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 金波宮へと連れて来られた端厳は、宮城内の一室でかなり長いこと待たされていた。州城で待っているはずの山のような書類が何度も脳裏をよぎって落ち着かなかったが、思明が見送りの際にかけてきた「留守はお任せくださいませ」との言葉を信じるよりほかはなかった。
 いや、思明は使える男だ。仕事振りを信じないわけではない。ただ、今の武州の状況を考えれば、気の毒なくらいに多忙なはず。それが容易に想像できるがゆえに、ここでひとりのんびりと結果を待つだけの身であることが落ち着かなかった。
 すでに五日が過ぎていた。秋官が何度か出入りした以外は、身の回りの世話をする女官しか見かけないひと気のない房室である。外に出るなと言われているわけではないが、どうせ戸の外には見張りの兵が立っているだろう。それに、のんびり散歩する気にもならず、一日中榻に座って物思いにふける以外にすることがなかった。
 ―――こんなにのんびり過ごすのはいつ以来か。
 そんなことを考えていた端厳の耳に、久しぶりに近づく足音が聞こえてくる。
 誰かと立ち上がって迎えれば、涼しげな表情を浮かべた冢宰浩瀚であった。
 「長らく待たせたな」
 その気さくな口ぶりに端厳はわずかに反応したが、何も言わずに拱手した。
 「さて、詮議の結果を伝えておこう。まず、魯将軍による武州侯暗殺計画だが、種々の証言からまず間違いないと思われる。が、本人は否定し、むしろ武州侯にはめられたのだと主張している。これについては残念ながらどちらも決定的な物的証拠がない。ゆえに主上は、この度は誰の血も流れなかったことに重きを置かれ、不問に処すと決断なされた」
 甘い、と断じた心の声が聞こえたかのように、淡々と説明していた男は笑った。
 「ただし、このような疑惑があった中ではお互い仕事がしにくかろうと主上が憂慮されてな。魯将軍を瑛州師に移動させ、新たな役目をお与えになるとおっしゃっておられる」
 「……」
 わずかに瞳が動いたのを見て、浩瀚は口の端に笑みを乗せた。
 「主上はまことに慈悲深いお方であらせられる。どうやらお前も、命拾いしたようだな」
 「―――やはりお前は、俺の命もねらっていたか」
 「まさか。ならば桓を使者に立てたりはしない」
 端厳が顔をしかめるのを見て、浩瀚はくつくつと笑う。
 「お前には、もう少し働いてもらわなければならないしな」
 その言葉に端厳が怪訝そうな顔をした。
 「金波宮へ戻る気はないか?」
 「まさか。これからようやく本当の意味で武州を整えられるというのに?」
 「目の上のたんこぶがなくなった武州は、さぞ住みやすかろうな」
 その言葉に、端厳の眉がぴくりと動く。
 「―――どういう意味だ」
 「そのままの意味だ。お前も随分楽したがりになったものだな。まあ、あれっぽっちの男を廃するのに無駄に時間ばかりかけていたお前だ。やはり国府へ呼んでも主上の役には立たぬか。ただ、私に言わせればあの男も色々使い用はある。廃することを画策する前に使う道をみいだせばよかろうに。お前は昔から潔癖にすぎるところがあるからな」
 端厳は憤然として眉根を寄せた。
 「お前は必要悪だとでも言うのだろう。俺はお前の、そういうところが嫌いなんだ」
 「わかってないな。馬鹿とはさみは使いようと言うだろう」
 「なんだそれは」
 「蓬莱のことわざだ」
 「知るか!―――そもそも、無駄に時間が掛かったのは誰のせいだと思っている。偽王などさっさと敗北するだろうと思って与したのに、あれだけ戦が長引いたのは、お前がさっさと諸侯を纏めて偽王を倒さないからだろうが。挙げ句の果てには麦州までおとされるとは!あの男もろとも逆賊として死のうと思っていたのに、慶そのものが失われる瀬戸際だったのだぞ!主上が雁の王師を引き連れて偽王討伐に立ち上がって下さらねばどうなっていたと思う!」
 「それを言うなら、お前がしょうもない策を弄して偽王につくから、お前に追随した州侯が出たのではないか。残りの内の三侯が偽王についたのは、偽王の許に台輔のお姿があったゆえのこと。不可抗力としか言いようがない」
