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 朝の定例の時間に、浩瀚はいつも通りの州府評議を開いた。国府で言うところの朝議である。議事は専ら、女性官吏の計画的退城と国外脱出のために麦州に集まってくる民への対応策であった。

 今回の勅に伴って当然給田も混乱している。給田名簿は国府から州、州から各里へと下ろされて民へ伝達されるが、国外追放を命じられた女子には当然給田は中止される。では、男子には例年通りの通達と、移動を命じるのか。実際それが可能なのか。国府に尋ねたが未だに返答はない。給田が滞れば税収の問題も出る。だが、働き手の半分が居なくなれば、どこだって税収がまともに徴収できないだろうことは予想できることだった。それによって生じる問題や課題、対応策など話し合えば、評議は簡単には散会にならなかった。

 昼を過ぎてようやく、浩瀚は評議を閉じた。全ての議題で充分な話し合いと納得の結論が出たわけではないが、すべきことは誰もが話し合いばかりではない。不十分なものは明日への持越しとし、いくつかのものは直接州候へ報告と提案書を出すように指示をした。

 評議が終わってそのまま執務室へ向かおうとしたが、柴望が是が非でも昼食を取るようにと迫ったので、浩瀚は仕方なく従った。食卓に座せば、そういえば前に食事をしたのはいつだったかとふと思う。ここ数日は、わざわざ食事の時間を取るのが面倒だったので、茶菓子程度のもので済ませてしまっていたのだ。

 「ああ、そうか。前に食事をしたのは陽子と一緒の時だ」

 ふと思い出して呟けば、見張りです、と同じ卓についていた柴望が思い切り顔をしかめた。

 「浩瀚さま。あなたは餓死でもなさるおつもりなのですか」

 「仙だから餓死は難しかろう。他国には五十年牢に放置されて生きていた官がいるというではないか」

 「州候が動くこともしゃべることもままならぬ状態では困ります」

 「わかっているさ。まともな食事をしていなかったというだけで、食べ物を口にしていなかったわけではい」

 「承知していますとも。膳部に泣き付かれましたからね」

 「膳部が?」

 「用意した茶菓子は召し上がっているようだが、膳がまったく手付かずで返ってくると」

 なるほどそれでこの手回しか、と浩瀚は、腹に優しいものでありながら滋養の多いものが並ぶ食卓を見やった。

 浩瀚は粥を手に口へ運ぶ。正直ここ数日腹が減らないので食べなくてもいい気がするが、柴望を怒らせるのは面倒くさい。

 ばたばたと騒がしい足音がしたのは、その時だった。

 「失礼します」

 現れたのは、清谷の警備に当たっているはずの桓だった。


 
       
 
 
       
 
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 桓がなぜここへ。

 二人はそう思うよりも先に、何事か起きた、と直感した。そうでなければ桓が無断で任地を離れるはずがない。浩瀚もそして柴望もそれを十分に承知していたし、なにより桓の纏う空気が緊張をはらんでいるのは二人には一目瞭然だった。

 「何が起きた」

 浩瀚が問えば、申し上げます、と硬い声で答えて桓?が会釈する。

 「昨夜、青海に妖魔が出たとの報告がありました」

 「何だと」

 柴望が思わず腰を浮かせた。泰然と構えていた浩瀚もさすがに表情が険しくなった。

 「船が一艘、襲われた模様です」

 「船が一艘?」

 ついに来るべき時が来た。青海には以前から妖魔目撃の報告が上がっていた。しかし、州府の方で直接確認できたことはなく実害も出てはいなかった。なので州府としては用心はしながらも表立った手立ては何も取れなかったのである。妖魔が現れるのは国が傾き始めた証。国府が何の公表も手立ても取らない中、州府が実害もないうちに妖魔対策に動き始めれば国府からどんな言いがかりをつけられるかわかったものではなかったからだ。ある意味これは、いずれ起きると覚悟していた事態だ。妖魔は、基本初めは陸地にごく近いところの海上や沿岸部の町で人を襲い始め、あれよあれよという間に内陸部へと侵入してくる。波乱含みの慶を生き抜いてきた浩瀚や柴望は実体験としてそれを知っていた。

 しかし、それがよりにもよってなぜ今日なのか―――

 「どの船だ」

 思わず語尾が震えた。もちろん浩瀚の脳裏には考えたくもない最悪の事態がよぎっていた。常ならそれは覚悟を呼び起こすものにしかならないのだが、今回は耐え難い恐怖が襲いかかる。出来れば考えたくもなく、この不吉な想像が外れていることを無力な只人のように祈るしかなかった。

