時は少し遡って楊州。
王からの親書が届いたとの報を受けて文饒は州侯の元へと急いだ。飛び込むように執務室へ参上すれば、ちょうど楊侯が親書に目を通しているところであった。
楊侯は、字を勁松(けいしょう)という。本姓は朱で名を友といい、氏の華は楊州華県からとったものだ。ぎょろりとした眼が印象的で、立派なひげをあごに蓄えていた。
楊侯勁松は、その青々としたあごひげを何度もなでつけながら親書を読み終えると、ひとつ唸って文饒に視線を向けた。
「主上は何と?」
その問いかけに答えることなく、楊侯は文饒に書簡を差し出す。ぞんざいに丸められた親書を恭しく受け取って、文饒はさっと目を通した。そしてその内容を確認するや、密かに笑みを浮かべた。
文饒の胸に去来したもの。それは、
―――やはり、主上は思った通りのお方である。
という感動にも似た思いであったが、文饒はその思いを主に悟られてはならぬとばかりにわざと顔をしかめて見せた。
「やはり所詮は女王だ」
憤然として勁松が呟くのを、文饒は黙って聞いた。
「今度の主上は気骨があるとの噂だが、政の何たるかはやはり知らぬと見える」
「そのようでございますね」
文饒はそれには賛同した。大きく頷いたのに気をよくしたのだろう、勁松は政治に対する持論をとうとうと語り出す。それを聞いている振りをしながら、文饒は再度そっと親書に目を落とした。流麗に書かれた文章の御名だけは筆跡が違う。どこかぎこちなくも見えるが、誠実でまっすぐな人柄がうかがえるような筆致であった。
―――そう、主上は政の何たるかをご存じないのだ。
楊侯の言葉を反芻して、文饒は見たこともない主上に思いを馳せる。
―――そしてそれは決して、主上のせいではない。
主上は、胎果だ。蓬莱より帰還し、偽王を討って玉座に着いた。それは朱旌が小説にするほど劇的な登極として他国にまで広がっており、慶の官吏で知らぬ者はない。
胎果で、十六、七の少女が、最初から政のなんたるかを知っていると思うのがおかしい。そしてそれは、これから導いていけばよいわけで、王の器の前には些末事に過ぎない。
ただ、その導く者が問題なのだ。
文饒はそれを思うたび、なんとももどかしい気持ちになった。
予王をたった六年で潰した国官など信用できぬ。先の冢宰は背任が明らかになって罷免され、新たな冢宰を迎えたとはいうが、文饒はその新しい冢宰も信用してはいなかった。
新しい冢宰は先の麦侯だ。麦侯といえば、堂々と法令違反をしていた前科者である。ずいぶんと弁が立つという噂であるから、その得意の弁舌で物慣れぬ女王を良いように言いくるめてしまっているに違いなかった。こちらの世事に疎い主上は、冢宰に白といわれれば疑う余地などないであろうという想像は難くない。
―――主上をお助けせねば。
だが、ここから金波宮は遠い。
「令尹!聞いておるのか」
思いに浸っていた文饒は、強い呼びかけにはたと我に返った。主を見返せば、やはり聞いておらなんだな、と言いたげな呆れた視線を返される。
「申し訳ございません。今後こちらが打つべき手を考えておりました」
文饒がそう言えば、勁松(けいしょう)は納得したように頷く。
「うむ。さもありなん。しかし今回はそちを煩わせるまでもない。来いというなら行くまで。説明せよというなら包み隠さずすべてを説明すればよい」
堂々とそうのたまう主に対して、文饒は心の中で嘲笑する。
―――それはそうだろう。あなたは本当に何も知らないのだから。
自分が知らされた通りのことを、ただしゃべればよい。すべてが事実なのだからどこにも齟齬がないし、不審な点もないだろう。国府もそれで一応納得して、楊侯を放免するに違いない。
―――だが、それでは困る。
そう、困るのだ。他でもない自分が。金波宮から遠く離れたこの地から、主上と誼を結び、さらには真に主上の助けとなるために立ててきた計画が瓦解してしまう。
「なりませぬ」
文饒は神妙な顔で、はっきりと言い立てた。
「侯が行かれてはなりませぬ。この慶で一体何人の者が、冤罪でその位を追われたでしょうか。釈明の機会を与えるといいながら、すでにありもしない罪が確定しているのかもしれません」
「ではどうしろと?まさか無視するわけにはいくまい。それこそ反意ありという口実を与える」
「拙が参ります」
「なに?」
「拙が、侯の代わりに参城いたします」
その提案に勁松はうなった。迷っているのは別段、万が一にも優秀な令尹を失っては困るという臣を思いやってのことではない。そして文饒の方も、そうした情をこの主に求めてはいなかった。
「そしてどうする。そちが行くのとわしが行くのとでは何が違うか。罪を捏造しているというなら、そちが行ったところで後か先かの違いしかあるまい。それにむしろ、州侯を呼んだのに令尹が来たと、余計口実を与えるだけではないのか?それとも何か、てぐすねひいて待っている連中をも言いくるめる自信があるのか?」
勁松の言いように文饒は苦笑した。
「私にそのような才能がありましょうか。ひとえに侯の御身を心配してのことでございます。……ただ、拙の身に何かありましたときは、侯にはお覚悟を決めていただかねばならぬかもしれませぬが」
