| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

 
   
  - 16 -
 
     
 

 慶国の国暦、赤楽六年六月十九日。その日瑛州南部新容郊外は異様な熱気に包まれていた。なんといっても一万有余の楊州師が二万五千率いる王師に勝ったのだ。歴史的大勝利であった。そしてその勝利は否が応でも楊州師の士気を高め、誰もが王の名の下に戦える栄誉を噛みしめたのである。
 しかし、中でも一番喜んでいたのは自ら軍を率いていた文饒本人だろう。相手を出し抜く自信を持って用意していた謀計ではあったが、成功するまではやはり一抹の不安を抱えていたのである。
 何せ敵の首魁はあの冢宰浩瀚なのだ。口八丁手八丁、何をしてくるかわからない。文饒は決して浩瀚のことを認めていなかったわけではないし、怜悧なことは事実と受け止め、知略謀略に関しては国内で一二を争うだろうとさえ思っていた。
 ゆえに自分の計略が果たして通用するのか否か不安をぬぐいきれなかったのだし、勝利を手にしたという事実が何より、自分は浩瀚よりも上を行くのだ、とそのことの証明であるかのように思えて文饒は喜んだのだ。
 この勢いのまま堯天を目指して突き進めば、本懐は必ずや遠からず成就するだろう。
 その思いがまた文饒を興奮させた。
 そんな文饒の元に思わぬ報告がもたらされたのは翌日夕刻。軍をさらに進め、兵たちに野営の準備を指揮した直後のことであった。
 報告は二つあり、文饒がその二つの報告を受け取ったのはほぼ同時だった。そしてその報告によって文饒は、一気に奈落に突き落とされたのである。