 「自分のふがいなさを棚に上げて開き直りか」
 端厳は口の端に冷笑を浮かべた。
 「主上はお前を国外追放処分にしたのは冤罪だったと思っておられるようだが、俺に言わせればお前の罪など明らかだ」
 「―――そんなことは、言われずともわかっている」
 「・・・・・・そして、それは余州の州侯。いや、慶の官吏すべてに言える」
 低く響いた端厳の言葉に、浩瀚はわずかに笑った。
 「やはり、金波宮へこい。己の罪を悔いるなら、少しでも主上のために粉骨砕身することだ」
 「そしてお前にこき使われるわけだな」
 「心配することはない。少しでも国が良くなれば主上の笑顔が見られるという特典付きだからな」
 にやりと笑った浩瀚の顔を、端厳は険しい表情で見返した。長い長い沈黙のあと、端厳が小さく息を吐く。
 「―――それは随分、魅力的だな」
 その言葉に、浩瀚はにっこりと笑った。
 「そう。それはそれはとても魅力的だぞ。田舎に引っ込んでいては、もったいなかろう?」
 その時、パタパタという足音が響いてきて、ひとりの若い官吏が現れる。
 いや、官吏が平素身につける朝服を着込んではいても、それが間違いなく慶の至高の存在であることを端厳が見誤るはずがなかった。
 端厳は跪礼して王を迎えた。
 「この度は主上のお手を煩わせてしまって申し訳ございません」
 端厳が恭しく頭を下げてそう言えば、それは違う、と即座にいらえが返る。
 「私は慶の王だ。慶国内で起こるすべてのことに、私が無関係なことなど無い。だからそういう謝罪は無用だ。顔を上げてくれないか」
 「―――はい」
 言われて顔を上げれば、宝玉のように美しい翡翠の双眸がまっすぐに端厳を見つめていた。初めて目にしたとき、吸い寄せられるように見つめてしまった美しい瞳が目の前にあることに、端厳は人知れず感動した。
 その瞳が不意にそらされる。見つめる先に冢宰の浩瀚。
 「で、浩瀚。話はついたか?」
 「はい」
 その短いやり取りの中に、二人の気安さが伝わってくる。
 端厳は浩瀚と言う男をよく知っている。食えぬ奴だが、礼儀にはうるさい。その男がこういう態度を見せるのだ。よほど気安い間柄なのだろう。
 そんなことを考えていると、
 「そうか!」
 突如、明るい声が室内に響いた。
 そして、王が己を見て表情をぱっと明るくしたかと思った途端、端厳は己の身を襲った事態を一瞬把握できなかった。
 気づけば王が、自分の手をがっしと握っていたのである。
 「引き受けてくれるか。ありがとう!」
 「―――は?」
 訳のわからぬ端厳は、ひとり戸惑うばかり。金波宮へ来いとは言われたが、何かを引き受けたつもりは無い。しかし無邪気に喜びを表している主の笑顔を見れば、そんなことはとても言い出せる雰囲気に無かった。
 それにつかまれた手の感触が、簡単に端厳の思考を麻痺させる。
 「浩瀚から、武州が慶国一の米所になったのは、お前の手腕によるところが大きいと聞いたんだ。だからその手腕、次はぜひとも大司徒として生かしてくれ!」
 きらきらと自分を見つめる瞳には、どこまでも淀みがない。それでいてすべてを絡め取る力を秘めていて、端厳に抗うことなど不可能だった。
 「―――かしこまりました」
 答えて傍らの男に目をやれば、してやったりといわんばかりの目と合った。確かにただの人事異動では、自分は武州を離れることなど承服しかねただろうし、武州が心残りゆえに新たな役目も辞退したかもしれない。今の慶で、自分が大司徒に就く意味は大きい。そう思えば今回の一連の事態、どこまでがこの男の思惑の内であったのか。すべてを俯瞰したようなその目が、小憎たらしくてしょうがなかったが、自分の手を握り締めて笑う少女の笑顔に、これも悪くない、と端厳は思い直したのであった。

 すべては愛しき我が主のために―――

 浩瀚はひとり、満足げに微笑んだ。

 

 
 
 

  
 
 
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