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 冢宰襲撃事件から一夜明けた金波宮では、その日の朝議に王宰輔のみならず冢宰の姿までなくなるという事態に陥っていた。国の中核をなす三人の姿がないとあっては、もはや朝議はその機能を果たさず、喧喧諤諤としてなにひとつ決まることはなかった。
 一体冢宰は無事なのか。無事だとしてもどの程度の状態なのか。事件を噂話程度にしか知らぬ者達はそれを知りたがったが、事件の真相を知っているらしいという噂の地官長の姿もないとあっては、一体誰に詰め寄ればよいのかもわからない。だが、現場は相当悲惨な状態で離れた仁重殿まで血臭が届き台輔がお加減を悪くしたらしいとの噂まで立てば、冢宰が五体満足だと思う方がおかしいのではないかというのが専らな意見であった。
 その日はとにかく、怒号が乱れ飛んだだけで朝議は早々に散会した。
 「そろそろ朝議が終わった頃かな」
 時を知らせる鐘の音に端厳はふと書類から顔を上げた。そして傍らに眠る男を見やる。随分と顔色がよくなったようだ。この男にはかえってちょうど良い休息になったのではと、端厳は眠る男を見ながら思う。昔から転んでもただでは起きぬやつではあったが、それでも昨日の惨劇を目にした瞬間は、さっと背筋の凍る思いがしたものだ。
 むりやり門衛を引き連れて浩瀚の執務室をおとなった端厳がそこで見たもの、それは筆舌に尽くしがたい光景であった。
 床を這う大量の血。飛んだ血飛沫は壁や天井までにも斑な模様を作り、その血の海に浮かんでいるのは、切り刻まれた人間の断片であった。
 おそらく仙を殺るのに苦労したのだろう。そして、ほとんど元の形を失っていない遺体がたぶん人なのだ。
 その血の海の中、部屋の主はただ一人ぼんやりと佇んでいた。
 「浩瀚!」
 端厳は室内の様子を目にするやいなや、男の名を叫びながら部屋に飛び込んだ。男の様子は明らかに異常で、見やる体は自身の血なのか返り血なのか判別がつかないほど濡れていた。
 「瘍医を!それと太師に連絡を」
 端厳は目の前の惨状に自失しているらしい門番にそう命じると、もう一度男の名を叫んで肩を揺らした。
 「大丈夫か?どこかやられたのか?」
 二三度肩を揺らせば、焦点を失って虚空を彷徨っていた視線がようやく端厳を捉える。それでも思考がうまく働いていない様子でしばしぼんやりと端厳を見つめていたが、
 「―――しくじったな」
 ややしてぼそりと呟いた。その言葉に端厳はわずかに眉を寄せた。
 「何がだ?」
 「手加減できずに、殺してしまった」
 言うと浩瀚は、手にしていた剣を放り投げるように捨てた。端厳は、問いにいらえがあったことにわずかなりとも安堵したが、すぐに浩瀚が左手を負傷しているのに気がついて顔をしかめた。
 「―――手に怪我を」
 だがそれにいらえはなかった。
 怪我は見るからに深く、剣によって貫かれていた。血は未だ止めどもなく流れ続けていて、仙とはいえかなりの激痛をその身にもたらしているはずだったが、男を見るにそれには全く頓着していないように見えた。
 そのことがまた、男の異常さを物語っていた。
 「おい、大丈夫か?とにかく座れ」
 再び視点が焦点をなくし虚空を彷徨い始めるのを見て、端厳はそばにあった榻に浩瀚を座らせた。体重を預けるように深く榻にもたれかかると、浩瀚はゆっくりと呼吸を繰り返していた。瘍医はまだか。むせ返るような血の臭いに辟易しながら、端厳は流れる時間の遅さにじれた。
 「なに、たいしたことではない」
 かなりの間があって、浩瀚がまるで独り言のようにつぶやく。傷みに頓着するよりも、朦朧とする意識をつなぎ止めておくことの方が必死なようであった。
 「自分でやったのだ」
 「―――は?」
 「おかげで目が覚めた」
 「・・・・・・お前」
 なんてことを、と言いかけて端厳は言葉を飲み込んだ。つまりは、そうせねばならない状況にあったということなのだろう。とにかく命が助かって良かったのだ。手の傷など、仙の身であればひと月もすれば綺麗さっぱりなくなってしまうのだから。
 「それにしても腹の立つ。―――人がせっかく作った書類を」
 その言葉と視線に机を見やれば、机上に散った書類の上にも血痕が激しく飛んでいる。確かにあれでは作り直さねばならないだろう。―――が、
 ―――それは今問題にすることなのか?
