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 「――――――すまない」
 陽子は小さく呟くと、唇を引き結んできびすを返した。
 その瞬間、穏やかな初夏の陽光が目を射抜く。反射的に目を細めた陽子は、振り返ったそこに、つい先ほどまで目にし、今もまだ背後に広がっている悲惨な情景が嘘かと思うほど安穏とした光景が広がっていることに言いようのない戸惑いを覚えた。そしてそのあまりの違いに、陽子はそのことの方に恐怖を感じたのである。
 その時に突き上げてきた感情は刹那陽子を激しく揺らしたが、しかしすぐに冷たく固まって、陽子自身が認識する前に澱となって心の奥深くに沈んだ。
 後には、ぽっかりと胸に穴があいたような虚無感だけが余韻として残る。その余韻のやり場を見つけられずに陽子はしばし光の中に呆然と立ちすくんでいたが、やがてふと我に返ると、その余韻を振り切るように一気に門を目指して駆けだしたのだった。


 今陽子にできることは、全力でこの場から逃げ出すことだけであった。だが、すぐにそれが容易ではないことを陽子は知る。文饒はどこまでも周到な男だったのだ。外には兵が配置されていたのである。
 「外へお出ししてはならぬ!」
 陽子の姿を認めて兵の一人が声を上げた。その声に兵卒が一斉に駆け走ってくる。手には棍。傷つけるつもりがないのはわかったが、多勢に無勢、遠慮をしている余裕などない。
 陽子は水禺刀を抜きはなった。
 狙うは急所。より少ない力で確実に相手を倒し、次々と迫り来る敵の手を逃れて外へと向かわなければならない。
 兵が迫る。最初の一打。陽子は軽くかわして胴を断つ。水禺刀の切れ味は相変わらず素晴らしく、たいして力を入れずともあっさりと大の男の胴と断ち切った。
 それを目の当たりにした兵卒らの顔色が瞬時に変わった。
 小娘ひとり。捕らえるだけに何の難しいことがあろうか。そういった余裕を見せていた表情から一気に血の気が引いたのが目に見えてわかった。
 おそらく、長らく太平の世が続いた国であるなら、それで兵卒らは戦意を喪失しただろう。しかし慶国は波乱の国。実戦を積んだ兵卒らも多く、気持ちの切り替えにも状況に素早く順応するするすべにも長けていた。兵卒らは瞬く間に表情を引き締めると棍を構えなおし、次には見事な連携を見せながら陽子に迫った。
 それで一気に分が悪くなる。
 首を狙うはずが相手の動きに合わせきれずに手首を落とす。飛んだ鮮血に一瞬視界を奪われ、背後から迫る棍をよけきれずに左肩に衝撃を受ける。
 「何をしている、傷つけてはならぬ!」
 叱咤するその声に兵卒が一瞬躊躇したのを見逃さずに足を払い、体勢を崩したそこに過たず剣を突き立ててとどめを刺した。
 引き抜けば血しぶきが飛ぶ。その返り血を全身に浴びながら、陽子は頓着なく次の敵へと標的を変えた。
 今は余計なことは考えない。無意識に剣を振るい、とにかく門を目指すのみ。
 一人、二人、三人。
 確実に増えていく死体。だが、逃げ切るより先に、陽子の体力が尽きる方が確実に早い気がした。
 息が上がる。腕が重い。
 長らく食事を抜いて衰えた体が悲鳴を上げる。それでも剣を振るい続け、陽子は活路を切り開いて門へと駆ける。
 ―――見えた!
 陽子の視界が門を捕らえた。その時、
 「足だ。足を狙え!」
 怒号にも似た声が響き、陽子の右足は突如力を失った。何だ?と思った直後、右足に激痛が走る。自分の意志とは関係なく、がくりと体が崩れ落ちて、陽子は苦痛に顔をゆがめた。
 足に矢が刺さっていたのである。
 「今だ。身柄を確保せよ!」
 その声に一斉に兵卒が動く。その姿を見て陽子は反射的に立ち上がった。
 捕まるわけにはいかない。
 陽子の体はその思いで動かされていた。
 しかし、激痛に耐えながら何とか身を起こしたものの、もはや逃げおおせるとは到底思えなかった。右足には力が入らず、まともに剣を振るうことさえ難しかった。
 ―――捕まるのか?彼女たちを犠牲にしたのに。
 迫る兵卒を睨み付けながら、陽子は奥歯をぎりりと噛みしめる。
 ―――ここで捕まるなら、最初から動かなければよかったのだ。
 何人死んだ。自分のせいで。
 最後のひとあがきのように、陽子はめちゃくちゃに剣を振り回した。それにたじろいだ兵卒らが、陽子を取り囲んで立ち止まった。
 陽子を中心できあがった円陣。一瞬空気が止まったその刹那、その中心に飛び込んで来た一つの影があった。
 飛び込んできた影は手にしていた長槍を華麗に振り回す。そのたった一振りで、陽子を取り囲んでいた兵卒らが蹴散らされた。
 陽子は驚いて突如乱入してきた男を見やる。そして男を認めて、陽子はさらに驚きを深めた。
 「ご無事ですか、主上!」
 「――――――桓魋」
 「遅くなってすみません」
 桓魋は陽子を背後にかばうように立ち勇んで、兵卒らと対峙した。その背中越し、桓魋は問う。
 「門まで歩けますか?外に使令が待っています。ここにはどうやら入れないようですから」
 桓魋の言葉に陽子はうなずいた。右足に力は入らなかったが、その足を引きずりながら必死に門を目指した。
 その姿をちらりと確認し、桓魋は顔をしかめる。なぜだか無性に腹が立って、桓魋は咆えながら長槍を振り上げた。運悪く間合いに入った三人の兵卒が、胴を一刀両断されて上半身を宙に舞わせた。
 その様に、さすがに他の兵卒達が尻込みし、一定の距離をあけたままかかってこない。桓魋は、その距離と門までの距離を目測し、長槍を捨てて陽子を抱え上げると、そのまま一気に門へと走った。
 追いすがる兵卒を振り切り、二人は門をくぐる。直後、二人の体はふわりと宙に浮き上がった。
 「班渠!」
 その声に応えるように、二人を乗せた班渠が勢いよく上空へと舞い上がる。
 目指すはただひとつ。慶国首都堯天、そこに聳える凌雲山の頂に広がる金波宮。
 こうして陽子はようやく楊州城を脱することが出来たのだったが、身も心もすでに限界に近かった。


