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   夕暮れの大経路を一台の華軒が行く。華軒は帰路を急ぐ人々の鼻先をゆったりと進み、やがて花街へと入ると、とある店の前で止まった。
 鮮やかな緑の柱を照らし出す赤い灯火が客人を出迎えるなか、華軒からひとりの男が降りてくる。
 中年の男だった。絹の袍を纏い、なかなかに風格のある顔立ちをしていた。
 男は周囲を気にする様子もなく慣れた様子で店へと入る。すると、年嵩の女が愛想を振りまきながら男を出迎えた。
 「これはこれはお大尽様。ようこそいらっしゃいました」
 「予約が入っているはずだが」
 言葉少なに男が問えば、女将は笑みを深めて頷いた。
 「ええ、ええ。いつもの座敷をご用意しております」
 女将は言って男を奥座敷へと先導する。なかなかに立派な中庭を望む回廊を行けば、やがて店内に満ちていた喧騒は遠のき、静かな佇まいの奥棟へと辿り着いた。
 部屋へと入れば、すでに中にいた若者が即座に腰を浮かせて男を迎えた。
 「来ていたか」
 男が一瞥を投げ掛ければ、若者はわずかに笑みを浮かべて会釈した。
 「お待ちしておりました」
 「早かったな」
 「温恭さまの呼び出しとあっては、何よりも優先させて駆けつけるのは当然のことでございます」
 若者はごまをするように愛想笑いを浮かべたが、温恭と呼ばれた男はぴくりとも表情を変えずに席へと着いた。
 「お酒はすぐにお持ちしてよろしいですか?」
 女将がゆったりと問う。男はそれに頷いた。
 「酒と、それに肴だ」
 「酌のお相手は必要ですか?」
 「呼ぶまでよい」
 それに頷いて女将は下がる。それを見届けて男は若者に視線を向けた。
 「例の件は収まりがついたのか?」
 「例の件?まさか、あの蜂蜜の件ですか?」
 若者は意外そうに言って肩をすくめ、いまさら何を言わんや、とばかりに口元に笑みを浮かべた。
 「あの件ならとっくに片がついています。以前もそうご報告したではありませんか」
 「しかし、あの男の娘が何やら騒いでいると耳にしたが?」
 「温恭さま。取り調べに対して私は何の手も加えてはいないのですよ。あれは、秋官が捜査をしたうえですでに裁きを下しているのです。今更娘一人騒いだところで、秋官の連中が聞く耳をもつとは思えません。彼らの矜持にもかかわることです」
 「うまく処理できているのならよいのだ。だが、綻びはどこから生じるかわからん」
 「気になるのでしたら、娘を処理しますが」
 「必要ならばな」
 そう呟いた直後、店の者が戻ってきた気配に二人は会話をやめた。酒をもってきたのは女将ではなく、若い女だった。女は手際よく卓の上に酒と肴とを並べると、
 「御用があればいつでもお呼びください」
 と言い置いて去っていった。立ち去る気配を確認して、若者が温恭に酌をする。それに口をつけて、温恭は再び口を開いた。
 「それで、次の候補は見つかったのか」
 「それなんですけどね」
 どこか飄々としていた若者は、初めて少々渋い顔をした。手酌で杯に酒をそそぎ、こぼれて指についた酒をぺろりと嘗めた。
 「蜂蜜ほど都合がよいものがなかなかないんですよ。宣侯が酒呑みならまた話は違うんですが、聞くところによると宣侯は儀礼や祝い酒以外は一切口にしないとか。他の食材となると別に宣侯専門で納品するわけじゃあありませんからね、誰が口にするかわからない。宣州府のあちこちから宣侯と同じ症状の者が出たらさすがに誰かが疑い始めるでしょう?」
 若者はそこまで言って、再度温恭に酌をする。温恭はわずかに渋い顔をしたまま、今度はすぐに杯に口をつけることはなかった。
 「また蜂蜜に例の薬を混ぜてみてもいいんですけどね、さすがにしばらくは膳夫も神経をとがらせているでしょう」
 「―――たしかにな」
 若者の言葉に温恭は頷く。視線は、見るとはなしに盃に注がれていた。
 「それにしても膳夫を務める可韓という男は、随分と味覚の鋭い男のようだ。あの薬は、蜂蜜に混ぜるとほとんどわからないと聞いていたが」
 「温恭さまから薬の量を増やせとお達しがあってすぐです。やはり量が多すぎたのかもしれません」
 「少し事を急き過ぎたのかもしれんな。……しかし、早く次の手を打たねば今までやってきたことが水の泡になりかねん。薬が切れてしまう前に、あの男を薬漬けにしてしまわねばならんのだ」
 「そのお気持ちはわかりますが、もう少し時期を見たがよくありませんか。膳夫らが蜂蜜の味がおかしいと騒ぎ始めたのをいち早く察知して私が水を混ぜたので、秋官府では加水が原因だろうということで落ち着いたのです」
 私の機転を褒めてほしいものです。そういわんばかりに若者は胸を張る。
 「それに、何やら伯牧が色々かぎまわっているようですし」
 「伯牧が?」
 温恭がわずかに眉を寄せると、「ええ」と若者は頷いた。
 「私の所にも来ました。帳簿を見せるようにと」
 「何か言っていたか?」
 「取引先のことをいろいろ質問していきましたよ。適当に答えておきましたけどね。そもそも取引はすべて曹家に丸投げしているんです。私に聞かれたってわかりっこない」
 若者は言って短く笑った。
 「しかし帳簿は完璧ですよ。どんなに調べたって齟齬はありません。伯牧も不本意そうな顔で帰って行きました」
 「そうか」
 男は呟いて懐から袋を取り出し、ずしりと重いそれを卓に載せる。若者はそれに注意を向けてから、わずかばかり期待のこもった視線で温恭を見やった。
 「今夜はここでゆっくりしていくとよい」
 「温恭さまは、お帰りになるので?」
 立ち上がった温恭に合わせて若者は腰を浮かせた。
 「温恭さまも、たまにはここで息抜きをされていかれるとよいのに」
 ここは美人揃いなんですよ、と卑下た笑みを見せた若者に、温恭はわずかに不快そうな顔をした。
 「明日には郷城へ戻らねばならん。その前に済ませてしまわなければならない用事があるのでな」
 「お忙しいことで」
 「そなたはしばらくじっとしていてよい。ただ、伯牧の動きに注意しておいてくれ」
 「承知いたしました」
 恭しく会釈した若者に一瞥をくれて、温恭は店を立ち去った。
 華軒に乗って、温恭はふうと息をつく。
 どうやら自分たちの計画を今後も遂行するためには、もっと州城内部に通じている者を抱き込む必要がありそうだ。それも、州侯が直接口にする物を扱う立場にいる者。
 例えば膳部の者か、身の回りの世話をする女官か。
 ―――だが、
 と温恭は頭を振る。
 内部に近い者を使おうとすればするほど、事は発覚しやすい。州府に納められる以前の食品に薬を混ぜることが出来る舎人を抱き込んだのは良策であったのだ。
 「宣侯が酒呑みならば……か」
 温恭は呟いて、名案が浮かんだとばかりに薄く笑った。
 「ならば、宣侯を酒呑みにしてしまえばよいのだ」