 端厳は大いに疑問だったが、相手は尋常ならざる状況に陥っている身だ。いちいちつっこむべきでもないのだろうと判断してあえて口にはしなかったのだが、相手にとっては非常に重大なことだったらしい。
 「作り直さねば」
 非常に億劫そうに浩瀚が呟く。それに対して端厳は宥めるように言った。
 「とにかく傷の手当てが先だ。そして、休め」
 「そんなわけにはいかない。あれは、王師を動かすに必要な書類だ。明日の朝一番に台輔の印をもらわないと」
 「お前、そんなに血を浴びたあとで台輔に謁見できると思っているのか。それに直接会わなくとも、今の状態ではお前が書いた書類というだけで台輔が病まれる」
 ごく当たり前の指摘に浩瀚は不機嫌そうな視線を端厳に向けた。
 「そういえば学生の頃も、せっかく書き上げた論文を提出前夜にだめにしてくれたやつがいたな」
 一体何の話だ、と思った直後、端厳は埋もれていた記憶がよみがえって思わず顔をしかめた。それは本当の古い話だった。何せもう何十年前の話か正確な年数を思い出すのも億劫なほど昔、まだ二人が大学生だった頃の話なのである。
 実は二人、ほぼ同じ時期を大学で過ごした学友なのだ。といっても特別仲がよかったというわけではなく、かといって疎遠であったわけでもない。少なくとも端厳は、そう認識している。ただ、本を通じての付き合いは、他よりも少しばかり多かったかもしれない。 というのも浩瀚という男は、字通り本当に大量に本を読む学生で、噂では図書府にある蔵書は地下の書庫に封印されている禁書も含めて全部読んでしまったらしいと囁かれていたような学生であった。学生の分際で禁書を閲覧できるのか、というのは大いにつっこむべきところなのだが、それでもおかしくないと思わせるものがその男にはあったのだ。そして浩瀚は、半端ない読書量のみならず個人的にも結構な数の本を所有していることでまた有名であり、しかもそれがめったに手に入らぬ珍しい本の数々とあっては、生真面目学生街道をまっしぐらに突き進んでいた端厳の食指をも動かすような代物だったのである。
 よって端厳はよくこの男に本を借りていた。ついでに内容に関する男の考えを聞くのも端厳にとっては興味の対象であった。思いもしない視点から切り込む浩瀚のものの考え方に、若かりし端厳はかなり刺激を受けたと言っていい。
 そしてその日も借りていた本を返しに端厳は浩瀚の部屋を訪ねたのだ。それがとある講義の論文提出前夜のことである。みれば男の机の上には明日提出の論文が広げられており、まだ書きかけのようであった。端厳はそれを見て、いつも余裕を持って書き上げるこの男にしては珍しいと思った。その疑問を軽く口にすれば「気になるところがあって一部書き換えていた」という。男曰く語彙の響きが気に入らなかったらしい。
 「何を。別に詩文を書いている訳じゃあるまい」
 端厳はあきれかえったが、男にとっては譲れないものだったのだろう。さて、どんな細かいところを気にしたのやら、とのぞき込もうとしたその時、手元にあった墨壺に袖が当たってしまったのだ。最悪なことに、足されたばかりだったらしい壺にはたっぷりと墨が入っていてかなり派手にあたりに散った。
 あ!と思った瞬間から、墨が白い紙の上を黒く塗りつぶしていく様をまるでスローモーションのように見た端厳は、さっと血の気が引いていくのが自身でもわかった。
 寿命が縮む思いがしたのは後にも先にもあの時だけだ。死を覚悟するほどの経験ならその後何度もすることにはなったが。
 「・・・・・・・・・・・・」
 いやな沈黙が室内に満ちた。端厳も言葉を失っていたし、浩瀚もおそらく一瞬自失したに違いない。
 「―――――おい」
 ややして響いた低い声に、ごくりとつばを飲み込んで、端厳は恐る恐る振り返った。
 「お前は俺に、なにか恨みでもあるのか?」
 「ま、まさか。これは事故だ」
 端厳は言ったが、事故だろうと故意だろうと、明日の朝までに書き直さなければいけない事実は変わりない。そしてそれがいかに大変かは、端厳とて簡単に想像がついた。よってとっさに、手伝う、と言いかけたのだが、その言葉は不機嫌に細められた浩瀚の視線によって遮られた。
 「代筆された論文が認められると思っているのか」
 「・・・・・・・・・」
 おっしゃるとおり、と心中うなだれた端厳にはもはや言葉はなかった。
