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 王を迎えた楊州城では華やかな宴が催された。王を間近で拝謁した州官の誰もが頬を紅潮させて興奮し、この思いも掛けぬ僥倖に感極まっている風であった。
 歓迎の宴席にあっては、日頃朝服を愛用している陽子も珍しく襦裙姿で、その艶姿を惜しみなく衆目にさらしていた。
 「こうして州城にお招きできたこと、この上ない喜びにございます」
 文饒は女王の艶やかな姿に目を細め、にこやかに微笑んだ。
 初めて女王とあいまみえたとき、文饒は感激にうちふるえた。想像通り、いや想像以上に女王は凛と美しく、宝玉のような翡翠の瞳に文饒はとにかく吸い寄せられた。周囲の雑音など聞こえず、感激のあまり声が震えないかとそればかりを心配した。
 そうして今、計画通りに女王を金波宮より連れ出せた。その事実が文饒を高ぶらせる。平静を装うのが大変だった。
 「本日ご用意した宴席は、主上に楊州のことを知っていただくための一環にございます。並ぶ料理は楊州の伝統料理。演じられる舞も楊州の伝統芸能にございます」
 文饒が説明すれば、女王はにこやかに笑った。それは楽しみだ、との言葉に文饒は微笑む。
 「それと合わせまして、主上に楊州の民の間で流行っている風習をひとつご紹介したいと思います」 
 文饒はそういって、下官に盆を運ばせる。その盆の上には、そんなに恭しく運ぶものか?といいたくなるほど質素な、ひもを組み合わせてつくられた細い帯がのせられていた。蓬莱で言うところのプロミスリングそのものだ。
 「これは?」
 「紐釧です。『誓いの腕輪』とも呼ばれおり、願掛けの一種として腕に巻きます。波乱の時代、土地を捨て他へ流れねばならない時代にあっては、思いを寄せ合った男女が離別を選択しなければならないことも多くございました。その時に再会を誓い合い同じ紐釧を腕に巻いたのが始まりといわれています。それから家族全員の無事を願う意味をこめたり、将来の安寧を願うためにつけたりと、とにかく何か願を掛けて腕につけるようになりました。自然と切れるまで腕につけておれば願いが叶うというのが一般に言われていることでございます」
 「へぇ」
 陽子は小さく感嘆の声を上げる。
 「蓬莱とまるで同じだな」
 「あちらにもこのようなものが?」
 「ああ、あったよ。すごく流行ってた。向こうではどちらかといえば、女子が気のある男子に贈るのが主流だったみたいだけど。休み時間のたびに友達が楽しそうに編んでたな」
 陽子はそう呟きつつ紐釧を手に取った。
 編み込まれた柄は、友人達がつくっていたものより複雑で緻密であったが、全体の雰囲気は変わらない。懐かしくそれを眺めて、陽子は文饒を見た。
 「それにしても、こちらは願掛けなどしないところだと聞いたが、こういった風習が生まれたりもするんだな」
 それに文饒が首をかしげたのを見て、陽子はかつて楽俊と交した会話を懐かしく思い出しながら説明した。
 「あちらはね、色んなことを神様にお願いするんだ。とはいっても、あちらはこちらみたいに実際に神がいるかどうかなんて実感できることは何一つないんだけどね。逆に、実感できないからこそ、色んなことを勝手にお願いするのかもしれない。豊作になりますようにとか、洪水になりませんようにとか、交通事故に遭いませんようにとか、家族が健康に暮らせますようにとか、試験に合格しますようにとか。果ては、彼氏彼女ができますようになんて願掛けする人もいる」
 言って陽子は苦笑する。考えてみれば、神様だってそんなことをお願いされても困るに違いない。実感はあまりないが、己が神なる身となった今、少なくとも自分はそんなことをお願いされても困る。
 「さようでございますか」
 文饒は柔らかく笑った。
 「やはり、蓬莱とはずいぶん変わった所であるようです。確かにこちらでは、主上が今おっしゃたようなことを願ったりはしないでしょう。それらは自分たちが努力すれば良いだけの話。願ってどうなるものでもない、というのがこちらの人々の考え方です」
 「そうらしいね」
 「でも、自分たちの力ではどうにもならぬ事や目に見えぬものに形を与えて、それをよすがにしたいと思うのは、こちらの人々でも思うことです」
 つまりは再会や家族の無事。そういった約束の証が紐釧なのだ、という文饒の説明に陽子は頷く。
 「そう説明されるとよくわかる」
 「せっかくの機会ですので、主上もおつけになりませんか?せめて楊州にいる間だけでも」
 「そうだな」
 陽子は頷く。
 「では、楊州の現状をしかと見る誓いとして巻こう」
 「では失礼して」
 文饒は差し出された細い腕にうっとりと見とれながら、その腕にゆっくりと丁寧に、そして硬くしっかりと、紐釧を巻き付けた。
 「外す時は拙めにお申し出ください。外す時の決まり事などをご説明いたします」
 「わかった」
 「明日は南鄭にご案内いたします。その準備のため小官は先に下がらせて頂きますが、主上におかれましてはごゆるりとお楽しみください」
 文饒は深々と一礼した。
 それに陽子はねぎらいの言葉を掛ける。女王のその心遣いに感激しつつ、文饒はその場を辞した。
 ―――あと、もう少しだ。
 文饒の策は、誰も気づかぬところでゆっくりと進行していた。


