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 のんびりとした田舎道を一台の馬車が行く。
 旅人の足となる乗り合いの馬車だ。
 かつて馬車とは、近郊の廬の者が農閑期に荷馬車の荷台に人を乗せて小金を稼ぐ程度のものであったが、赤王朝が始まってややすると、馬車は旅人の移動手段として整備された。
 街道には駅がおかれ、馬車は季節に関係なく街と街とを定期的に結ぶようになった。国営事業ゆえ乗車料は安く、御者によって高い料金を取られるといったような心配もない。また途中の駅には代えの馬が用意されているので、長距離移動でも馬を休ませるための余計な時間を取られるということもなくなった。
 いま慶で、馬車はなくてはならない庶民の足だ。
 だが、乗り心地の良さはまだまだ改良の余地ありで、古びた馬車は先ほどからギシギシと軋みを上げている。衝撃の緩和剤として荷台には藁と布が敷き詰められていたが、それでも体に感じる揺れは小さくはなかった。
 それを嫌がって、金のある者は馳車を雇う。馳車とは、二頭立てから四頭立てで堅牢な客車を曳き、街道沿いの街から街へ早駆けして乗客を運ぶ。乗り心地は良好で、乗合ではないので目的地まで運んでくれる便の良さも、金持ちに支持される理由のひとつだ。
 だが、慶で馳車を見ることは稀だ。それほど余裕ある者などまだ慶には多くないのだ。今だって、街道沿いを歩く者の姿だってちらほらある。彼らは、安い馬車に乗る金さえ惜しむ人々なのだ。
 陽子は馬車に揺られながら、何となしに過ぎゆく景色を見つめていた。
 道に落ちる影が濃い。
 季節は大暑を迎えようとしていた。真上から降り注いでくる光は大地を焦がさんばかりに強い。荷台には日よけのための幌が掛けられ、横は風通しのために開けてある。そこを通りぬける風は熱気を帯びていたが、それでもわずかばかりの涼を運んで、緋色の髪をさわさわと揺らしていた。
 馬車には今、陽子ひとりだった。
 一人でも乗車賃が変わらず、定時に馬車を出してくれるのも国営馬車の良いところだ。せっかくの貸し切りだからと、陽子は荷台に引かれた藁の上に大きく寝そべった。寝そべれば、幌の裂け目から青い空がのぞいていた。雲ひとつない澄んだ青空だ。その空を滑空する影がひとつ。鳥だろうか。あるいは騎獣かもしれない。確かめる間もなく、影は裂け目から見えるわずかな景色から消えた。
 もしあれが騎獣なら、ひょっとすると自分を捜している兵卒の一人かもしれないな、と陽子は思った。
 書き置きもなしに出てきてしまった。衝動的だったのは少々反省しているが、後悔はなかった。宣州州都東遼行きのこの馬車が視界に飛び込んできた時、自分はやはりどうしても宣州に行くべきなのだと強く感じたからだ。
 自分の姿がないことに気付いた浩瀚辺りが、采配をふるって自分の後を追っているだろう。あの男ならさほど時間をかけることなく自分を見つけ出すのだろう、と陽子は漠然と思う。そもそも撒こうなどと思っていないのだ。足跡はあちこちにあるはずだ。
 それに、いざとなれば景麒が王気を辿ってやってくる。
 だから、自分はただひたすらに目的地を目指せばいいのだと、陽子は自分に言い聞かせた。
 気になるのなら自分の目で確かめるべきだ、という信念に基づいて。


 陽子が宣州行きを強く希望したのは、宣州伯牧からもたらされた一通の書簡が原因であった。その書簡には、にわかには信じられないことが綴られていた。
 いわく『近頃宣州侯は表に姿を現すこと少なく、判断に誤りが多い。面会しても覇気なく何やらぼんやりしており、職務に意欲を失っている様子がうかがえる』と。
 あまりのことに陽子は言葉を失った。
 現宣侯は、陽子が直接任命した州侯だ。そのひととなりを買い、一州任せるに十分な資質と人格を備えていると遠甫も浩瀚も太鼓判を押した。最後に会ったのは今年の新年。宣侯はあまり自己主張するタイプではなく静かな情熱を内に秘めるタイプなのだが、新年の謁見でまみえた宣侯は確かにその内なる熱を垣間見させていたのだ。
 その宣侯に対して、伯牧が州侯不適格だという。とても信じられないが、その伯牧も陽子が信頼して派遣した官だ。ありもしないことを書いてくるはずがない。
 内偵を、との浩瀚の進言に頷いて調査させたが結果は同じ。どうやら宣州侯がめったに表に姿を現さなくなったのは事実らしかったが、ではその原因は、というとどれもこれも推測の域を出ないものばかり。浩瀚は「結果がすべて、と割り切ることも必要」といったが、陽子はどこか呑み込めなかった。釈然とせぬものを抱えて日々を過ごし、罷免は避けられないのかと心迷わせ、気晴らしにと降りた堯天でこの馬車を見かけた時、陽子は気づけば飛び乗っていたのである。
 ―――百聞は一見にしかずというじゃないか。
 頭の下で腕を組み、陽子は自分を納得させるように心の中で呟いた。
 宣州府にもぐりこんで、自分のこの目で確かめてやる。
 馬車に揺られながら、陽子はそんな大胆なことを計画していた。