 国が傾いているなどとっくに知っている。いつ妖魔が人を襲ってもおかしくはないと覚悟もしていた。しかしそれは今日でなくてもよかったはずだと、浩瀚の中に怒りにも似た感情も沸きあがってくる。

 せめて、もう数日でも前のことであれば・・・

 意味のないことだとわかりつつも、そう思ってしまう己のおろかさを笑う余裕すら今の浩瀚にはなかった。

 「目撃情報は、遠目に船が襲われているのを見た船のものからです。今朝、現場の確認に行って参りました。結果、海上に散っていた船の破片から、女性官吏を乗せて昨日港を出港した船と思われます。……生存者は今のところ確認されておりません」

 浩瀚は、目の前の世界がぐにゃりと歪むさまをはっきりと見た。

 

 
       
 
 
       
 
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  「浩瀚さま!」

 柴望の鋭い制止の声が聞こえたが、浩瀚はその声を無視して部屋を飛び出した。

 ―――行かねば。一刻も早く現場へ行かねば。

 浩瀚の頭の中には、その思いしかなかった。今自分が州城を飛び出せば、州府の機能がどういうことになるのか。現場に着いてその後どうするか。そんな瑣末なことは考えになかった。ただとにかく、一刻も早く現場に駆けつけること。今の浩瀚にとってはそれが全てであった。

 「桓!」

 柴望が叫んだ。全てを言われずとも、桓?は柴望の意志を汲み取る。だからこそ桓?は一瞬躊躇するような表情を見せ、柴望の再度の呼びかけでようやく身を翻した。

 「侯!」

 「邪魔立てするな、桓

 つかみ掛かってきた桓の手を浩瀚は払いのける。しかし払われたようでいて力をうまく流した桓?の体は軽やかに浩瀚をかわして再度手を伸ばす。幾度か組み手が交わされて、浩瀚は床に組み敷かれた。パタンと戸が閉まる音がして始めて、浩瀚は桓との攻防のさなかにうまく近くの小部屋へ誘われていたことに気がついた。

 「心が乱れている分だけ俺に分がありましたね」

 桓が無表情に呟く。いや無表情に見せてその瞳の奥には苦痛の色があった。

 「―――離せ」

 「桓、まだ離すな!」

 柴望が鋭く声を発して、浩瀚のそばに膝をついた。柴望を見上げた己がどんな顔をしているのか浩瀚はわからなかった。

 「お気持ちは察します」

 「何がわかるというのだ」

 浩瀚は柴望を一瞥して目をそらす。柴望はそもそもあの大火のときも陽子を見捨てようとしたではないか。

 「しかし、今州候であるあなたに州城を空けられたら困ります」

 やはりの台詞に浩瀚は思わず笑う。柴望の優先順位はいつだってそうだ。

 「それに、あなた様が行ったからといって何になります?船はすでに襲われ、救助は桓の部下達によって行われております。生きていればその者たちが必ず助けます。浩瀚さまに出来ることは、現場に行こうとここにいようと陽子が生きていることを信じることだけではありませんか。ならば、ここにいてすべきことをなすべきではないのですか」

 「―――おまえは、かわいそうなやつだな」

 浩瀚はゆったりと笑みを浮かべて柴望に再び視線を向けた。そこに浮かぶ憐憫の視線に柴望はどきりとする。浩瀚が何を言わんとしているのか、柴望は見当もつかなかった。


 
       
 
 
       
 
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 浩瀚の意外なひと言に柴望はそれ以上の言葉を失ってしまった。諌めるべきなのか、慰めるべきなのか。自分の立ち位置があやふやになってしまって、途端に浩瀚を留めようとした自分の行動の根拠が揺らいでしまったのだ。

 柴望のそんな様子に、桓?も浩瀚を床に縫いつけておく理由を失う。桓の力が緩んだのを見て、浩瀚は桓を押しのけるようにして立ちあがった。

 「私すぐに清谷に向かう。私が帰るまで、そなたで処理できるものはやっておけ。いざとなれば州侯印を使ってもかまわない」

 浩瀚は衿元を正しつつ柴望を一瞥した。

 「―――職務放棄だと伯牧に訴えるならそれでもよい」

 「侯!」

 そのまま踵を返して去っていく浩瀚に、驚いたように叫んだのは桓で、柴望はただ苦渋の表情を浮かべただけだった。

 「・・・柴望さま」

 浩瀚の背をただむなしく見送って、戸惑ったように桓が柴望を振り返る。柴望は苦渋の表情のまま声を絞り出した。

 「―――行け。今の浩瀚さまには誰よりもお前が必要だろう」

 それでも動かずにいる桓に、柴望は微かに口元を緩めた。

 「心配するな。自慢じゃないが、私はあの方の我儘に振り回されるのには慣れているんだ。しりぬぐいは慣れている」

 柴望の言葉に桓?ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 「なるべく早くお戻りいただけるよう努力します」