◇     ◇     ◇


 翌朝陽子は商家の娘に身をやつして南鄭に入った。
 護衛するのは禁軍左将軍である桓魋と彼の率いる小臣が二人。いずれも商家の娘を護衛するのにおかしくない仗身の格好をしている。案内するのは文饒と彼の部下の二人だけ。目立たない方がよい、との文饒の進言でこういう形が取られたのである。
 もっとも、少し離れたところに多くの護衛が隠れてはいたが。
 「ここが現場です」
 文饒は軽く街中を案内したあと、問題の閑地へと陽子を導いた。かつて多くの荒民が身を寄せ合っていたその場所は、今は誰の姿もなく閑散としていた。
 南鄭は貧しい街だ。陽子は街に足を踏み入れた瞬間、それを肌で感じた。傷みの激しい隔壁に凸凹と歩きにくい道、今にも崩れてしまいそうな家。街は廃墟と言っても過言ではなく、おそらく長いこと修復などなされずにいるに違いなかった。
 閑地に来るまでにちらりと見た住人達は、着る物も粗末だった。慶の民はおおむね貧しいが、南鄭の街では、街の者さえ浮民のような有様であった。
 「あの火事があって、とりあえず荒民たちは移動させました。身元確認のために、しばらく遺体を並べておかなければなりませんでしたし。結局は、ほとんど身元不詳として埋葬するしかありませんでしたが」
 文饒の説明に、そう、と陽子は小さく応える。焦げた地面が火事の悲惨さを物語っていた。ここに二百人の遺体が横たわっていたのかと思えば胸に痛みが走る。息苦しさを覚えて思わず大きく息を吸い込めば、微かに残る焦げた匂いが鼻についた。
 「種々の証言から、火の元はこの辺りと思われます」
 文饒は閑地の中をゆっくり歩いていって、ある一カ所を指し示した。
 「この穴は彼らが竈として使っていたものです。ここに残っていた火種がおそらく天幕に燃え移ったのでしょう。火を熾すのは大変ですから、彼らは基本的に種火を絶やさないようにしていたようです。そして火事のあった三月は、よく高岫山から強い風が吹き下ろします。当日の夜も強い南風が吹いておりました」
 文饒の説明に陽子は頷く。
 「最初はただのぼやでした。すぐに消し止めることができれば大事には至らなかったでしょう。しかし荒民には、火を消すための水を用意することができなかったのです。そのせいで消火が遅れ、火事が拡大しました」
 「なぜ水が用意できなかったんだ?」
 「彼らが日頃水場としているのは街のそばを流れる川です。川へ行くには当然街を出ねばなりませんが、火事が起きたのはまだ開門前の時間でした」
 まあ最も、開門していても川までわざわざ水を汲みに行っては手遅れでしょうが、という文饒の説明に陽子は首をかしげた。
 「井戸は?街には井戸があるだろう?」
 「街の者達は、荒民が井戸を使うのを固く禁じていたのです」
 「―――なぜ?」
 「簡単に言ってしまえば巧の民を良く思っていないからです。以前から民と荒民との間では些細なことで諍いが絶えませんでした」
 ああ、と陽子は頷く。
 「なんでも、かつて巧へと流れた者達が、その時の扱いのひどさを根に持っているとか」
 「その通りです。しかしそればかりではありません。巧の民は慶という国そのものを見下しているところがございます。よく言えば愛国心の現れなのでしょうが、慶のここ数代の王の短命なるをあげつらって、巧より劣る国であるという意識を持っているのです。そしてそういうものは口に出さずとも、雰囲気として感じられるもの。慶の民にとってはおもしろかろうはずがございません。―――ところで、先ほど街の者達をご覧になったと思いますが、どう思われました?」
 「厳しい生活をしているのだろうと、そう思った」
 「その通りです。彼らは見るからに貧しい。巧から流れてきた荒民の中には、街の者達より良い身なりをしている者もいるくらいです。しかしそういった者達に国から施しがなされる。街の者にとってはおもしろい話ではありません」
 「―――・・・しかし」
 「主上がお決めになったことに否やを申し上げるつもりはありませんが、そういう感情を抱く街の者達が多かったのは事実です」
 「―――」
 「申し訳ありません。気分を害したのであれば幾重にもお詫びを」
 黙り込んだ陽子を見て、文饒があわてて頭を下げた。
 「いい、続けて」
 陽子が促せば、では、と呟いて文饒は説明を再開した。
 「住民らが井戸を使わせるのを禁じたのには、荒民の数がどんどん膨らんでいったこともあります。火事の直前にはおよそ千人もの荒民がおりました。一人に使わせれば千人に使わせねばなりません。空位の時代や王朝の末期に井戸が枯れるという経験をしている街の者達とっては、水は貴重で限りあるものという思いがあります。千人もの人間に大盤振る舞いすることなど考えもつかないことでしょう。荒民に井戸を使わせたら、自分たちの命が脅かされる。そう思っても不思議ございません」
