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 武州州城内殿、州侯の執務室。文箱を抱えてそこを訪ねた州宰思明は、形ばかり声をかけ、返事を待たずに中へと入る。房室の主が大量の書類に忙殺されていることは想像に難くなく、そんな時はいくら返事を待っていても無駄であるということを思明は長い付き合いで悟っていた。
 律儀に返事を待っていたのはもうずいぶんと昔のこと。いつしか思明は、返事がなくとも執務室に入れる特免を賜っていた。その頃はいち下官に過ぎなかったので随分驚き、また恐縮もしたものだが、しかしそれによりずいぶんと厄介な仕事が回ってくるようになったので、良いのか悪いのか未だ悩み中である。
 案の定、正面に座す男は大量の書類に埋もれており、時々難しい顔をしては書類に判を押していた。思明は抱えてきた文箱から書類を出すと、少々申し訳ない気になりながらそれらを山の頂に積み加える。
 一体、何日寝ずに処理すれば、この書類の山が消えてなくなるのか。
 休みなく書類に目を通している目の前の男にちらりと視線を遣って、思明は心の中でため息をつく。
 蝕発生よりほぼ不眠不休で情報の収集と民の救済を行っている目の前の男は、日頃は本当に文官かと思うほど頑強で精力的であったが、さすがに今はどこか憔悴して見えた。
 蝕発生の翌日、王より親書が届いた。文面は概ね、蝕発生の報を受けて被害状況を気にしているということであったが、そこに添えられた州師の派遣を示唆する一行にこの男が明らかに顔をしかめたのを思明は目の前で見ていた。
 ―――あの親書が、侯の憔悴をより深いものにしている。
 それは思明のみならず、武州侯の側近の誰もが感じていることであった。
 「主上は、武州の実情をご存じないのだ!」
 「いや、案外何もかもご承知の上でのご沙汰なのかも知れぬ。武州に乱でも起こさせて、和州のように一気に叩くおつもりなのかも」
 「まさか!主上は武侯に不審ありと仰せか」
 側近らはそう言いあって興奮した。その様子を静かに眺めていた端厳だったが、
 「主上の御意向に逆らうわけにはゆかぬ」
 ただそう言って、州師の派遣を決めたのであった。
 その瞳の奥に剣呑な光が宿っていたことに思明のみが気づいていた。
 「清陵の被害状況はまとまったか?」
 拱手し、そのまま立ち去ろうとした思明に、不意に声がかかる。相変わらず視線は書類に向いたままだったが、それはむしろいつものことであった。
 「はい。人的被害はなかったようですが、橋がことごとく流されてしまっているので、物資が不足しているようです。空行師に必要な物資は運ばせていますが、ここ数年空行師の数を減らして参りましたので人手不足は否めません」
 「そもそも人手があってもそんなに物資があるまい。義倉の在庫状況はどうだ?」
 「今年不作なら、来年の冬は皆餓死せねばならないでしょう」
 「それは堯天に泣つけばよかろう。ないものはない、としか言いようがないからな。後は、税率を如何に下げてもらうかが問題か。本当なら一切の免除を願い出たいところだが、あの男相手にそれは難しいか」
 端厳の言いように思明は難しい顔をする。端厳のいうあの男が誰のことを指しているのか、思明は問うまでもなくわかった。一度は州侯を罷免され、国外追放の処分まで受けながら見事に返り咲いた男。――冢宰、浩瀚。今の朝廷の実質的な権力者。
 「―――そういえば、なんでも堯天より使者が参るとか?」
 「ああ、被害状況を視察するため、禁軍左将軍がおいでになる。左将軍は主上の信の厚いお方。実質、主上の名代ということだろう」
 書類を繰る手を休めることなく淡々と述べる端厳を眺めながら、思明はわずかに眉をひそめた。
 「左将軍……。和州の乱での働きを認められたときく、半獣の将軍ですね。確か、もと麦州州師の将軍だったとか」
 思明がぽつりと漏らすと、言外に含んだものに気づいたのだろう、端厳は漸く顔を上げ、口の端に薄く笑みを乗せた。
 「誰が来ようと、今の朝廷はあの男が権を握っているのに違いない。あの男は、主上さえも己の駒にするようだ」
 「……つまりは、すべてはあの男の思惑だと」
 「権謀術数に長けた男だ。思惑というより策略といったほうが正しかろう」
 「……それで、いかがなさいますので?」
 「如何も何も、使者は受け入れざるを得まい。下手に策をめぐらせるより、将軍の情にすがってみる方が案外得策かも知れぬな」
 そう言って端厳は自嘲めいた笑みを浮かべた。そして視線は再び机上の書類へと注がれる。
 武州には癌がある。州師将軍魯丕顕。端厳が武侯に就任する前から州師将軍の職にあり、武州州師を完全に掌握している狡猾な男。
 武州が、州侯と州師将軍との危うい拮抗の下に何とか成り立っていることを知る者は少ない。
 偽王の乱以降、端厳が注意深く、そして非常に細やかな策をめぐらせて押さえ込んできた豺虎が、王の親書によって、今完全に監視の目から外れてしまっている。檻から飛び出した豺虎が何をしでかすか、それは誰にもわからない。
 武州に仇の風が吹く。
 蝕がもたらす災意は、どうやら天災だけではすまなさそうだと、思明は前途を憂えずにはいられなかった。