◇     ◇     ◇


 日が暮れる頃、馬車は瑛州と宣州の州境近くの街、徳陽に着いた。停車場は子門のそばにあり、陽子はそこで降りて街に入るべく門へと向かった。
 堯天東遼間はもともと馬車で五日の距離だ。これが直通で結ぶ馬車が整備されて三日半に短縮されたのだから、交通の便は格段によくなったといっていい。登極してすぐの頃、治世に迷って市井に降りたことがあるが、あの時の移動の不便さを考えればずいぶんな発展である。
 だが、まだまだ課題も多い。特に何の産業もない宣州は、州候の手腕が民の生活に直結する。その点でも、陽子は現宣候に期待していたのだが……。
 ふと見上げると、子門は強い西日に照らされて暗く沈んでいた。闇に飲まれるように門の影に足を踏み入れれば、一瞬視界がすべて闇に沈む。だが眼はすぐにその暗さに慣れ、慣れれば門脇に衛士が立っているのが見えた。衛士は街に入ってくる人間を監視するように見つめていて、何かあったのだろうかと勘繰りたくなるような剣呑な雰囲気をわずかにはらんでいた。
 街に入るさほど長くはない列に陽子も並ぶ。
 人の流れに合わせて衛士の横を通り過ぎようとした。その時、
 「旌券を検めさせてください」
 唐突な衛士の声に驚いて、陽子は傍らに立った衛士を見上げた。
 「え、なんだって?」
 「旅券です」
 衛士は繰り返す。生真面目そうな中年の男。口調は丁寧だったが、有無を言わさぬものがあった。
 「なぜ?」
 ついそう問い返したのは、街に入るときに普通旅券の検めなどないからだ。
 旅券の検めをするのは基本国境を超える時。それと非常時にある時の州境ぐらいなものだ。重大な犯罪が起きた時は蓬莱同様検門がしかれたりするが、人員の配置からして非常体制がとられているというわけではなさそうだった。
 ならば声をかけてきた理由は一つ。この衛士が個人的に陽子に不審を抱いたということだ。
 「旅券検めをされる謂れがわからない」
 「お持ちでないのならこちらへ。身元の照会をいたします」
 「だから、なんで!」
 わずかな反抗を試みたが、屈強そうな男三人に囲まれた。慇懃に門楼にある衛士の詰所へと促される。言われなき疑いに強行突破でもしようかと陽子は腹を立てたが、衆目を集めていることに気づいてやめた。下手に騒ぎなど起こしたくはない。
 そもそも旌券ならあるのだ。
 お忍び用に用意している偽の旅券が。
 陽子は懐に手を入れると、それを取り出した。
 「ほら、旌券ならここだ」
 「検めさせていただきます」
 衛士は陽子から旅券を受け取ると、まじまじと札を見やった。裏も表も十分に確かめて、そして頷く。
 「旅券はお返しいたします。少々お話があるので、詰所までお越しください」
 「―――何なんだ」
 疑いは晴れたんじゃないのか。陽子は不機嫌に眉をひそめながらも、一応丁寧な対応を見せる衛士に従った。
 詰所に足を踏み入れると、そこはさほど広くない部屋だった。今のように、何か用のある人や疑いのある人物を連れてきて、話を聞いたり、尋問したりするための部屋なのだろうか。殺風景で、小卓がひとつと、粗野な椅子が置かれているだけの部屋であった。
 その部屋に先客がひとり。殺風景な部屋に似合わぬほど小ざっぱりした袍を纏っており、格子の入った窓から外を眺めて立っていた。
 男は、陽子たちの気配を感じて振り返る。
 「お捜しの方をお連れしました」
 傍らで衛士が男に敬礼する。
 何だ、そんなに偉い奴なのか、と思った刹那、男の顔を確認した陽子は、驚きの声をあげていた。


