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 陽子は班渠にまたがり、一路清陵を目指した。本当は被災地すべてをつぶさに見て回りたかったが、外出そのものを渋る側近達から陽子がもぎ取った時間は少ない。
 しばらくすると地平に河川の影を認める。あれが湍水かと思った直後、陽子ははっと目を見開いた。
 川の上を頻繁に行きかう騎獣の姿を捉えたのだ。
 整然と飛ぶその様に、陽子は民間人ではないことを瞬時に悟る。
 「―――空行師」
 彼らには、班渠が騎獣でないことが一目瞭然だろう。
 ―――見つかったら厄介だな。
 陽子は、しかたない、と地上に降りた。

 

 班渠に乗って向かえば瞬時に着いたであろうその道のりを、陽子は半刻程かけて歩いた。川の手前は広趾。向こうが清陵になる。陽子はとりあえず、広趾に入る。そこはさすがに州都とは違った様相を見せていた。
 隔壁の一部が大きく崩れて無惨な姿をさらしていたし、途(とおり)のあちこちに、傷つき弱った人たちがたむろしている。路地裏を覗けば、そこは荒民野営地のような様相を呈しており、ひと目で衛生状態の悪さが見て取れた。

 ………これは、ひどい。

 こういうのが書類に現れぬ実情というやつなのだ。やはり己が目で確かめに来てよかったと思うが、同時に、胸が締め付けられる思いがする。
 寒さや夜露をしのげる家がないのは辛い。食べ物や飲み水を満足に口にできない生活は辛い。明日が見えない生活は辛い。陽子は、それを嫌と言うほど体験している。
 だから、彼らの辛さはわかるつもりだ。しかし、今の自分に何ができるだろうか。

 そんなことを考えていたその時、どこからか金属を打ち鳴らす音が響いた。何の音かと思っていると、道にたむろしていた人々が、いっせいに街の広場に向かってのろのろと歩き出す。それについて行けば、州師らしい者たちが、被災者に食料を配っているところに行きあった。
 一応、救援の手は伸びているのだ。そう思えば安堵したが、配られているのは本当にわずかばかりの粥。それも混ぜられている草の方が多く、草に米がくっついているといった方がいい代物だった。
 おそらく今の慶で、多くの民に物資を配給しようと思えば、あれが精一杯なのだろう。陽子は、何かやるせないものを感じて唇をかんだ

 昨年の収穫高は、全州わずかながら上向いた。しかしそれはあくまで、前年と比べてのこと。長年の空位とその後の混乱。その間に見るも無惨に荒れ果てた慶にあって、例え前年と比べて収穫量が多いとは言っても、それは豊作とは言い難かった。義倉に蓄えるほどの余剰米など未だ生み出すことは出来ない。

 浩瀚や遠甫は、陽子が長く玉座にいることでいずれ解消できる問題だという。それは理解できる。それがこちらの理(ことわり)なのだから。
 しかし、困っているのは今なのだ。例え十年後の豊穣が約束されていても、目の前の人々には何の希望にもなりはしないだろう。
 穀物を得るなら輸入しかない。幸いにして隣国雁は、治世五百年を超える豊かな国で、延王とは誼があり、援助を申し出れば手を差し伸べてくれるだろう。
 そう考えて、陽子は自嘲気味に口元をゆがめた。