◇     ◇     ◇


 「―――な!」
 報告に目を通した瞬間、文饒は思わず悲鳴にも似た声を上げた。わが目を疑って再度紙面を睨みつけ何度も読み返してみたが、それでも書かれている内容に変化はなく、読み間違いでも目の錯覚でもないことを受け入れざるを得なかった。
 届けられた報告の、ひとつは己が官邸にかくまっていた主上が乱入してきた禁軍将軍に奪われたことを伝え、もうひとつは、その主上が帰還したその足で諸官の前に姿をお見せになり禁軍を動かす勅を下されたと伝えていた。
 文饒は狼狽した。
 計画になかった事態に陥り、平静を保ってはいられなかった。
 ―――なんたることだ!
 文饒は肩を震わせながら盛大に舌打ちした。何もかもが忌まわしく呪わしかった。
 あいつか。これはあいつの策なのか。
 その思いが文饒をさらに動揺させた。
 目先の勝利に何か気の緩みがあったのだろうか。そしてあの男は最初からそれを読んでいて、その隙にはなから主上を奪い取るつもりでいたのか。もしそれが事実なら、あの男は今どんな顔をしているのだろうか。
 文饒は金波宮で見た、自分を目の敵のように苛烈な視線で見つめていた男の顔を思い出し、身がよじれるほどに悔しかった。つい昨日、自分はあの男より上なのだと喜んだばかりであるだけにより一層口惜しかった。
 どうして自分が奸臣より劣らねばならないのか。どうして天はやつの味方をするのか。
 文饒は理解できずにただただ肩を震わせた。
 自分の計画は完璧だったはずだ。事実今までは計画通りにことが運び、主上の身柄を保護することもうまくいったし、数の上で絶対的に不利だった戦いにも勝利した。天はやはり自分に味方しているのだ。文饒はそう思わずにはいられなかった。なのに・・・・・・
 ―――どうして天は己の正道を邪魔立てするのか!慶再興の芽を摘んでしまおうとするのか!
 文饒はそのことが悔しくてならない。
 天は自分を認めていたはずではなかったのか。己のように真実王を思い、行動する者が必要なのではなかったのか。
 ―――天は、慶の混乱を望んでおられるとでもいうのか!
 文饒は唇を噛み締めたまま天を睨んだ。
 だがどんなに天を睨もうと悪態をつこうと、天は何も答えなしない。それだけは純然たる事実であった。
 答えぬものに問うても意味がない。文饒はしばらくして小さく息を吐くと、ようやく現実に思いを馳せた。
 主上が楊州にいない、と知れたらどうなるだろうか。もともと楊州師がすんなり動いたのは、主上のご意思、主上の御為である、という言葉で巧みに操ってきたからである。そして「主上より禁軍の軍旗を下賜された」ことにより、楊州師の士気は恐ろしいほどに高まったのだ。
 それを誰も疑わなかったのは、間違いなく主上が楊州にいたからに他ならない。
 主上の姿がすでに楊州になく、しかも金波宮にて禁軍を動かす勅を出された。それを知ったら、愚か者どもはたちまち尻込みするに違いない。
 そうなれば計画はたちまち瓦解する。ならば、事実はどうしても隠し通さねばならないのだ。
 だが…、と文饒は冷静に考える。
 事実を隠すということは、大きな爆弾を抱えるようなもの。それは事実が露呈したときにすべてが破綻することを意味する。
 得策ではない。人をだますとき、真実を隠すという方法は下策だ。うまく人をだますためには、嘘と真実をうまく混在させることが肝要なのだ。
 そう、能吏の筆頭冢宰浩瀚が舌先三寸でうまく周囲をだまし続けているように、自分も知略の限りを尽くしてうまく駒を動かし続けなければならない。
 なぜなら自分には、主上を真の王に押し上げ、腐敗した慶を再興させるという崇高な使命を負っているのだから。奸臣の謀略に負けるわけにはいかないのだ。
 それに……
 と文饒は心の中でそっとつぶやいて眉を寄せた。
 今回のことでやつらは、主上の心を微塵も考えていないことを図らずとも露呈してしまったのだ。主上を守るために施していたあの呪。あれは、万が一賊徒どもが侵入してきて主上を言葉巧みに連れ出そうとした場合、主上があそこを出ることを拒む一助になるはずだった。
 主上はお優しい方だ。誰もを哀れみ、命を軽々しく扱うことをなさらない。だから、女官らの命も哀れに思わなかったわけがない。七日もの間ただじっと官邸に留まっていたことがそれを証明している。
 だが賊徒どもはそんな主上の心を思いやることなく主上を連れ去ったのだ。二十人もの罪なき犠牲というものを背負わせて。
 そのことがまた文饒を憤らせる。
 そしてもうひとつの報告。これもやつらが王をないがしろにしていることの証左だ、と文饒は思う。
 雑多なことに忙殺されあまり主上の様子を見に行けなかったが、最後に見た主上の様子は明らかに憔悴が深かった。女官の話では何も口にされていないという話だったし、それも仕方ないことかもしれないと受け止めていた。信じていたものが偽りだったという現実は誰であっても衝撃的なことだ。それを受け入れるには時間がかかるだろうし、食事がのどを通らないという気持ちにもなるだろう。
 そのことに対して自分は、主上のお心を安んじさせるためには一日も早く自分の計画を完遂することだと肝に銘じて奔走していたわけだが、あいつはどうだろうか。
 あの憔悴深い主上を連れ戻してすぐさま諸官の前に引っ張り出したのだ。
 自分の正当性を諸官に向かって明言させ、一刻も早く禁軍を出す勅を下させたかったのだ。王師が大敗した直後。そうでもせねば自分の身が危ういとでも思ったのだろう。
 ―――ああ、おいたわしや。
 結局やつらの言いなりなのだ。傀儡でありながら傀儡を自覚できず、また傀儡であることを自覚させぬようにうまく丸め込んでいる奸臣ら。
 「・・・・・・主上」
 文饒は、南鄭視察時に見た主上の凛然とした姿を思った。
 清廉で思慮深く慈悲に満ちた女王。決して稀代の名君たる資質を備えていないわけではないのに、その芽を伸ばすことを禁じられてしまっている。磨けば類まれに見る輝きを放つ力を秘めながら、原石のままに放置されこのままではやっぱり石ころだったのよと後世に言われるだろう。
 ―――何ということだ。
 文饒は瞑目した。
 とにかく悔しくてならなかった。彼女を輝かせてやれぬ自分の力不足が、彼女が輝くのを阻む奸臣らの存在が、自分を阻む天の存在が、やつらをのさばらせる天の意思が。そして、彼女を思い、彼女の姿を浮かべ、まっすぐに己を見つめる翡翠の双眸を思ったとき
 ―――ああ。
 文饒は唐突に理解した。

  スベテハジブンノタメナノダ、と。

 それは神の啓示に似て、唐突に文饒の脳裏に飛来した。
 主上は無理に連れさられたのでもなく、無理に諸官らの前に引っ張り出されたのでもない。ではなぜ主上は満身創痍になってまで楊州城を抜け出し、その足で金波宮の官吏らの前に姿を現したのか。
 主上は一刻も早く禁軍をお出しになりたかったのだ。他ならぬ自分のために。
 そのことに気がついて、文饒からは知らず笑みがこぼれた。
 そうだ。禁軍に堯天山にこもられたら戦は徒(いたずら)に伸びるだろう。長期戦、それは軍量が嵩むことを意味し国土に疲弊をもたらす。
 そのことに主上は気がつかれたのだ。だから、戦を短期に終わらせるため禁軍をお出しになったのだ。動けば必ず隙が生じる。何せ多勢に無勢なのだ、相手はこちらを甘く見ているだろう。
 主上は暗にこう告げておられる。禁軍を撃破せよ。そのためのお膳立てはしてやったぞ―――と。
 文饒は、こみ上げてくる歓喜に身を振るわせた。喜びのあまり叫びだしたいような衝動に駆られ、それを抑えるのに苦労した。
 「ああ、さすがは主上であらせられる。能吏どもにうまく操られているばかりで良しとなされるお方ではないのだ」
 主上は茨の道を進まれた。ならば自分はその思いに応えなければならない。
 文饒はきびすを返すと部下に至急兵を集めるよう下達した。
 主上の思いに応える秘策がすでに文饒には浮かんでいた。

 
 

  
 
 
inserted by FC2 system