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 大きく息を吸い込んで、男は細くゆっくりと息を吐き出す。それを数度繰り返しながら、そっと脇腹の傷にふれた。
 すでに血は止まっている。傷みはあるが動けぬほどではない。それに安堵しつつ、男はもう一度大きく息を吸い込んだ。
 事件から一夜明けた。主上の命を受けたと言って現れた使令のおかげで何とか命拾いした桓魋は、南鄭近郊の林の中でただじっと体力の回復を待っていた。
 使令は、桓魋をここまで運んだ後に主上のもとへと帰った。何とか無事に金波宮へお帰りになられているといいがと思いながら、桓魋は日の昇りはじめた空を見上げた。
 ―――さて、これからどうするか。
 桓魋は考える。
 事の真相はどうあれ、楊州府はどうやら自分を逆賊に仕立て上げたいらしい。ならば、生きていると知れば、まず間違いなく追っ手を放つはずだ。州境を越えるのは難しいだろう。
 「なにより、主上のご無事を確かめないことには、帰っても浩瀚さまに叩き出されるのがおちだな」
 桓魋は呟いて苦笑した。
 それだけの失態をしたのだという自覚は十分すぎるほどにある。だからこそ、のこのこと帰るわけにはいかない。それに、金波宮へ戻った時に主上がまだお帰りではないと知れば、死ぬほど後悔するのは他でもない自分だ。
 「州都へ潜入するか」
 班渠が再び現れたのは、桓魋がそう呟いた直後であった。


◇     ◇     ◇


 文饒の官邸に閉じこめられて数日。陽子は無為な時間を過ごしていた。
 あれ以来、文饒が姿を現すことはない。外からの情報は何一つもたらされず、一体文饒が何をしようとしているのか陽子に知る術はなかった。
 そしてそれ以上に気がかりだったのが、桓魋達の安否である。未だ班渠が戻らない。その理由をついつい悪い方へ捉えがちになる。
 ―――いや、生きているからこそ戻ってこないのかもしれない。
 陽子は一日の大半を過ごす榻(ながいす)の上で膝を抱えながら考える。
 「桓魋を助けよ」と自分は言った。だからもし桓魋が、自分と同じように囚われの身となり、そこを抜け出すのに難儀しているのなら、班渠は桓魋の側を離れられないだろう。あるいは、重傷を負って動けない桓魋をどこかへ運ぶのに手間取っているのかもしれない。
 水禺刀に何か映らぬかと試したこともあるが、すぐにあきらめた。鞘をなくした水禺刀は、どんなに念じても意味のわからぬ景色ばかり見せる。それに、何らかのものが映ったとしても、今のこの刀が見せるものが真実とは限らない。ゆえに、桓魋が無事であればいいと強く願う自分と、無事ではなかったらどうしようという思いを抱えている今の状況では、どちらが映っても信じ切れずに心を乱すだけだろう。
 ―――浩瀚は、この状況をどこまで把握してるかな。
 陽子は膝を抱え直すと、金波宮へ思いを馳せた。
 楊州で変事有り、とつかみさえすれば浩瀚は如才なく采配をふるうだろう。それだけの信頼を陽子は浩瀚に寄せている。
 日を数えれば、陽子はもう視察を終えて金波宮へ帰還する予定だ。帰ってこないとなれば異常に気づくだろう。いや、あの浩瀚のことだ。自分の行動を逐一報告するように随従の誰かに言いつけているに違いない。その誰かの報告か、あるいは報告がないことによってすでに動き出していると考えるのが妥当だろう。
 ただ・・・・・・
 ―――それはあの男の思惑の内だろうか。
 文饒は明らかに浩瀚を敵視している。何を考えているのかは知らないが、敵視する浩瀚をどうにかしようとしているのは明らかだ。
 ―――せめて外の様子がわかるなら。
 陽子がちらりと視線を動かすと、部屋の隅に控える女官らと目があった。一様に青ざめた硬い顔を見て、陽子は小さく息をつく。
 「あ、あの。何かご用でしょうか」
 少女の一人があわてて上げた声に、陽子は小さく首を振って窓の外に視線を移した。
 「・・・・・・何でもない」
 窓から眺める景色はあまりに穏やかだった。抜けるような蒼穹と、ゆったりと流れていく白い雲。それだけを見れば、自分が今こうしてここに囚われの身であるというのが嘘に思えるほど安穏とした時間が流れているように見えた。
 この時、楊州が金波宮に対して挙兵し、すでに進軍を開始しているなど、陽子は思いもしていなかった。