「―――要は時間稼ぎか」
「臣としては大切な役目にございます」
文饒が深々と頭を下げれば、勁松は自慢の髭をなでながらしばらく黙り込んだ。
「よし、そちの言う通りにしよう。わしの名代として金波宮へ参内せよ」
「拝命つかまつりました」
深々と下げたその顔に、文饒は密かに喜色を浮かべた。
◇ ◇ ◇
侯の前を辞した文饒は、出立の準備を整えると言い置いて、急ぎ城下の私邸へ戻った。私邸の最奥、めったなことでは家人も入れぬ堂室で、文饒はひとりの男と会った。
「どうだ?そろったか?」
文饒が問えば、男は抱えてきた荷を示して頷く。
「はい、ここに。ご指示があった枚数きちんとそろえてまいりました」
その返事に満足しつつ、文饒は荷を解いて中を確かめる。その出来栄えを見て、文饒は顔をほころばせた。
「見事な出来だ。本物と比べても遜色ない」
そうは言ったが、実は文饒とて本物を間近で見たことなどない。だが、印象にあるそれと寸分たがわぬ物のように見えて、文饒は大いに満足した。
「しかし、こんなもので本当に主上をお助けすることなどできるのですか?」
文饒が満足した様子にほっとしつつも、男は訝しげに問う。男が用意したのは、素材を言えば単なる布切れに過ぎない。
「主上のために国官を屠るとおっしゃるなら、こんなものより冬器が必要かと思いますが」
男の疑問は最もだった。しかしその疑問に文饒は、不敵に笑ってみせた。
「冬器など大量にかき集めればいずれ露見する。特に相手があの冢宰では、どんな策を弄したところで隠し通せやしないだろう。長く州侯を勤めたあの男は、州の不審はどこを探ればよいか知り尽くしていると考えなければならない」
「―――はあ」
「しかし、最初からないものはない。ないものを見つけることは、あの男とてできないだろう?州自体は痛くもない腹だ。どれだけでも探ればいい」
文饒は耐えかねたように、くつくつと声を立てて笑った。
「主上を楊州にお連れすることさえできれば、こちらの勝ちだ」
机に広げた布に視線を落とした文饒は、いつくしむようにそっと撫でた。
「今しばしお待ちくださいませ。私が、伏魔殿からお救いして差し上げます」
◇ ◇ ◇
陽子の出立の日は、六月十二日と決められた。文饒が金波宮を訪れたのが四月の下旬だったので、出立の準備にひと月以上かかったことになる。身軽を身上とする陽子はかなりじれたが、王の行幸を整えるのにこれでも早いくらいだと言われれば、そういうものだと納得するしかなかった。
いや実は、そんなに準備にかかるなら単身お忍びで行ってくる、と提案してみたのだが、その時の浩瀚の発した冷気といったら、陽子をもってしても二度と口にするまいと誓うほどのものであり、あっさり提案を取り下げたという経緯がある。
視線が圧力を持つものであると、陽子が初めて知った瞬間であった。
「じゃあ、行ってくるよ」
門前まで見送りに来た面々を見渡して、陽子はにこやかに笑った。どこか気分が高揚しているのは、やっと出かけられるという思いがあるからだ。国を立て直し中の王は早々出かけられない。景麒に言わせれば、立て直し中でなくとも王とは本来王宮より外には出ぬものです、というだろうが、そうであればこそなおさら、少ない外出の機会は心が浮き立った。その心中を見透かしたように景麒が釘を刺す。
「くれぐれもお立場を忘れた行動をなさいませんように」
仏頂面のままそう告げる半身に陽子は苦笑する。
「わかってるよ。ちゃんと王様らしくだろ」
「それと、水禺刀は如何なる時もお離しになられますな。青将軍の言をよくお聞きになり、決して危険のないように」
「それもわかってる。それにしてもなんだかお前、遠足前の母親みたいだな」
陽子が笑って言えば、景麒の仏頂面はさらに深まった。
「遠足前の母親はな、たいてい子どもにあれはもったか、これはもったか尋ねて、やれ車には気をつけろだの先生の言うことはよく聞くようにだと言って見送るんだ」
「心配してのことでありましょう?」
「まあ、そうだな。そして遠足には必ず言われる言葉がある」
それは、と問う視線に陽子はくすりと笑った。
「家に帰り着くまでが遠足ですってね。さしずめ今日の場合は、金波宮に無事帰ってくるまで視察ですってところかな。出迎えの景麒の顔を見るまで気を抜かないから大丈夫だよ」
「無事なお帰りをお待ちしております」
うん、とうなずいて、陽子は浩瀚を見る。
「留守をよろしく頼む」
「かしこまりまして」
浩瀚は深く一礼した。そして主を見上げ、その姿を焼き付けるように見つめた。
「お帰りお待ちしております」
そしてそのまま見送ろうとして、浩瀚はふと言葉を重ねた。
「なすべき事をお間違えになりませんように」
この場でどうしてこんなことを言ったのか。あとになってみても浩瀚自身よくわからなかったが、この言葉が、今後陽子の行動を大きく左右することになる。
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