「・・・・・・残念です」
「文饒?」
「それと同時に怒りを感じます。これほどに主上を洗脳しているとは。さすがは国官といえましょうか。まさに能吏揃いですね」
文饒の口元がいびつにゆがんだ。
「主上の信用を勝ち得るための言動とはどういう物かを熟知している連中ばかりです」
「文饒!」
「ではお聞きします」
文饒の瞳があやしく光った。
「今日の私の一連の説明、どう思われましたか?」
「―――なに?」
「ご不審やご納得がいかなかったところがあれば今一度ご説明申し上げます。何なりとお聞きくださいませ」
挑むような目。それを見つめて、陽子はゆるゆると目を見開いた。
「お前・・・・・・まさか」
「さあ、なんなりと。不審に思われたところをお尋ねくださいませ」
言葉を重ねる文饒を陽子は苛烈な眼差しで見つめた。
試したのか!
いや、それとも今まさに試しているのか。
陽子は文饒の視線を振り切るように顔を背けて瞑目した。
全てが虚偽なのか。あるいは真偽が入り交じっているのか。それとも全ては真実なのか。
判断できる材料など何もない。ただひとついえること。それは、今日の説明に不審など抱かなかったということだ。わからないことはあの場で何もかも聞いた。だが文饒の説明はよどみなく、どこにも齟齬など感じなかった。
ではそう言えばいい。そうは思ってもそれが取り返しのつかないひと言になる気がして、陽子は口を開くことが出来なかった。
そうして同時に、この迷う状態こそが、文饒が最も言わんとしていることであることにも気がついて、陽子は苦痛に耐えるかのように顔をしかめた。
「ご心痛お察し申し上げます」
文饒が静かに告げる。
「真の姿とは、時に人に傷みをもたらすもの。しかし主上のためにも、真実を暴き慶を正しき姿に戻さねばなりません。そのためには、我が手を血に染めることも厭いません」
陽子はゆっくりと視線を文饒に向けた。そして己を見上げる男の瞳に、陽子は狂気の色を見る。
ぞっと背筋に悪寒が走り、陽子は目を見開いた。
「―――何をする気だ」
「主上は、しばしここでごゆっくりおくつろぎになっていてくださいませ。全ての準備が整いましたら、お迎えに参ります」
「言え!何をする気だ!」
陽子は手にしていた水禺刀を抜き放ち、その切っ先を文饒に向けた。しかし、文饒の瞳は揺らぎもしない。しばしにらみ合って、根負けしたのは不覚にも陽子だった。
唇をかんで剣を下げる。
「言う気がないならそれで良い。私は、金波宮へ帰らせてもらう」
きびすを返し、堂室を出ようとする。その背に文饒の声がかかった。
「お待ちくださいませ」
「・・・・・・言う気になったか?」
「主上におかれましては、この手狭な屋敷でお過ごしになられるはなにかとご不便が多いことかと存じますが、わずかなりとも快適に過ごしていただくため、側付きの者達を用意してございます」
まだそれを言うか。陽子は激しい視線で文饒を睨み付けた。だが変わらず文饒は気にする様子もなく、隣室に向かって「入れ」と声をかける。その声に促されて現れたのは二十人ばかりの娘達。彼の言う、陽子の世話をするために用意された女官らだろう。だが彼女らを見て陽子は眉を寄せた。
一様に青ざめている。それに額に巻かれた赤い糸が、どう見ても異様だった。
「主上をお守りするため、この屋敷には呪がほどこしてございます。この者らの額に巻いてある赤い糸もその一環にございまして、屋敷を出ようとすると呪が発動し、額の赤い糸が締まるようになっております。―――頭を断ち切るほどに」
そのさまを想像して、陽子の眉間のしわは深まった。つまりは、陽子が外と連絡を取るのを阻止するためだろう。お守りするためとはよく言ったもの、と陽子は唸る。
「さらに、恐れながら主上にも呪をかけさせていただきました。昨日手首に巻かせていただきました紐釧がそれでございます」
その言葉に陽子は思わず手首を見やった。まさかここから出ようとすれば、やはりこれが締まるとでも言うのだろうか。
手首がもげてとれるほどに―――。
