| TOP | 小説 | イラスト | 雑記 | リンク | 拍手

 
   
  - 2 -
 
     
   浩瀚と陽子を乗せた馬車は、二日半かけて東遼についた。
 東遼の街はおだやかな活気に満ちていて、とても好感のもてる雰囲気にあふれていた。街は華美でなくとも奇麗に整えられており、通りを行く人々の表情は明るい。串風路(ろじ)を覗き込んでもそこにゴミがあふれていることもなく、州候の統治がいかにしっかりしたものであるかが伺えた。
 宣州は特に目立った産業のない場所だ。米も取れるし茶も栽培しているが、ブランド化された他地域のものに比べればどうしたって二流品三流品との印象が強く特産化することが難しい。天然資源と呼べるものもなく、交通の要衝というわけでもないので人の出入りもまばら、物流で栄えるということもない。ならば細工物や工芸品を売りにしてはどうかと技術を身に着けさせようとしたこともあるが、彼らの気質に合わなかったのかこの計画はたちまちのうちに頓挫したという経緯もある。
 宣州の開発をどうするか。陽子が頭を悩ませる中赴任した現宣候。彼の統治する今の宣州の姿を見れば、かの男は、陽子の考えとは全く別な方法で州のひとつのあり方を示そうとしているように陽子には思えた。
 奇抜な考えでもって州を無理やりに活性化させずとも、民が幸せに生きる方法はあるのだと。
 ―――そんな気がするのは贔屓目だろうか。
 そして、そんな男が急にやる気を失うなどあり得ない、ということも。
 「ところで丹英さま」
 つれづれとそんなことを考えながら陽子がぷらぷらと通りを歩いていれば、半歩後ろを歩いていた浩瀚が呼びかける。その声に陽子はちらりと視線を向けた。
 丹英、とは陽子が忍びで使う偽名である。確か、そもそも浩瀚が偽名を使うことを提案し、この名を用意したのも浩瀚だった。
 丹英の意は、赤い花。陽子がそうと知ったのは随分と後のことだ。
 「何だ?」
 「これからどうなさいます」
 「そうだな」
 言われて陽子は考える。
 宣州府に忍び込んで宣侯の様子をこの目で確かめてやる。そんな大胆なことを考えて勢いで宣州までやって来たが、そんな簡単に州府に忍び込めるわけがないことは陽子とて重々承知している。
 だが―――
 ここまで来て何もせずに帰るというわけにもいかない。すでに遠目に見えている州府への入り口。ひとまずは様子を見ていこう。
 門前でもみ合う二人の男女が目に飛び込んできたのは、その時だった。




 娘が何かを叫んで、男がその華奢な体を突き飛ばす。
 すがる娘を振り払い、男は門の向こうへと姿を消す。
 詳細はわからない。だが、陽子は考える間もなく駆け出していた。
 突き飛ばされた娘に何者かが近づいて二言三言交わして去っていく。陽子が娘の元に駆け寄ったのは、その男が立ち去った後であった。
 「大丈夫か?」
 陽子が娘に声をかければ、娘は小さく肩を震わせたあとゆっくりと視線を上げた。
 年の頃は二十の半ばくらいだろうか。育ちのよさそうな娘だったが、その面立ちは随分とやつれていた。
 立ち上がるために手を貸せば、娘は呟くように礼を述べる。その声が僅かに震えていたのは、やはり何かあった証だろう。
 「あなたを突き飛ばした男は、宣州府の役人なのか?」
 問えば娘の肩が再び震えた。答えはない。だがそれが答えも同然だった。
 「何か、あったのか?」
 なるべく柔らかく問いかけてみたが、娘は横に小さく首を振っただけだった。
 もしこの娘が宣州府の役人に何かとんでもない仕打ちをされたとでも言うなら、伯牧からもたらされた報告も事実と認めざるを得ないかもしれない。州侯の荒れは、行政の端々に現れるものだ。陽子はそんなことをちらりと思ったのだが、娘は初対面の相手に仔細を話す気はないようだった。
 「……そう、それならいいんだ」
 陽子も深追いせずにつぶやいて、娘の服に着いた砂を払うのを手伝う。
 だが、再び礼を述べて辞去しようとした娘の腕を、陽子は引き止めるように捕まえていた。
 何事か、と一瞬おびえるような顔をした娘に、陽子はにっこりと微笑む。
 「すまないが、ここらあたりで食事のできる場所を教えてくれないか。堯天から来たんだが、今東遼に着いたばかりでね。できれば、うまい飯にありつけるとありがたいんだ」
 陽子の申し出に、娘はわずかばかり躊躇した後、小さく頷いた。