 ―――また雁か。

 陽子を未だ認めない官吏の皮肉が聞こえてきそうだ。
 その時―――

 「坊主。お前も早くいかにゃ、なくなっちまうぞ」
 ふいにかけられた声に振り返れば、椀を手に持った老爺が陽子を見上げていた。
 被災者の一人だろう。埃まみれの服に垢だらけの体。真っ黒な手には、深いしわが刻まれている。
 「こんなもんでも、喰わんよりましじゃろう」
 老爺はそう言って、粥の入った椀をわずかに掲げて見せた。その言葉に、陽子は思わず言葉に詰まる。
 こんなもの、しか民に配れないおおもとは自分である。
 老爺が責めているのではないとわかっていても、陽子はじかに心臓をぎゅっとつかまれたような気がした。
 しかし陽子の内情など知る由もない老爺は、陽子の固く沈んだ表情を勘違いしたようだ。
 「どうした。ひょっとして椀を持たんのか?なら、わしがさっさと喰っちまうけぇ、この椀もっていってこい」
 老爺はそう言うと、そう大きいとはいえない椀に半分と入っていない粥を一気にかき込む。あ!とあわてる陽子に、老爺は椀をつきだした。
 「ほら、行って来い。本当になくなっちまうぞ」
 陽子は、老爺の勘違いを解こうと口を開きかけたが、大事な粥を味わうことなく食べさせてしまったことが心苦しく、なんと言っていいかわからない。その戸惑いを遠慮と見たのか、老爺はぐいぐいと陽子に椀を押し付けると、その手に無理矢理椀を乗せた。
 「ほら、なにしとる。はよ、行って来い」
 「あの……。―――――はい」
 もはや老爺の親切を無碍にするのも悪いと思い、陽子は軽く頭を下げて、粥を待つ行列へと並んだ。だが、先ほど食事を済ませてきたばかりの陽子は、当然お腹はすいてはいない。この粥一杯にすがって命をつないでいる人々が目の前に大勢いるなかで、その貴重な一杯を自分が無駄にしてしまうと思えば、どうしたって罪悪感がちくりと胸を締め付けた。
 「そんなんでも食わせてくれる州侯に、感謝せにゃならんのかの」
 粥をもらって老爺のところへ戻れば、老爺がぼそりと言う。
 その言い方に少し引っかかるものを感じて、陽子は老爺をみた。
 「わしらがこれじゃ。川の向こうはもっとひどかろう」
 老爺の言葉に、陽子は首をかしげた。
 「川の向こうって、清陵?」
 「州侯は、わずかばかりの物でも配れば民が黙ると知っているのさ」
 「………それって、どういう」
 意味かと続けようとしたが、その前に老爺が言葉を続けた。
 「物資を運ぶ騎獣はわずか五、六騎。一体、それでどれだけの物資が運べると思う?大して学のないわしにもそのくらいはすぐわかる。―――――――清陵には娘がおるんだ。心配でならん」
 その言葉に陽子は、先ほどみた騎影を思い出す。確かに、考えてみれば少なすぎた。あれがもし物資を運んでいた騎獣なら、運べる量などたかが知れている。そもそも騎獣は、物を運ぶのに向かないのだ。焼け石に水といったところだろう。
 「あの、馬車とかでは運べないんだろうか?川は船で渡して」
 「お前さん、湍水を知らんのか?湍とは急流のこと。その名の通り、湍水は流れが速くて船を通すのが難しいんじゃ」
 「…………そうなんですね」
 陽子は、己のもの知らなさを恥じてうつむく。
 つまり橋は、本当に民の生命線だったということだ。その橋がすべて落ちた。川の向こうの民は、さぞ不自由を強いられているだろう。家を失った人々に、ちゃんと救済の手は伸びているのだろうか。
 陽子は心配を胸に、清陵に続く空を見上げた。
 老爺の言う通り州侯は、出し惜しみしているのだろうか。それとも、被災地が広範囲すぎて手が回らないのだろうか。陽子に判断はつかなかったが、蝕の報告を受けた際の浩瀚の言葉がちらりと脳裏をよぎった。
 (武州侯端厳は、なかなか侮れない男ですよ)
 ・・・・・・あの、含む物言い。
 陽子は思い出して、わずかに眉をひそめる。
 浩瀚は言外に意味を持たせるのと、一つの言葉の中にいくつもの意味を含ませるのが大好きだ。まだ二年ほどの付き合いながら、陽子はそれをいやというほど実感していた。そして、それを読み取るのも陽子の勉強と考えている。
 侮れない男―――武州侯端厳。
