし、恩人である浩瀚に対しても失礼な話だと陽子は思った。

 「昨夜、松塾という義塾が火事になったのはご存知ですか?私はそこにお世話になっていて。火事に巻き込まれたところを浩瀚様に助けていただいたのです。少々込み入った事情から人目を避けなくてはいけなくて、それでおそらくこちらへ。なので、特別な関係とかそういうのではないんです。一時しのぎというか、急なことだったから、きっとここへつれてくるのが一番手っ取り早かったんだと」

 陽子が一気にまくし立てると、女は一瞬驚いたように目を見開いた。しかし直ぐに悠然とした笑みを見せると「かわいらしい方ね」と呟く。

 女の様子に陽子は説明不足だったかと更に言葉をたそうとしたが、口を開きかけたところで女にそれを制された。白くて長い指が、陽子の唇の前に立てられる。

 「あなたが来た経緯はわかったわよ。どういう事情があるかもね」

 しかし、と女は続けた。

 「あなた知っているかしら?先日この国の王がね、女性はみんな国から出て行くようにっていう勅をお出しになったのよ。それで後宮にいる女性にも荷物をまとめて一日も早く州城から出て行くようにとお達しがあったわ。噂では、州城の女性官吏たちも城から出す準備が進んでいるみたい。ま、いつまでも城内に女性がいたら州候が匿っているように見えるものね。当然の対応だと思うわ」

 陽子は戸惑いを隠しきれずに女を見つめた。何を言っているのかは理解できたが、何の話をしているのかさっぱりわからなかった。

 「そんな時期にあなたを城内に、しかも候の私的な場所である後宮につれてくるなんて、候は一体何をお考えなのかしら?」

 女の笑みは嫌味なのか、はたまた好奇心なのか。ただ親切心にだけは見えなかった。

 
       
 
 
       
 
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 玉葉が柴望の手紙をもって陽子の元へ戻ると、陽子は窓辺の椅子に腰掛けていた。玉葉は部屋を見回して陽子が一人であることを確認してほっとする。浩瀚がいれば手紙を出すわけにはいかないからだ。

 「陽子、気分はどうかしら?」

 玉葉が声をかけると、陽子はわずかに視線を向けたが反応は鈍かった。何か深く考え込んでいる様子が玉葉には良くない兆候に見えた。

 「お茶を入れるわ。お茶菓子を持ってきたのよ」

 玉葉は努めて明るく言って、茶を準備する。その間も陽子の様子をちらちらと確認しながら、何かあったのだろうかと考えた。浩瀚からは、自分が説明するから余計なことは話すなと厳命を受けている。陽子を混乱させたくないし、不必要に不安にさせたくないという考えには共感だった。

 ―――浩瀚様から何か聞いたのかしら。

 もしそうなら、どんな話を聞いたのか。今ここで柴望の手紙を渡すことで、陽子を酷く動揺させることになりはしないのか。柴望の思いが、陽子を追い詰めたりはしないのか。

 玉葉は今になって柴望の手紙を渡すのがためらわれた。

 「浩瀚様とお話をしたのかしら?」

 玉葉は茶を並べながらできるだけさりげない風を装った。ちらりと向いた陽子の視線に精一杯穏やかに微笑む。

 「こちらにいらっしゃったでしょう?」

 「・・・・・・ええ、いらっしゃいました」

 陽子は茶にそろりと手を伸ばしてうなずく。

 「昨夜起こったことの原因について説明してくださいました。それで、助かった人たちもしばらくは身を隠しておかなければいけないことも」

 そう、と玉葉は呟く。どうやら浩瀚は、少しは説明したらしい。

 「―――だから、私もここへつれてこられたんですよね?」

 「え?」 

 庭に視線をやった陽子が何か問いかけてくるとは思わず、油断した玉葉は、ささやかな呟きを聞き逃した。

 「陽子?」

 「いえ、なんでもありません。それより私は、いつまでここにいることになるんでしょうか?」

 一転しっかりした口調になった陽子に、玉葉は一瞬目を見張ったが、陽子は気にする様子もなく茶を口に運んでいた。

 「あまり長々とお世話になるのは心苦しいですし。遠穂やその他塾の皆さんの様子も気になりますから」

 
       
 
 
       
 
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「きっと浩瀚様は、陽子がいることはちっとも迷惑ではないし、むしろここにいてくれた方が安心だと考えていると思うのだけれど」

 「それは、とってもありがたいと思うのですが、ここは何もかも贅沢すぎて正直ちょっと居心地が悪いのです」

 陽子はそう言ってはにかんだ。

 「それに、今まで大勢の人と一緒に暮らしていたからか、ここは静か過ぎて」

 さもありなん、と玉葉は思った。そしてここには人を呼ぶことはできない。女性はこれから州城を去る。その時ここに一人残された陽子はどうなるのだろう。衣食住には困らないだろう。しかし周囲に存在を知られぬようにひっそりと息をつめ、ただただ浩瀚一人を頼りに生きていかなければいけなくなるのだ。この混乱が収まるまでとはいえ、それが数ヶ月ですむことなのか、三年や五年かかることなのか皆目検討もつかない。