そう思ったのを読み取ったように、文饒が続ける。
「ああ、ただしご心配なく。主上におかけした呪は、主上ご自身を傷つけるものではございません。それは呪を発動させるのみで、実際に作用するのはこの者らの額に巻いてある糸の方でございます」
「・・・・・・な!」
「主上がこの屋敷を出ようと思われるということは、それほどにこの者らが主上に不快な思いをさせたということでしょうから、いわゆる罰にございます」
「馬鹿を言うな!」
「ちなみに、紐釧を無理に外そうとしても呪は発動しますし、私が死した後も呪は有効です。その時は、解除ができなくなるということだけはお伝えしておきましょう」
陽子は水禺刀にのばしかけた手を止めた。
陽子を見つめる女官らの懇願の視線が痛かった。
「では、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
動けない陽子に、文饒は深々と一礼すると、静かに立ち去っていった。
翌朝、慶国全土に激震が走る。
主上遷御。楊州城を仮宮とし一時的に朝を楊州に遷すとの触れが出されたのである。
それだけでも驚きの事態であったというのに、あろうことか楊州城より各州に対して、金波宮は主上に楯突く逆賊の巣窟であると討伐大号令が発せられたのであった。
◇ ◇ ◇
「さ、柴望さま!た、たたたたた大変でございます!」
あわてて書房に飛び込んできた部下に、柴望は思わず筆を止めた。
見やればそこにいるのは、いつもは冷静沈着で物静かな自分の右腕州宰の姿。ここまで掛け走ってきたのか息は荒く、髪も襟元も若干乱れていた。
この男のこんな姿は珍しい。さて、明日は雹でも降るか?などと密かに呟きながら、柴望は静かに筆を置く。
「いかがした、良顕。そのあわてぶり、お前らしくもない」
「柴望さまこそ何を暢気に!一大事ですぞ!」
「その一大事は、報告してくれなければ知りようがない」
「そ、そうでありました!」
良顕の動揺はかなり深いらしい。まあ、落着けと柴望が声を掛ければ、鬼気迫る表情でじりっと間を詰めてくる。そして柴望の書斎机に手をかけると、大きく息を吸って吐き出した。
「主上が遷御なさりました」
「―――は?」
お前、頭大丈夫か?と思わず問いかけた柴望の反応は至極真っ当なものであったろう。こちらの世界において玉座が動くことはない。それは天から与えられたものを勝手に動かすなど言語道断という思いがあるからであり、その天が据えた玉座に座ることこそ王としての正当性を示すものに他ならないからだ。
ゆえに、偽王舒栄も金波宮にこだわった。いくら九州を落とし慶の全土を自分の配下に置いても、金波宮の玉座に座らなければ王としての正当性が生まれなかったからだ。
仮王だろうと玉座に座るように、玉座にある者こそ国主。そして玉座に座って朝を開くことで、その朝がその国の正当な朝であると天に認められるのだ。
とはいえ王の御座所が動くことは珍しいことではない。国内には多くの禁苑があり、歴史をふりかえれば、避暑と称して夏の間ずっと禁苑にて政務をとっていた王がいなかったわけでもない。
だがそれは正確には遷御ではない。なぜなら朝の中心はやはり金波宮にあったのだから。
遷御というのは、朝をそこへ遷すということ。今の主上が少々―――いや、かなりの型破りなのは承知しているが、朝の中心を動かそうとするほど無謀とは思えなかった。
というかその前に、側近らが何としてでも止めるだろう。
柴望がそんなことを考えていると、
「冗談で言っているのではありません!」
ダン!と良顕が両の手のひらを机にたたきつけた。
「今、楊州から青鳥がきて、このような書状を!」
良顕は懐から、くしゃりと握り締められたような紙切れを取り出す。こちらをさっさと出せ、などと思いつつも、柴望はそれを受け取ってさっと目を通す。
瞬間、柴望の表情に険しいものが走った。
「すぐに金波宮に連絡を!浩瀚様と連絡を取れ」
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