 時は同じ頃。武州州城でそんなことが話し合われているなどとは露知らず、陽子は周囲を説き伏せて単独で武州に入っていた。政治的な駆け引きとやらはさておき、実際に被害にあった民らがどうしているのか、陽子は己の目で確認しなければ気がすまなかったのだ。
 とりあえず州都そばの閑地で班渠から降り、徒歩で街へと向かう。大地を吹き抜ける風は未だ冷たく、陽子は思わず襖(うわぎ)を掻き合わせる。雲海上の気温は穏やかで、多少季節の変化はあっても年中過ごしやすい。地上は未だこんなに寒いのだと思えば、陽子はますます被災した民らがどのように過ごしているのか気になった。
 街へと入って陽子は、とりあえずぷらぷらと広途を歩く。和州の州都明郭にはじめて足を踏み入れた時はその閑散振りに驚いたものだが、ここ武州の州都は堯天には劣るもののそれなりの活気に満ちていた。通りの両脇には露店が立ち並び、行き交う人々の表情も明るい。街全体に安穏とした空気が漂っていて、陽子はひとまずほっとした。
 州都に被害はなかったと聞いてはいたが、自分の目で確かめるまでは心配していたのだ。
 一安心したところで、腹ごしらえと同時に情報収集をしようと、陽子は適当な店を探す。そして目に入った一軒の飯屋に陽子は入った。

 「いらっしゃい。何にする?」
 陽子が扉をくぐると、若い娘が出迎えた。
愛らしい笑顔を向けられて、陽子も思わず微笑を返す。どこか蘭玉に似ている。そんなことを思いながら、案内されるままに席に着く。
 「軽く食事がしたいのだけど」
 「ええ、大丈夫よ。この店のお勧めは肉饅頭だけど、麺でも粥でも一通りはそろっているわ」
 愛想のよい娘に陽子は当たりを引いたことを確信し、「では饅頭をもらおうか。それと、何か温かい汁物を」と注文すると、娘はもう一度微笑んで奥へと引っ込んでいく。
 店内を見渡せば、昼時には少し早いがちらほらと客がいる。世間話に花が咲いているようで、時折笑い声が店内に響く。
 何か蝕の話題が出ないものかとさりげなく耳を澄ますが、内容は他愛もない日常のことばかり。そうこうしていると再び娘が現れて、おいしそうな饅頭と湯気の立つ汁物を陽子に差し出した。
 「ああ、ありがとう」
 陽子が娘を見つめてにこやかに礼を言うと、娘はわずかに頬を染めた。こうすると娘達がよくしゃべってくれるようになる。というのは、お忍びで出かける堯天の街で身につけた技だ。
 「ところで、先日武州では蝕が起きたんだって?」
 陽子が問うと、娘は何の警戒心もなく頷いた。
 「ええ。南寧辺りから虚海に向かって抜けていったらしいわ。ここは、何ともなかったけど」
 「安寧から?」
 陽子は、出かける前に頭に詰め込んできた武州の地図を思い出し、わずかに眉をひそめた。
 「……それは随分広範囲だな」
 「噂では、跡形もなくなっちゃった里があるらしいわ。……お兄さんは旅の人?」
 「堯天に住んでいるんだけど、知り合いが武州にいてね。無事かどうか気になって」
 様子を見に行く途中だと、用意していた嘘をつくと娘はあっさり信じてうなずく。
 「無事だといいわね。でも、清陵の方なら行けないかも。昨日来たお客さんが話していたんだけど、湍水にかかる橋が全部流されちゃって渡ることが出来ないんですって」
 「じゃあ、清陵は孤立してしまっているのか?」
 「よくわからないけど、そういうことになるのかしら?まあ、山を迂回するか、虚海から船で回るかすれば行けるとは思うけど。どちらも随分遠回りになることは確かね。もっとも、飛べる騎獣を持っているなら別だけど」
 その時、娘を呼び戻す声が奧から響く。「それじゃあ、ごゆっくり」と言って去っていく娘の後姿を見送りながら、陽子は口の中で呟いた。
 「清陵――行ってみるか」

 

 
 
 

  
 
 
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