| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

 
   
  - 17 -
 
     
 

 集められた師士らは、一体今から何が行われるのかと息を呑んで時を待っていた。
 彼らはこの軍を実質率いているのが州令尹胡文饒(こぶんじょう)であることをきちんと理解している。なぜなら出陣に際して州師一万有余の前で大演説を行い、主上の宣旨を皆に伝えたのが文饒であったからだ。
 その大演説は実に見事なもので、耳に心地よい言葉の並びに皆陶酔した。文饒の言うがままに主上より全権を任されたという言葉を信じ、主上のためにこの戦は必要不可欠なのだという言葉を信じた。「みなを信頼し託された」という紫の龍旗が誇らしく、文饒の言う通り国府は排除せねばならぬ慶の膿なのだと思った。
 そして文饒が皆を集めるのはあれ以来だ。きっと先の勝利で主上からお褒めの言葉があったに違いない。
 高まる期待を胸に、一同文饒が現れるのを待つ。程なくして、誰もが待ちわびていた姿が皆の前に現れた。
 文官らしい細い面に華奢な体つき。鎧こそ纏ってはいたものの明らかに実践には不向きな雰囲気で、それだけを見れば軍を率いるには頼りなさげに見えたが、その姿を侮るものは誰一人としていなかった。
 文饒の登場にその場は水を打ったように静まり返り、とても二万近くの人々が集まっているとは思えないほどの静寂に包まれた。けれどもその場に籠もる熱気はすさまじく、初夏の気温に湯気が立つのではないかと思えるほどであった。
 「諸君。ついに戦の火ぶたは切って落とされた。我々はこの戦場を駆け抜け、新たな慶へとたどり着かなければならない。昨日の勝利がその第一歩だ。未来へと繋がる大きな勝利を、我々は手にすることができたのだ!」
 力強い文饒の言葉にその場の空気はさざめきたった。士気の高揚するのが手に取るようにわかる。だが、その空気を冷ますように文饒は低く声を這わせた。
 「―――だが、忘れてはならない。昨日の勝利は我々の戦力によってもたらされたものではない」
 どこか冷たく響いた声に、はっと息を呑む気配が満ちた。その反応を確かめるようにゆったりと間を取って、文饒は言葉を続けた。
 「皆も気づいているだろう。あの戦で勝利したは、主上のご威光のおかげである。我々に下された龍旗に敵が動揺し、あえて見ようとしなかった現実を突きつけられて自滅したのだ。だが、敵の兵力はあれがすべてではない。そして、現実を突きつけられたやつらは自分らの不徳を受け入れることなどできず、我々を力でねじ伏せることで自分らの正当性を主張しようとするだろう。事実!」
 文饒の声は一層張りあがった。
 「先ほど私の元に二つの報告がもたらされた。ひとつは私がお匿い申上げていた主上が敵の手によって奪われたこと。もうひとつが、禁軍の出陣が決まったことである」
 な!という叫びとともにその場が一気にざわついた。では自分たちはどうなるのか。禁軍といえば黒備三軍三万七千五百。王師からの投降兵を合わせても二万弱にしかならない楊州師で太刀打ちできるとは思えない。王師とてまだ一万九千は残っているのだ。
 主上がいなければ国府は禁軍を出せない。なのにそれでも国府が禁軍を出してきた時、その時はどちらに正義あるかと迷っていた他州も我らに味方してくれる。そう聞かされていたのだ。
 だが、主上の姿が金波宮にあって禁軍がでてきた時、他州は果たして楊州の味方になってくれるだろうか。
 ざわめきと動揺はさざ波のように広がり、その場の志気が一気に下降するのが手に取るようにわかった。その様子をあくまでも冷静に眺めながら、文饒は静まるようにと手を上げる。
 「諸君らの動揺は理解する。だが、物事は表面上だけを見てはならない。なぜ主上は禁軍を動かす勅を下されたか。そなたたちの中に推察できる者がいるだろうか」
 その問いかけに一同はまた静まり返って文饒を見やった。誰もその問いに明確な答えなど持たなかった。中には文饒に騙されたのではないかと疑う者だっていた。それが一番しっくりくる答えであるように思ったのだ。
 「考えてみてほしい。主上は台輔を人質としてとられれば要求を呑むしかないのだ」
 あまりにも明らかな事実でありながら、失念していた者の多いそれに、はっとするような気配があたりに満ちた。
 王は神。神籍にあっては老いも寿命もなく、首切られるか胴をたたれるかでもせぬ限り死ぬことはないが、その例外が麒麟を失うことなのだ。王は麒麟を失ったら余り間をおかずに息を引き取る。王を神に押し上げたのは麒麟だ。ゆえに麒麟を失えば天命を失い生きながらえることはできない。麒麟の死は王の死。麒麟を人質に取られるということは、自らの喉元に刃物を突きつけられているに等しいのだ。
 「台輔も一緒にお助け申し上げられなかったのは確かに私の力不足だ。しかし私の探らせたところによると敵の首魁冢宰は台輔を王宮から出さぬよう画策し、その噂は金波宮内でも賛否をよんでいたという。そして台輔の命をたてに主上に自分たちの要求を飲ませたのだ。だが、私はここに主上からの言葉なき伝言を受け取った!禁軍派兵は奸臣らの言うがままに唯々諾々と従った結果などではない。考えてみてほしい。堯天山に篭城した禁軍を叩くのが如何に難しいか。動けば隙が生まれる。また隙を作らせるために仕掛けることもできる。だが篭城されれば攻め難く、持久戦になることは必死だ。それは民に多大な負担を与え国土の疲弊をもたらす。主上はそのことを懸念され、ゆえに奸臣の言に乗ったふりをして禁軍をお出しになったのだ。そして我々に知略体力の限りを尽くして禁軍を撃破し、この戦いに一日も早い勝利を収めよとおっしゃっておられる!」
 文饒の言葉に皆の瞳が再び輝きだした。
 おお!という興奮の声が上がり、その場に再び熱気がこもった。
 「おびえることはない。我々には主上がついておられる。その身は金波宮にあろうとも、主上は我々こそを頼りにしておられるのだ。そして我々はその思いに応えなければならない。下された軍旗に恥じることがない戦果を挙げるのだ。主上のために最後の一兵まで死力を尽くせ!」
 おお!という歓声が波打った。
 主上の御為!主上の御為!皆は声を張り、拳を振り上げて高揚した。
 その様子を見て文饒は満足げにうなずいた。