 州師の派遣も、一応はした形を取っただけなのだろうか。確かに一応すれば、後の言い訳はいくらでも作り上げられるのだろう。
 ―――物は言いようか。
 陽子は不快を覚えて、わずかに顔をしかめた。
 「なんでも和州では、ひどい州侯や郷長を取り除くために民が乱を起こし、主上がその民の心を汲んでくださったとか」
 老爺の言葉に、陽子ははっとして視線を向けた。
 「若い連中には、和州になぞらえて王に民の思いを届けようという者もいるらしいがの。わしは無駄じゃと思っとる」
 「・・・・・・・・・なんで?」
 「きけば和州では、民らはあからさまにひどい扱いを受けていたという。そういう州侯を罰するのは簡単じゃろう?しかし武州侯は、最低限のものは与えるんじゃ。それで立ち行かぬのは明白なれど、何もしていないわけじゃない。少しだけ与えて、これ以上は無理なのだといえばいい。石高を最初から偽れば、書類上は齟齬もないから国府にもばれぬ。まあ、ある意味武州侯は、やり方がうまいのさ。噂では、州城の地下には大量の穀物が眠っているとか」
 まさか、と陽子は目を見開く。昨年の収穫高は全州すべて確認した。どこも少しずつではあるが上向いて、それを喜ばしいと思いはしたが不審などどこにも感じはしなかった。それに、不審があればあの浩瀚が見逃すはずがない。
 そこまで思って、陽子ははたと気づく。
 不審に思っても、王に告げるほどには確証のないことなら?きっと浩瀚は、その時点で自分に告げることはないだろう。そして、あの手この手で密かに調査を進めるはずだ。
 思えば、蝕被害の調査に冢宰自ら行くことも考慮したのはどういうことか。そして自分の代わりに推したのが、今の朝でもっとも信頼していると言っていい桓
 ―――武州には、何かあるのか?
 今は、和州の乱の時とは状況が違う。あの時は信頼できる官など誰もおらず、瑛州師も王師も動かせなかった。だが、今は武侯の状況を調べよと言えば浩瀚が余すところなく調べ上げるだろうし、王師を動かそうと思えばすぐに動くだろう。一人で四苦八苦する必要はない。しかし、とりあえずは清陵の様子は見てこなければいけないだろう。孤立してしまった民の様子やそこで行われている救援の様子が気になる。
 夜まで待てば班渠に乗っていっても目立ちはしないだろうが、あいにくとそんなにゆっくり構えていられる時間がない。
 「清陵に行く方法ってないんですか?」
  その、私も知り合いが居るので心配なんです、といえば、老爺は同情の色を深くした。
 「なくもない。魯将軍が安否を気遣う民の心を汲んでくださって、手紙のやり取りを援助してくださっておる。丑門の脇に立っている兵が窓口になっておるが、その兵に少し金を握らせれば、手紙を運ぶついでに騎獣で川向こうまで運んでくれるらしい」
 「魯将軍?」
 「武州州師の将軍じゃよ。将軍は真に民の味方じゃ。あの方が州侯の任についてくだされば、武州の民ももうちっと救われると思うがのぉ」
 こればっかりはなんとも、と老爺は頭を振る。
 「じゃが、役人に知られちゃならんぞ。武侯はな、民に慕われておる将軍が目障りなのじゃ。何とか粗を捜して罷免しようと躍起じゃ。偽王側についたことも将軍のせいにして追い落とそうとしたらしいが、主上がその責は誰にも問わぬと公表なされたとかで、うまくいかなんだ。じゃがなあ、命じられてもいないことをやっているとなると、どんな言いがかりをつけてくるかわからんじゃろう?」
 老爺の視線に陽子は頷く。
 「金をもらって人を運んでいるのは、兵が勝手にやっている小遣い稼ぎのようなものさ。皆それで納得しとる。手紙のやり取りはただでしてくださるんだ。それでも渡りたいという者が金を払うのはある意味当たり前のことだと思わんか?ただで乗せてくれる、馬車などあるまい?でもきっと、武侯が知ればこれ幸いと将軍をつつくじゃろうよ」
 初めて聞く、武州の内情。自分は本当に何も知らない。陽子はそう思って、固い表情で唇をかみ締めた。

 

 
 
 

  
 
 
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