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 開口一番がそれか?
 相変わらずのかわいげのなさに、端厳は少々眉根を寄せたが、あえてそれにはふれなかった。言えばどうせ腹立たしい憎まれ口を叩くに決まっているのだ。
 「書類は太師にお渡ししたぞ。多少なりとも俺にも血臭が染みついていようからな。直接台輔にお会いするのは遠慮した」
 「ああ、それでかまわない」
 浩瀚はゆっくりと身を起こすと、窓から差し込む光にまぶしそうに目を細めた。
 「今はいつ時だ?」
 「そろそろ朝議が終わる頃だ。終われば太師が見えられよう」
 「―――そうか」
 「久々にゆっくり休めたんじゃないのか。俺はおかげで寝そびれたがな」
 「なら今夜はゆっくり休めるように、お前のところに賊を送ってやる」
 「・・・・・・お前な」
 冗談なのか本気なのか。一瞬迷った端厳は思わず眉根を寄せたが、浩瀚は気にする様子もなく臥牀から起き出た。
 「着替えならそこだ」
 「準備のよいことだ」
 「太師が来られるまでここを出てもらっては困るからな」
 「死んだということにでもしたのか」
 何でもないことかのように言って衝立の向こうへと姿を消すその背を見やって、端厳はあきれた。
 師が師なら、弟子も弟子である。
 「安否不明くらいだろう。死んだなんて言えば余計ややこしい」
 「今日の朝議はさぞ見物だっただろうな」
 見られなくてさも残念という響きとともに、衝立の向こうからくつくつと笑い声が響く。端厳はその笑い声に、まったく、と息をついた。
 それからしばし、衣服を整える衣擦れの音だけが静かな室内に響き、その音を聞くともなしに聞きながら自分の思考に浸っていた端厳は、ややしておもむろに問うた。
 「―――なあ、正直お前は、主上の状況をどこまでつかんでいるのだ」
 表向き主上は、楊州城に軟禁されているということになっている。しかし詳細はいっさい伏せられ、どんな状況にあるかなど六官長とて知らされてはいなかった。
 いや、現実には、子細不明であると伝えられているのだ。どちらにせよ、何もわからないということに変わりはないのだが。そのことに、端厳とて内心は不安で一杯だったのだ。他の官吏や部下達の前では平然を装ってはいたが。
 「正直に言えば、はっきりとわかっていることは何一つないな」
 その返答に思わず険しい顔をすると、衝立の向こうで、いや、と小さく呟くのが聞こえた。
 「一つだけはっきりしていることがある」
 「なんだ、それは?」
 端厳が期待するように、あるいは救いを求めるように問いかければ、着替えを終えた浩瀚が衝立の向こうから姿を見せて静かなまなざしを端厳に向けた。
 「主上は必ず戻ってこられるということだ」
 「――――――」
 その少々意外でもあった答えに、端厳は思わず浩瀚を見つめた。
 「・・・・・・それは根拠のあることか?それとも、お前の願望か?」
 「主上は約束を違える方ではない。それが理由だ」
 「それは不可抗力を含めない話ではないのか?」
 「いいか、端厳」
 どこか不安げな端厳に、浩瀚はいつになく真面目な、それでいて柔らかな口調で端厳に告げた。
 「主上は、我々をお見捨てになどならない。主上を信ぜよ。そして我々にできることは、主上が戻られるまで耐えることだ」
 その強くまっすぐな視線に、端厳はこの男の覚悟の深さを見た。


 太師が現れたのは、それから間もなくのこと。すでに着替えをすませた浩瀚を見て、うむと一つ頷いた。
 「もう、起きておったか」
 「はい、ご心配おかけしました」
 「怪我はどうじゃ。痛むか?」
 「大事ありません」
 「ならば、結構」
 遠甫はもう一度頷く。
 「台輔から伝言を預かってきた」
 浩瀚が視線をあげると、遠甫の双眸がきらりと光った。
 「王気が近づいておるそうじゃ」
 「!」
 弾かれたように浩瀚は瞠目した。
 「―――それは」
 「台輔は、禁門にてお待ち申し上げるとおっしゃっておられた」
 その言葉に浩瀚は口元を引き結んで頷いた。
 「では、私もすぐに」
 事態は一気に急転しようとしていた。