◇     ◇     ◇


 楊州師挙兵。その報を受けて浩瀚は、すぐさま瑛州師を派兵した。禁軍でなかったのは、もちろん主上がおらぬ以上、一兵たりとも勝手に動かすわけにはいかなかったからだ。
 だが、浩瀚がなにより気にしていたのは、楊州の動きより他州の動きであった。他州がこの戦に加わってくれば間違いなく戦禍は拡大する。五年の歳月をかけてようやく偽王の乱の痛手から立ち直ろうとしている慶にあって、再び大地が焦土と化すような事態は何としても避けたかった。
 ゆえに浩瀚は、和州と麦州に密書を送り、金波宮と楊州との戦には静観の立場を貫くようにとの指示を出し、同時に、一番気になる征州と建州の動きを見張るように命じた。楊州側に兵力を向けている時に後ろからつつかれるのを恐れたためでもある。
 特に建州侯は、王という存在に対しての忠誠心が強い。大号令に正当性有りと何らかの理由で判じたなら、迷わず金波宮に攻めてくる恐ろしさがあった。
 武州のことは端厳に任せた。今の武州侯はかつての端厳の右腕だ。端厳の指示を受け、まず間違いなく武州も動かない。後は紀州と宣州だが、紀州侯は何の確証もない内に動き出す人物でないことを承知していた。
 金波宮の言うことが正しいのか、楊州が言うことが正しいのか。独自の情報網を使って調べ上げるだろう。ゆえにさほど心配はしていない。まず間違っても、己の利益のために水面下での取引に応じるような男ではないというだけの信頼はしている。ただ宣州は、言葉巧みに取引を持ちかけられたら乗ってしまうだろう危うさがあった。
 「横からつつかれるのを警戒しておく必要があるな」
 浩瀚は慶国の地図を広げて考える。
 攻めてくる楊州師をどこで待ち受けるが有利か。浩瀚は何度も何度も思考を重ねた。
 「瑛州南部―――新容」
 浩瀚は想定される敵軍の進路を指でなぞりながら、ある一点で止めた。
 今回浩瀚が派遣した瑛州師は左右二軍、二万五千。対する楊州師は現在、左右二軍、黄備一万五千しか有していない。仮に五千を市民から徴兵してきたとしても、数の上ではこちらが有利。その上で、地の利まで得れば勝利するに難しい相手ではないだろう。
 だが、そんなことは相手もわかっているはずだ。
 「文饒―――。お前がこの戦に勝利するために用意したものは何だ」
 それとも、大号令がすでにそのつもりだったのか。
 浩瀚は、金波宮を訪れた時の文饒の一挙手一投足を思い出しながら、じっと地図を見つめ続けた。


 そして大号令よりわずか五日後。両軍は浩瀚の作戦通り新容郊外にて対峙する。だが、楊州師討伐軍の総大将として王師二軍を率いていた迅雷は、そこで信じられないものを見る。文饒の切り札は、国府側の誰にとってもあまりに意外なものだったのである。
 「しょ、将軍あれは!」
 副官の指さすものを見やって、迅雷は瞠目した。
 高台に陣取った迅雷からは、開けた平地に布陣する楊州師が一望できた。整然と並ぶ人馬は予想通り一万と少し。空行師を先発させ、陣が乱れたところに総攻撃をかければ容易く勝利できる相手であるはずだった。
 だが―――
 「我々の敵は、楊州師ではなかったのですか!」
 副官の金切り声が響く。それは迅雷こそが問いたかった。そして、二人と同じ驚きと動揺が、一気に王師に広がった。
 「なにゆえ、彼らがあの軍旗を掲げているのです!」
 目の前に翻る旗は間違いようもなく龍旗。しかもその色は―――
 「紫。・・・・・・禁軍」
 迅雷は、呆然と呟いた。

 
 

  
 
 
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