◇     ◇     ◇


 「私は丹英という。こちらは浩瀚だ」
 席に着き、店員におすすめを聞きながら手早く注文を終えた赤い髪の少年は、そう言ってにこりと笑った。紹介を受けて彼の横に座す男が軽く会釈したので、季容はそれに返すように小さく頭を下げる。
 彼の、丹英と今名乗ったばかりの少年の、飯屋を紹介してくれという申し出を受けて季容が連れてきた場所は、東遼では中の上といった格式の飯屋であった。東遼に住む人たちの中で、それなりに豊かな生活をしている人たちがよく利用している店だ。
 どの程度の店に連れて行けばいいのかと悩んだ季容がここにした理由はふたつ。一見そうとは分からないが、二人の着ているものがかなり高価なものであり、それなりにお金を持っている人たちなのだろうと推測できたことがひとつ。そして、そんな人たちを連れて行ってもよさそうな、季容の知る上等な部類の店がここだけだったというのがふたつ目の理由だ。
 季容にとっては、こんな店で食事ができるなどめったにないことではあったが、それでも家に何らかのお祝い事などがあった時に何度か利用したことがあった。その時食べた料理のおいしさは、彼の「うまい飯にありつけるとありがたい」という欲求も十分満たすものだと思えた。
 だが、
 ―――まさか一緒に食事をすることになるなんて……
 店まで案内し、今度こそ辞去しようと思った季容を、少年は再び引き留めたのだ。
 案内してくれたお礼に御馳走するよ、と。
 ここ数日まともな食事にありつけていなかった季容にとって、彼のその誘いはとても魅力的なものだった。だが、見知らぬ者に御馳走になる理由は全くない。それに、先ほどの通りすがりの男の言葉が季容に警鐘を鳴らす。この二人が単なるお人よしだとは限らないのだ。
 そんなことを考えて「とんでもない!」と断ったのだが、恥ずかしいことにその時空腹の胃袋がぐうっと派手に鳴ってしまったのだ。恥ずかしくてうつむいてしまった季容に少年は屈託なく笑うと、
 「了解の返事だね」
 と有無を言わさず季容を店内へと引っ張り込んだのである。
 三人が通されたのは、中庭に面した個室だった。一般客を通すような部屋ではない。店側もこの二人に対しておおよそ季容と同じような印象を抱いたようだ。
 特に、少年の連れ、という三十前後の怜悧な男。この男のかもし出す雰囲気は、先ほど季容を追い出した州府の役人が小物に思えるような風格をはらんでいる。身元を隠して旅している大尽といったところだろうか。だがわからないのは、この二人の間で主人格になるのは、どうやら少年のほうらしいということだ。
 道を行く時も男は少年の半歩後ろに従い、席も上座を勧めて少年が着座するのを待っていた。
 「それで、あなたの名前は?」
 「季容です」
 「いい名だ」
 にこりと笑って少年が言う。さりげない世辞に、季容はどう反応してよいものかと戸惑う。周囲にこんなことを言う人はいない。堯天から来たと言っていたが、都人はやはり田舎者とは違うのだ。
 「……いえ、そんなことは。ありふれた名前です。そんなことより、その、本当に同席してもお邪魔じゃなかったのでしょうか」
 「いいんだよ。気にしないで。食事は大勢でとる方が楽しいからね。それより季容は東遼の人なのかな?」
 「はい」
 「生まれも育ちも?」
 「ええ、そうです」
 季容が頷けば、少年がにこりと笑う。
 「では、給田でよそへ行くことはなったんだね。それとも、こちらの人と結婚したとか?」
 「いいえ。田圃は、もらってすぐに売ったんです。確か、和州の拓峰とかいう所だったかと」
 言えば少年は、ああと得心顔で頷いた。
 「拓峰か。そこもいい街だよ。昔はひどい郷長がいて民が虐げられていたけどね。今の和州侯が治めるようになってからは、随分と発展した」
 「そうなんですか。……随分と詳しいんですね」
 「そうでもない。ところで、田圃をもらってすぐに売ったということは、季容は何か商売でもしているのか」
 「はい。家が養蜂をやっていまして。子供のころから両親の手伝いをしていたので、二十歳になっても家の手伝いを続けていくのが私にとってはごく自然なことだったんです」
 「なるほど。季容の家は蜂蜜を作っているのか。こちらで蜂蜜は随分高価なものらしいね。蜂を飼うのはとても難しいとか」
 少年のいいように季容は小さく首をかしげた。
 漠然とした違和感。だがその理由をはっきりとはつかみきれずに、季容はとりあえず頷いた。
 「はい。蜂を飼うのはとても難しいです。蜜を狙ってやってくる害虫に巣箱を荒らされてしまうこともありますが、一番の問題は、ちょっとした環境の変化などで蜂が出て行ってしまうことがあることです。でも、父は独自に研究を重ねてうまく蜂を飼うコツを掴んでいまして、慶国でも一番の養蜂家だと自負しておりました」
 「そりゃすごい」
 少年の目が輝く。
 「ぜひともお父上にお会いしてみたい。慶国一の養蜂家に会えるなら、それだけで宣州まで来た甲斐があるというものだ」
 裏があるとは思えない。素直な賛辞だった。
 自分の努力をとても誇りにしていた父。少年のこの言葉を聞いたら父はどれほど喜ぶだろうか。それに父は、人と出会い、人とふれあうことが好きだった。自分とて、できることなら二人を引き合わせてあげたい。
 だが―――
 「―――それは」
 承知したくとも無理なこと。そう、父はもうこの世にいないのだから。無実の罪をなすりつけられて死んでしまった。
 その無念を晴らしたくとも、耳を貸してくれる者は誰もいない。
 ―――ああ、なんて酷い。
 季容の訴えを冷淡に切り捨てた役人の言葉がよみがえる。思い出しただけで血の気が引いていくようだった。 
 そんな季容の様子を少年がじっと見つめていることに、季容は気がついていなかった。

 
 

  
 
 
inserted by FC2 system