◇     ◇     ◇


 一方温恭が去った妓楼の一室。ここにも席から妓女を遠ざけて頭を突き合わせている三人の客がいた。
 ひとりは二十代半ば頃の人のよさそうな青年で、ひとりは三十前後の怜悧な男。そしてもう一人は、はっとするような赤い髪を無造作に結い上げた年若い少年であった。
 三人の間に会話はない。卓に並べられた酒や肴にもほとんど手は付いておらず、三人は何かを待っているかのようにじっと外の気配に耳を澄ましているようだった。
 やがて部屋の前に人の気配が現れる。と、同時に現れた気配は声を上げた。
 「霄花(しょうか)にございます」
 その声に、赤い髪をした少年が待ちかねていたように身じろいで戸に視線を注いだ。
 「―――入れ」
 その声に若い女が現れる。なりは妓女であったが、きりりとした態度で拱手する姿は武人然としたものであった。
 「どうであった」
 怜悧な男が問いかける。その問いかけに女は「はっ」と答えて顔を上げた。
 「部屋にいたのは、州舎人班素(はんそ)と郢緯(ていい)郡官吏の温恭という男にございました」
 「郢緯(ていい)郡の官吏だって?」
 女の報告に、赤い髪の少年―――陽子が、思わずといった感じで驚きの声を上げた。
 それは全くの予想外だった。だが報告に来た女は核心をもって頷いた。
 「はい、間違いございません。どうやら舎人の裏には郢緯(ていい)郡の存在があるようです。しかも温恭は太守の右腕といわれている男です。太守の命を受けて舎人と接触をもっていると見てまず間違いございません」
 三人は思わず顔を見合わせる。
 怜悧な男―――浩瀚が、わずかに息を吐いて口を開いた。
 「……どうやら、舎人と曹家との癒着を探っていたら、とんでもないものを釣り上げてしまったようですね。郡官吏がこそこそと州官と接触するなど、不穏としか言いようがありません」
 「確かに。―――しかし、温恭という男は一体何が目的で舎人と接触しているんだ」
 陽子が期待するように女に視線を向けたが、霄花(しょうか)と名乗った女は申し訳なさそうに小さく横に首を振った。
 「それはわかりかねます。非常に慎重な男で。ただ、蜂蜜やら宣侯という言葉を口にしていたようですが」
 「蜂蜜と宣侯?」
 陽子は首をかしげる。浩瀚も考え込むように眉を寄せた。
 「なにはともあれ、もう少し探る必要があるようです。今後は郢緯(ていい)郡の動きにも注意を払いましょう」

 
 

  
 
 
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