 そして浩瀚は、相当不機嫌な表情で端厳を追い出すと、翌朝かなりひどい顔をして論文を提出したのである。嫌味なくらい何でもそつなくこなしていたやつであったため、浩瀚のその時の様子はちょっとした噂になったくらいだった。
 そんなことが遙か昔にあったのだ。
 もう一度言う。は、る、か、昔にだ。
 「・・・・・・お前、一体何年根に持てば気が済む。第一、あれはさすがに悪かったと思ってその後いろいろとお前の面倒なお願いを聞いてやったではないか」
 「それはお前の善意の行いであって、俺は借りを返してもらったとは思っていない」
 「な!」
 「そもそも借りを返すとは、互いが了承して初めて意味を持つ。お前が返したつもりであっても、俺がそれを認識していなければ返したことにはならない」
 「お前な!」
 端厳は思わず激高しかけたが、今の状況を思い出し、気持ちを静めるように息を吐き出した。ここは一つ大人な対応が望ましいのだ。
 端厳は、浩瀚の様子を見ながら思う。
 それにこの男は昔っからこういう憎まれ口をたたいては人を苛立たせることに長けていた。それを真正面から受け止めて腹を立てるのは馬鹿馬鹿しいし、自分ももう青臭い学生でもないのだ。それにこの男は自分の言葉に相手が腹を立てるのを見てどこか楽しんでいる様子のあるねじ曲がった性格の持ち主で、こちらが腹を立てればこの男の思う壺なのである。
 なのでなるべく余裕ある表情で、
 「憎まれ口がたたけるほど元気そうで何よりだ」
 と言えば、浩瀚はふっと鼻先で笑った。
 「―――話をそらしたな」
 「そらした覚えはない」
 端厳は少々むっとしつつ浩瀚を見やった。
 本当に、瀕死の状態でもかわいげのないやつだ。端厳はそんな浩瀚の様子をどこか忌々しくも思ったが、現実には傷つき弱ったその姿を見れば悪感情など抱けるはずがなかった。
 「いいか、よおく聞いておけよ」
 端厳は腰に手を当てて、榻にもたれる浩瀚を見下ろした。
 「今大事なことはな、昔の話をほじくり返して不平不満を言うことじゃないだろう。お前が今からすることはな、おとなしく瘍医の手当を受け、黙って休むことだ」
 「―――俺の話を聞いていたのか?」
 「ああ、聞いていたとも。明日の朝までに必要な書類があるのだろう。だから、お前がなんにもできずに寝ている間に、俺がその書類を作り直す。これはかつての借りの返しだ。いいか、もう一度言うぞ。今借りを返すからな。まかり間違っても、お前の身を案じた善意の行いじゃないからな」
 言葉を一つ一つ句切るように端厳が言えば、浩瀚はわずかに笑った。
 「では、心おきなく休ませてもらおう」
 言うが早いか、浩瀚はそのまま意識を手放したのだった。
 どうやら本当にぎりぎりのところで意識をつなぎ止めていたようだ。その様子にやれやれと思いつつ端厳は、下官の手を借りて浩瀚の体にべったりと付いた血糊を洗い、傷の手当てをすませ、この臥牀に放り込んだのだ。
 その後連絡を受けてやってきた太師と細かな打ち合わせを行い、詳細な情報は伏せておくことにしたのである。
 「死んだと思われたくらいの方がゆっくり休めよう」
 どこか楽しんでいるようにも見えたその太師の様子に、端厳はその言葉がどこまで本気か測りかねたが、とにかく言われたとおりにしたのである。
 だがそれによって、今朝の朝議はさぞ荒れたに違いない。何せ王も台輔も冢宰までもがおらず、冢宰は生死さえ不明なのだ。この状態で万が一白雉が落ちることになれば、仮朝立ち上げは相当混乱するはずである。朝議に参列した者達は、その「万が一」を巡って口論しただろう。あるいは「万が一」を考えること自体について。
 その様を想像して、端厳はふとある思いを抱く。
 ひょっとすると太師は、それを見たかったのかもしれない。そんな時にこそ人の本性が垣間見える。
 ―――やはり喰えないお方だな。
 そう思って口に端にわずかに笑みをのぼらせたその時、
 「気持ち悪いな。何をひとりにやついている」
 突如かけられた声に端厳は一瞬驚いて、声の方を見やった。
 見れば傍らに眠っていた男が、怪訝そうな表情でこちらを見つめていた。

 
 

  
 
 
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