◇     ◇     ◇


 班渠の背にまたがって一路金波宮へと向かう桓魋は、焦りを禁じ得なかった。
 腕に支える少女の体が、先ほどからずっと小刻みに震えている。おそらく疲労と激痛と出血によるものだ。足に刺さった矢はそのままで、金波宮へたどり着くまでどうしようもない。
 全身にはべったりと血糊が張り付き、それがまた目に痛かった。
 この方は、この国の至高の存在ではなかったか。
 なのに何故、こうも傷つき苦しまねばならないのか。
 桓魋は、直接心臓を掴まれるような息苦しさと痛さを胸に感じた。
 班渠の足は速い。しかし、今の桓堆にはその速度さえもどかしい。
 一刻も早く、金波宮へ。
 支える腕にぐっと力を入れると、少女がわずかに身じろいだ。
 「―――桓魋」
 肩で荒い息を繰り返していた少女が、かすれる声で己を呼んだ。その声に腕の中の主を見やる。声を出すのもやっとという様子でありながら、主はのぞき込む桓魋の視線を感じたのかわずかに笑った。
 「――――――来てくれて、ありがとう」
 「・・・・・・なにを」
 桓魋は思わぬ言葉に、ぐっと言葉を詰まらせた。
 自分は礼を言われるようなことなど何もしていない。むしろ叱責されるべきはずだ。なのにこの方は、当たり前のように礼を口にする。
 桓魋はそのことが余計胸に痛かった。
 「お前が来てくれなきゃ、逃げられなかった」
 「何をおっしゃいます。そもそもあそこに主上が捕らえられたのは俺の落ち度です。浩瀚さまが気を抜くなと口を酸っぱくしておっしゃっておられたのに、まんまとあいつの策にはまってしまって・・・・・・」
 「同じようなことなら、私も景麒に言われたよ」
 少女がわずかに苦笑した。
 「帰ったら、いっしょにお説教だな」
 「・・・・・・主上」
 「浩瀚も景麒も説教魔だから、覚悟が必要だぞ」
 必死に軽口を叩こうとする主の心中を察して、桓魋もそれにあわせようとしたが、口を開きかけてやめた。とてもそんな心境になれなかった。
 「説教は俺一人で引き受けますよ。だから―――」
 その先の言葉を詰まらせて、桓魋はただひたすらに、儚い少女の体を抱きしめた。
 とにかく一刻も早く金波宮へ。
 それだけを願う桓魋は、金波宮もまた変事の渦中であるなど想像もしていなかった。


 
 

  
 
 
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