 「なぜお前がここにいる!」
 陽子の驚きの声は、狭い室内に鋭く響いた。そんな陽子に浩瀚はにこりと笑い、手を振って衛士を下がらせる。察しの良い衛士は、何も言わず一礼するとご丁寧に戸を閉めて去っていった。
 部屋には陽子と浩瀚、二人だけが残された。
 「どうぞ、まずはお座りください」
 にこやかに笑って浩瀚が椅子をすすめる。常と変らぬその態度に陽子は警戒するように思わず顔をしかめたが、とにかく座らねば先に進めようとしないがんとした態度に、陽子はふてくされるようにそっぽを向いてどさりと椅子に腰かけた。
 いずれ見つかるとは思っていたが、まさかこんなに早く、しかも先回りされているとは思いもしなかった。どうせ自分の行動は筒抜けで、何をやっても浩瀚の掌の上だろうさ、などと思えばなんとなく気持ちが腐ってくる。
 「ずいぶん早かったな」
 不機嫌に言えば、浩瀚がくすりと笑う気配がした。
 「これでも、充分時間を差し上げたつもりなのですが」
 その言葉になんだかいらっとした。それで陽子がむっつり押し黙れば、浩瀚は小さく息をつく。
 「ご気分を害したのであれば幾重にもお詫びを」
 「……」
 言って浩瀚は丁寧に拱手する。それでも沈黙を守っていれば、浩瀚がやれやれといった感じで軽く頭を振った。
 「私の心中もお察しください。主上がおひとりでご視察に向かわれたようだと聞き及びました時には、私の脳裏にありとあらゆる危険な状況がよぎってどれほどご心配申し上げたことか。主上の剣術の腕が大層達者だとは存じ上げておりますが、悪意を持って近づいて来る者にはその腕を披露する間もなく謀略にはまるということもありえるのです。それでなくとも主上は妙齢なお姿をされていらっしゃる。不埒な輩がよこしまな感情を持って近づいてくることだって十分あり得るのです。こう申し上げるのもなんですが、私から言わせてもらえば主上は男女の機微などといったものには大層疎くいらっしゃり、下心を持って近づいてくる男に対して警戒心がなさすぎます。さらにその上慎みが欠けることも多ございます。あー、これに関しては主観ではなく客観の問題なので、主上の反論をお聞きするわけにはまいりません」
 開きかけた陽子の口を閉ざすように浩瀚は片手をあげた。
 「それにほら、今もこうして簡単に男と二人きりになっていらっしゃる」
 「ちょっと待て!」
 浩瀚の言葉に、陽子は抗議するように立ちあがった。
 「それはお前が衛士をさがらせたからじゃないか!っていうか、お前が私をここへ連れて来たんだろう」
 「下心ある者はどんな手でも使うのですよ」
 「へぇ、じゃあなんだ。お前は下心を持って私をここへ連れ込んだわけだ」
 強気に陽子がそう返すと、浩瀚は薄く笑ってすっと陽子に歩み寄った。常ならぬその様子に陽子はどきりとして身を引いたが、狭い室内、退路はすぐ壁に阻まれた。
 「もしそうだと言ったら、貴女様はどうなさいますか?」
 浩瀚はそう言いつつ、そっと陽子の頬に手を伸ばす。その手はそのままうなじをなでて背へと降り、ぐいっと陽子を引き寄せた。
 間近に迫った浩瀚の顔。ほんの少し傾けるだけで唇と唇が重なりそうなその距離に、陽子の頬がいやでも上気する。
 「―――主上」
 頬に寄せられた浩瀚の横顔。甘い吐息が耳朶を刺激する。
 ぞわり、と全身が泡立った。
 それが陽子の限界であった。
 「あーーーー、もう!わかった。わかったから離れろ!」
 陽子は叫ぶと力いっぱい浩瀚を押しやった。そして、一歩半離れた浩瀚を睨みつける。
 「わかった。お前が心配してくれたのはよーーーくわかった。それと、お前がどんなにむっつり助平かもよくわかった」
 動揺したように陽子は叫ぶ。まさか、あの怜悧でいつも飄々として、一体何考えてんだこいつというくらい表情を読ませない浩瀚が、こんな色っぽいことをしかけてくるとは。
 そんな当の本人は、陽子の罵倒交じりの言葉に苦笑する。
 「―――むっつり助平ですか」
 何事か思案するように呟いて、浩瀚は苦笑を深めた。
 「まあ、男とはそんなものでしょう」
 「!」
 「そのくらい警戒心を持った方がいいということです。なにしろ貴女様ときたら、本当に見ているこちらがハラハラするくらい無防備でいらっしゃる」
 「……」
 「やりすぎたことに関しては幾重にも陳謝を。ただ、すべては貴女様をお慕い申し上げる忠臣の憂慮ゆえのこととご理解いただけるとありがたく存じます」
 「―――忠告有り難く受け取ろう」
 あっという間にいつもの怜悧な冢宰の顔に戻った浩瀚を見やりながら、陽子はどこか不機嫌にそういうと「ただし……」と言葉を続けた。
 先を促すように鳶色の瞳が陽子を見つめる。その視線をまっすぐに受けて、陽子はぴしゃりと言い放った。
 「なんと言われても帰らないからな!」
 力強く言えば、浩瀚がくすりと笑った。
 その余裕の態度に陽子がぴくりと眉間に筋を立てれば、浩瀚はゆったりと礼をとり、悪戯っぽい笑みをその口元に浮かべた。
 「私は一言も、お帰りくださいと申し上げた覚えはございませんが?」
 「え?」
 きょとんと見返せば浩瀚の笑みは一層深まる。
 「宣州へ行かれるおつもりなのでしょう?」
 「そうだ、けど?」
 じゃあ、何でこいつはここにいるんだ。つれて帰るつもりじゃないなら、こんな所で先回りしておく必要なんかないじゃないか。
 そんな不審を抱く陽子に、浩瀚は予想外の言葉を発したのである。
 「拙めも同行いたします」

 
 

  
 
 
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