 そんな生活が、本当に陽子のためになるのだろうか。

 玉葉は懐から柴望の手紙を取り出した。

 「柴望様から手紙を預かってきたのよ」

 「柴望様から?」

 「陽子のことをとても心配していらっしゃるわ」

 陽子は差し出された手紙を受け取った。封を解くと、見慣れた柴望の字が飛び込んできた。

 『陽子へ。無事だと聞いて安心した。怪我はないと聞いているが、あれだけの騒動に巻き込まれたのだから、さぞいろんなことが不安に感じているものと思う。私も遠甫も陽子のことをとても心配し、私たちにできることがあれば何でもする用意がある。しかし、陽子にはまず、今現在慶がどういう事態にあり、陽子自身どういう状況に置かれているのかを理解してもらわなければならない。もしわかりにくいことがあったら玉葉に説明してもらうように。大事なことだから、きちんと理解し考えてほしいのだ』

 そういった書き出しで始まった手紙を、陽子は食い入るように読んだ。手紙には、松塾を巻き込んだ朝廷の派閥争いや王宮にて王の出した勅についての説明があり、それによって予想しうる今後や麦州府の取るべき対応について書かれてあった。陽子の理解力や読解力を良く知る柴望の手紙は、特別玉葉の補助を必要とせず、陽子は柴望の言わんとすることを理解した。

 『浩瀚様は陽子が州城にいることを望むだろう。それが陽子にとって一番安全だと思っておられるからだ。しかし、私はさまざまな状況を考え、必ずしもそれが陽子のためであるとは思えないし、また、浩瀚様のためにもならないと思っている。私のこの思いを陽子なら理解してくれるのではないだろうか。私からも浩瀚様を説得するつもりだか、陽子からも浩瀚様に州城から出ることを強く願ってもらいたい。陽子自身の強い希望とあれば、浩瀚様も別の手段もあるのだということに納得されるだろう』

 
       

   
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 浩瀚のもとに柴望が再び姿を見せたのは、夕闇が迫ろうかという時分だった。柴望は何気ない風を装いながらも強い視線で人払いを願った。

 「さて、一体何事が起きたんだ」

 二人きりとなった室内で口火を切ったのは浩瀚だった。柴望が何を言おうとしているのかは見当がつかなかった。ありとあらゆる事態が動いていて、予見しうることが多すぎたからだ。なので「お尋ねしたいことがございます」という柴望の言葉に少なからず驚いた。報告はあっても質問があるとは思わなかったからだ。

 「何だ」

 「陽子のことです。―――なにゆえ北宮を与えられたのですか?」

 柴望の質問はあまりにも直球だった。不意をつかれた浩瀚は思わず瞠目して柴望を凝視し、ついでに不快感に顔をしかめた。

 誰からそれを、と言おうとして、浩瀚はそれが愚問であることを瞬時に悟る。陽子が北宮にいることは自分と玉葉しか知らないことであるから、情報の出所は調べるまでもないことだった。

 「与えた、というのは少し違う」

 浩瀚は表に出した感情をさっと引っ込めて、さらりと答えた。考えてみれば、この件に関して柴望が何か言ってくることはいかにもなことである。問題は、柴望が何を言うつもりで、それに対し自分がどう答えるか。柴望の狙いはおおよそわかる。さて如何に論破すべきか。浩瀚は頭の中で冷静に論理を組み立てた。

 「緊急に対応する上で取った処置だ」

 「北宮である必要がありますか?」

 「禁門から入れば近い。それに加え人目を避ける必要があったのは、お前も承知しているはずだ。同じ対応を遠甫にしているのだからな」

 「私はなぜ北宮である必要があったのかをお聞きしているのです。北宮は後宮の中でも特別な意味を持っていることは当然ご承知であられましょう。―――だから、いままで一度も使われたことがない」

 「―――なればこそだ。確実に人目がない」

 「では、北宮を使われたのはあくまで緊急処置だとおっしゃるのですね?」

 「やけに噛み付く」

 浩瀚は笑った。しかし柴望の表情は、むしろ一層険しくなった。

 「・・・・・・浩瀚様がそのおつもりでも、もしこのことが周囲に漏れれば人々は何と思いましょう?北宮に住まう女人がいれば、当然、浩瀚様にとって特別な存在のお方であると受け取るのです」

 「それが問題なのか?」

 浩瀚の口調は幾分か棘を帯びた。

   
   
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