 桓はそう言うとさっと踵を返して浩瀚の後を追った。

 ひと気のない、薄暗い小さな部屋に柴望がひとり残される。二人の去っていった戸から差し込む光が、四角く床を切り取っていた。

 柴望は小さく息を吐く。柴望とて、陽子が生きてくれていたらいいと思う。最悪でも遺体が見つかってくれればと思う。それは同時に、何の痕跡もない可能性があることを予測するからだ。生きているのか死んでいるのか、何の手がかりもない可能性を恐れるからだ。妖魔に襲われれば、髪の毛一筋残らないことは珍しいことではない。海上ともなれば、わずかな痕跡すら海が飲み込んで消してしまう。仮に妖魔の襲撃から運よく逃れられたとしても、おぼれ死ぬことだってあり得る。生きて助けられていなければ、死んだと考えてまず間違いない。しかし、果たして浩瀚がそう考えるか。それを思うと柴望は知らず苦渋の表情が浮かぶ。死んだという確かなものがないのなら、浩瀚は陽子が生きている可能性を捨てきれないだろう。生きているかもしれないと、捜し続けるに違いない。平時ならそれでもいいだろう。そのために人をさくことも認める。進んで捜索にも加わろう。しかし今はそんなことをしている時ではないのだ。柴望の憂いは常にそこにあった。


 
       

   
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 州城を飛び出した浩瀚は、騎獣を駆って一路清谷を目指した。厩舎ですでに桓が追いついて「お供します!」と叫ぶように宣言したが、浩瀚は一瞥さえくれなかった。吉量は足の速い騎獣だったが今の浩瀚にはもどかしい速度でしか飛んでくれず、いたずらに鞭を打っていればやがて横付けしてきた桓に腕を掴まれて、それでようやくほんの少しだけ冷静さを取り戻した。

 「一度港に降りてください」

 清谷が近づいてきたところで桓が再びぴたりと横付けした。飛ぶ騎獣にこれほど接近させるには実は相当な技量が必要なのだが、桓はあっさりとやってのける。横付けしたまま並走し、相変わらず前を向いたまま一瞥さえくれない浩瀚の横顔を伺うように見て桓は言葉を重ねた。

 「何か新情報がはいっているかもしれません。いたずらに事故海域に直行するより効率的だと思われます。それに、―――すれ違いになってしまう可能性もありますし」

 そこで初めて浩瀚はちらりと視線を向けた。州城を飛び出したときの激情は収まって、幾分かは冷静さを取り戻しているような視線だった。

 「わかった」

 短く答えて浩瀚は高度を下げ始める。それを確認して、桓は先導するために浩瀚の前に出た。海岸にほど近いところに立つ役所の中庭に騎獣を降ろす。さほど広くない中庭にはばたばたと行き交う人々の姿があったが、上空から騎獣が降りてきて、しかも遠目にも高位の者が乗っていそうだと見てとると、地上の人々はさっと場所を開けて騎獣を迎えた。

 「将軍が戻られたぞ!」

 桓の姿を認めて誰かが叫ぶ。しかしその後に続いて降りてきた男の姿を見た者たちの反応は二つに分かれた。すなわち、声も出せないほどに驚いた者と浩瀚が何者かが分からなかった者だ。

 一瞬生じた静寂を割ったのは悲鳴に近い女性の声だった。

 「侯!」

 鋭い声に誰もが振り向く。建物の陰から一人の女性が飛び出してきて浩瀚の前に崩れるように叩頭した。

 「そなた…無事だったか」

 浩瀚は眼前に身を投げ出してきた女性を認めて反射的に安堵の息を吐いた。玉葉。陽子と行動を共にしていた女性官吏だ。彼女が無事だということは陽子も無事だということだ。

 「玉葉。陽子はどこだ」

 浩瀚が柔らかく声をかけると、なぜが玉葉は地に顔を伏せ全身を震わせながら嗚咽した。

 「―――申し訳ございません」

 嗚咽の合間から玉葉が声を絞り出す。玉葉の細い指が震えながら地面を掻いた。そんな玉葉を見下ろしながら、なぜ玉葉が謝罪の言葉を繰り返すのか浩瀚は理解できなかった。

 

   
   
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