◇     ◇     ◇


 禁門をくぐると、広い露台の先に南空の一点を見上げて動かない台輔の姿をすぐに見つけた。浩瀚は裾を翻しながら、急ぎ足で景麒に歩み寄る。振り返った瞬間わずかに顔をしかめたのは、おそらくまだ体に血臭が染みついているからだろう。怨嗟ある血だ。麒麟にとっては苦痛だろう。だがこの状況下、浩瀚はその事実を無視することにした。今一番優先すべきは、近づいているという王気なのだ。
 そして景麒もまた、わずかに顔をしかめただけで何も言いはしなかった。
 「台輔。主上は?」
 「―――まもなく」
 言葉少なげに景麒がそう答えた時、蒼穹に黒い影が現れた。影は少しずつ大きくなる。それでも、その影が禁門に降り立つまでの時間がもどかしかった。禁門に詰めていた誰もがわずかの緊張を孕んで近づいてくる影を見守った。
 そして使令の背に二つの影がはっきりと確認できるまで近づいた時、景麒はさっと顔色を変えて口元を抑えた。
 「・・・・・・血の匂い」
 その言葉に浩瀚は景麒を仰ぎ見る。
 「まさか、お怪我を?」
 影が確認できるほどに近づいてきたとはいえ、まだ顔の判別までがつくわけでもない距離。その距離で血の匂いを感じるということは
 「瘍医を!」
 浩瀚は、息をひそめて事態を見守っている禁門の兵卒らに向かって叫んだ。その言葉に、兵卒らがあわただしく動き出し、その場は一気に騒然となった。
 このことから皆ある程度の覚悟を持って王を迎えたのだが、血まみれで息も絶え絶えな陽子を抱えて桓魋が禁門に降り立つと、その場は一瞬、一切の音をなくして凍りついた。陽子の姿に誰もが息を呑んで目を見張り、言葉を失って立ちすくんだのである。


 桓魋に抱えられた少女は力無く四肢を垂れ下げていた。その体は血に染まり、いつもまばゆいばかりの赤髪は、固まった血糊で今はその輝きを失っていた。
 見るからに細った体。
 そして、足に刺さったままの一本の矢。
 浩瀚はその姿を見た瞬間、脳天を思い切り殴られたような衝撃を覚えた。
 「――――主上!」
 悲鳴にも似た声を上げ、ふらりとおぼつかない足取りで歩み寄る。ぬくもりを確認せんとばかりに思わずそのほほに手を伸ばせば、翡翠の双眸がゆっくりと開いて浩瀚を見た。
 「・・・・・・浩瀚」
 「ああ、なんと―――」
 震える息にこもっていたのは、この上ない安堵。とにかく生きてお戻りになったという喜び。しかし束の間の安堵が過ぎ去ると、浩瀚は抑えようのない怒りが突き上げてきて、身を震わせながら唇を噛みしめた。
 ―――なんということを、文饒め!
 しかしその怒りは同時に、自分に対する怒りでもあった。
 ―――やはり、なんとしても、なんとしても、楊州行きを阻むべきだったのだ。
 それは現実不可能なことであったが、それでも浩瀚はそう思わずにはいられなかった。
 陽子のこの姿を目にして、そう思わないでいられるはずがなかった。
 激しい後悔の念にさいなまれる浩瀚に、陽子は弱々しいながらもまっすぐに視線を向けた。
 「浩瀚、戻るのが遅くなってしまってすまない」
 「何を・・・・・・。何をおっしゃいます」
 浩瀚は今度こそ言葉を失った。
 「主上!」
 その時、ようやく我に返ったらしい麒麟の声が突如響く。その声にどこか虚ろだった瞳に生気が宿り、視線が半身に向けられた。
 「・・・・・・景麒」
 「お怪我は、い、今、瘍医を」
 「大事ない」
 陽子は一度大きく息を吸い込んで、改めて半身に向かった。
 「それより、今私といては体に障る」
 「しかし」
 「怨嗟も纏っているし、血も浴びすぎた。しばらく離れていた方がいい。―――芥瑚」
 陽子が呼ぶと、一瞬躊躇うような気配ののちに、景麒の影が揺れた。
 「景麒を下がらせて」
 「承知しました。―――さ、台輔」
 「穢れが落ちたら会いに行く」
 その言葉にうなずいて、景麒は渋々その場を離れた。
 その背を見送って、浩瀚は改めて陽子を見やる。そして桓魋を見やった。
 「正寝へは私がお連れする。お前は身なりを改めてこい」
 桓魋はうなずく。州城に潜入するために桓魋は州師の格好をしており、当然未だそのままの姿であったのだ。その姿で宮城内をうろつくのはいささか問題がある。誰もがそう納得して、浩瀚の言葉を不思議に思う者はなかった。
 浩瀚は桓魋の腕から少女を預かると、まるで壊れ物でも扱うようにそっとその腕に抱いた。腕に伝わるわずかの重みと暖かさが、何より浩瀚の心を癒し、同時に胸を熱くした。