◇     ◇     ◇

 報告書を受け取った陽子は思わず眉をひそめた。
 約束の三日が過ぎようとしていた。報告書はそれでも楊州師が武装を解除する様子のないことを伝え、本当に攻撃を開始してもよいのかと最終確認をするものであった。
 判断を覆すつもりはない。相手が応じぬというのなら仕方ないと思う。だがその一方で、相手がその選択をする確率をかなり低く見積もっていたのは確かで、自分の覚悟の甘さを痛感しないわけにはいかなかった。
 なぜ、と陽子は胸中自問する。
 なぜ楊州師は武装解除に応じないのか。
 ひとつ息をついて報告書を携えてきた浩瀚を見やれば、自分の決断を待つようにまっすぐに己を見つめている。
 どうなさいますか?
 黙していてもその目はそう問いかけていて、「攻めよ」とも「攻めるな」とも言ってはいなかった。おそらくどちらの決断を下しても、浩瀚は黙ってそれに従うと心を決めているのだろう。ただ、どちらにするにせよ「自身で決断せよ」静かなその瞳はそう言っているようであった。
 陽子は迷う心を押し隠すように、浩瀚から視線をはずして窓の外を見やった。
 ひょっとして彼らは、「禁軍は動いても実際は攻めてこない」と思っているのだろうか。実際和州の乱ではそうだった。それを前例に持ち出して文饒がうまく丸め込んでいる可能性はある。では、少し動いて見せればこちらの本気が伝わるだろうか。
 陽子は、どこまでも甘い考えを抱いてしまう自分を自覚して思わず苦笑した。
 軍を少し動かすとはどういうことか。五十人殺すことか、百人殺すことか。そしてそれで事態が収束するなら「ああ、たった百人で済んでよかった」と思うのか。
 命の重さの前に「たった」など決してつけてはならない。だが、犠牲は一人でも少ないに越したことはない、と一方では思う。千人の犠牲を覚悟した中でそれが百人で済むなら、本心としてはやはりどこかで安堵するだろう。
 それに、と陽子は思う。
 王として自分は、未来の命まで考えなければならない。今百人の命を惜しんで、のちに千人の命を奪うことになるなら、陽子は王として今百人を殺さねばならない。つまりは、今命を惜しむあまりに甘い対応をして、後々に誰かの命を巻き込むような悪しき前例や禍根を残すことがあってはならないのだ。
 特に文饒は「王のため」という耳に心地いい伝家の宝刀を振り回すだけに対処の仕方を間違ってはいけない。「王のため」ならば何でも許されるのではないということを今示しておかなければ、同じことは何度も繰り返される可能性があるのだ。
 陽子はゆっくりと息を吸い込んだ。
 覚悟しなければならない、と陽子は自分に言い聞かせる。
 瞑目してゆっくりと呼吸を繰り返し、陽子は自分の心を戒め続けた。
 覚悟の末に見るかもしれない最悪の光景が脳裏に浮かぶ。それは水禺刀の見せる幻のように鮮明に陽子に迫った。陽子はその幻影のなか、数多の骸の転がる戦場を俯瞰しながら、肌をなでる風を感じ、燃え尽きようとしている人のうめき声を聞き、鼻を突く血の臭いを嗅いだ。
 そしてやがてゆっくりと瞼を開くと、陽子は口にはしに自嘲ともとれるような笑みをわずかに浮かべたのだった。
 ―――玉座とは所詮血で購うものだ。

 
 

  
 
 
inserted by FC2 system