 けれども、と文饒は続ける。
 「勝手に井戸を使おうとする荒民は後を絶ちませんでした。夜になって勝手に井戸を使う水泥棒が横行したのです。それで街の者達は寝ずの番を強いられました。それがまた街の者達の生活を圧迫し、彼らの怒りは膨らんでいきました。捕らえた者に対する住民の仕打ちはひどく、それでますます住民と荒民の溝は深まりました。―――そしてついに死人が出たのです」
 文饒はそっと眉をひそめた。
 「住民らが荒民に対して行った行為は、いわば私刑でした。彼らの思いは理解できなくはありませんが、私刑となると州府としては黙ってはいられません。私刑に荷担した者を厳罰に処すると共に、今度から水泥棒は捕らえしだい州府に引き渡すように言い渡しました。けれども民はこれに対してかなり反発しました。州府はどちらの味方なのかと。まさに一触即発の雰囲気でした。それをうまく収めたのは侯でございます。侯はこの南鄭を有する華県と縁の深いお方。侯が住民らに直接、水泥棒は法に則って厳しく処罰するからと約束したことで住民は何とか怒りを収めたのです。・・・・・・ですが」
 「何か問題が?」
 「住民らは、自分達に代わって州府が死刑に処してくれるものと思って承諾したようなのです。しかしご存じのように我々にはそれはできません」
 なぜなら刑法にそのような規定がないからですという文饒の言葉に、陽子はわずかに表情を険しくする。
 それは陽子が発布した法だった。和州の実情を知って後、死刑を適用する罪状をかなり絞り込んだのだ。甘い、との意見もあったが、罪人の更生を根本理念とする蓬莱で育った陽子にとっては、どちらかといえばまだ厳しすぎるのではないかと思ったくらいだ。
 「窃盗罪に当てはめれば、笞杖(ひゃくたたき)の後放免か、しばし拘束して労役につかせるか。どちらにしろ住民らから受けていた仕打ちに比べれば軽いもの、と荒民には映ったのでしょう。水泥棒は後を絶たないどころか益々横行しました」
 厳罰こそが抑止力になる。悲しいことだが、それもまた事実。それを突きつけられて陽子は唇をかんだ。
 「両者の間の空気は、次第に逼迫したものとなりました」
 そういった緊張感が高まっていた中で起きたぼや騒ぎ。井戸を守っていた者達は、水を求めてやってきた荒民の話を水を盗むための虚言だと断じた。そして嘘までついて水を盗もうという荒民に対して、ついに怒りが頂点に達したのである。
 怒りに駆られた住民の中でより激情した一部が暴挙に出た。それが今回の惨劇を生んだが、しかしそれは、残虐な殺戮行為と言うより、自分達や愛する者達の生活を守るための行為だったといえるだろう。
 「ですから、火事の原因といわれれば間違いなく荒民の火の不始末なのです。それに不幸な事実が重なったのは確かですが、我々は住民が如何に苦労し耐え忍んできたか知っています。そんな彼らが非難され罰せられるのはあまりに哀れ。ですから聞かれたことだけに忠実にお答えしたのです」
 「―――そうか」
 陽子は視線を伏せて黙り込む。
 「しかし、主上が荒民を手にかけた者達を必ず捕らえ厳罰に処すようにとおっしゃるなら、我々はそのようにいたします。ただその場合は、民の強い反発を覚悟せねばならないでしょう。もはや民は州府を信用してはおりません。自分達の生活を守ってくれる存在とは見てはいないのです。大きな反乱が起こるかもしれません。そのとき出る死者は恐らく今回の犠牲者の比ではないでしょう」
 民が決起すれば国府は勅伐を行えと王に迫るはずだ。民が犠牲になる。そうすればこの優しくまっすぐな女王は一人心を痛めることだろう。
 文饒は、憂い顔で目を伏せる女王をそっと見やった。
 おそらく刑法改正は王を貶めるための策なのだ、と文饒は思う。こういった事態を想像しておきながら、いやむしろそうなることを期待して、あれほど甘い刑法を心優しい女王に進言したのだ。
 時間をかけて女王の威光を失墜させ、心を追い詰め、政を放棄するよう仕向けている。国府まさに能吏ぞろいだ。
 そしてその首魁こそ、もと麦州侯、冢宰浩瀚。
 文饒は不快感を胸に女王にぴたりと寄り添う男を見やる。
 半獣の禁軍左将軍。あの男の手先で、あの男の傲慢さの表れのような存在。次はこの男を消す。
 文饒は、次の策に移る頃合いをじっくりと伺っていた。


 
 

  
 
 
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