◇     ◇     ◇


 景王帰還。その報を受けて正寝は一気に騒然となった。女官らがあわただしく回廊を行き交い、瘍医らが飛んでくる。
 誰もがまずは陽子の身を案じ、手当と休息を望んだが、帰還した彼女は傷つき弱っていても己のすべきことを知る王であった。
 「浩瀚。現在の状況を報告せよ」
 陽子は床几に腰を下ろすなり浩瀚に視線を向けた。
 「それよりもまず、傷の手当てを。それからごゆっくり体を休めてくださいませ」
 「傷は、たいしたことはない」
 そう言って彼女は自ら矢に手をかける。それを見て浩瀚は、その手を押しとどめた。
 「私がやります。歯を食いしばってください」
 一瞬迷うような様子を見せて彼女は頷く。それを確認して浩瀚は、「失礼します」と少女の足に手をかけた。なるべく負担にならぬように浩瀚が慎重に引き抜けば、彼女は小さなうめき声ひとつあげずに、わずかに身を震わせただけだった。
 そのあとを瘍医らが素早く手当にかかる。
 その手当を受けながら、陽子は改めて浩瀚に視線を向けた。
 さあ、早く報告を。翡翠の瞳がそう言っている。しかしそれでも浩瀚が躊躇っていると、
 「命に関わるほどの傷でもなし。それより優先すべきことがあるだろう」
 紡ぐ口調にゆるぎはなかった。
 問題にすべきは傷の重さではない。
 浩瀚はそう言いたかった。
 主の憔悴は深い。とにかく体を休めてほしい。
 だが、少女の視線の強さがそれを封じた。
 浩瀚は観念してこれまでの経緯と現在の状況を説明する。瘍医の手当を受けながら、陽子はその奏上に神経を集中させた。無理矢理集中せねば簡単に意識が霧散しそうだったのだ。
 それほどに陽子の憔悴は深かった。だが、やるべきことをやってからでないと倒れるわけにはいかないと、陽子は本能的に察していた
 ことは一刻を争うのだと。
 「わかった」
 浩瀚の説明に陽子はうなずく。
 「よく、金波宮を守ってくれた。礼を言う」
 陽子の言葉に浩瀚は深々と頭を下げる。たったのこの一言で、浩瀚は全てが報われる思いだった。
 「では、一刻後に臨時の朝議を開く。おもだった官を外殿に集めよ」
 「お待ちくださいませ、主上。そればかりはどうか」
 「そうよ、陽子。休むのが先よ!」
 「そうだぞ」
 「その通りだわ!」
 一斉に発せられた声に陽子は苦笑した。
 「気遣ってくれるのはありがたいが、やるべきことをまずしなければ。―――でないと、一度目を閉じたら次にいつ目を開けられるか、自分で自信がないんだ」
 「・・・・・・主上」
 「事は一刻を争う。至急官吏を招集せよ。浩瀚、勅命である!」

 
 

  
 
 
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