季容はその日も、あてどもなく東遼の街をさまよい歩いていた。
気付けば皋門の前にたどり着き、しばしそこに聳える凌雲山を見上げてため息と共に立ち去る。曹家の屋敷前にも足が向く。そこは相変わらず、多くの商人が大荷物を抱えてひっきりなしに出入りしており、騒然とした活気にあふれていた。父を手伝って、季容も何度も訪れたことがある。屋敷内は個人の所有物とは到底信じられないほど広く、多くの人が働いていた。
その多くが家生だということを季容は知っている。曹家は多くの家生を抱えており、出入りの商人たちと応対するのは実質的に家生たちの仕事であった。
家生とは、その家に住む下男下女を言う。彼らは給金をもらうのではなく、家族として家公に養われている。最低限の衣食住は保障される代わりに地位は低く、また、賃金を払って使用人を雇うより断然安価で労働力を確保することができるのだ。曹家には使用人もいるが、断然家生が多い。安い労働力が曹家の繁栄を下支えしているのだ。
だがそれは、曹家にばかり利のあることではない。
生活に困ったら曹家のところへ行って家生にしてもらえばいい。
東遼の人の多くがそう考えているし、また逆に行く当てのない者を曹家としても積極的に家生として受け入れていた。だから東遼には浮浪者が少ない。浮浪者になる前にたいていが曹家の家生となるからだ。家生となれば自由はないが最低限ながら衣食住は保障される。それによって命を繋ぐことが出来た者も少なくはない。
だから、季容の父が不正の罪に問われ、季容が父も仕事も失った時、周囲の者は当たり前のように季容にこう言ったのだ。
「曹家のところに行って家生にしてもらえばいいじゃないか」と。
しかし曹家に対してわずかなりともある不信感がそれを阻む。しかも、家生の子は家生と決まっている。季容がした選択の結果、自分の子に、生まれた時から自由を奪われている人生を歩ませなければならなくなるなど、簡単には納得できないことであった。
けれども今の季容は、自分の人生の一歩先さえも見えない不安におびえている。
いや、怯えているのは何も将来にばかりではない。
季容は物陰からじっとこちらをうかがっているような視線を感じ、はっとして振り返る。物陰にさっと身をひそめた影を視界の端に捉えた気がした。
―――まただ。
季容はぎゅっと手を握り締める。ここ数日感じる人の気配。まるで自分を監視するように、誰かが物陰から窺っている。
季容は恐ろしくなってその場をかけ出した。
時同じ頃、州舎人班素(はんそ)は膳部可韓のもとを訪れていた。膳部に納めるべき荷と量を確認するためのいつもの打ち合わせであったが、その日、可韓は留守であった。
「州宰さまの呼び出しを受けてお出かけになりました。もう、戻ってくると思うのですが……」
対応した奄は申し訳なさそうにそう言って、班素にどうするかと問うた。出直すべきか待つべきか、班素は少々考えて、出直すのも面倒だと少し待ってみることにした。奄は何度も頭を下げながら、班素を厨房脇の小部屋へと案内すると茶を入れる。それを味わいながら班素は、一体州宰が膳部に何用だろうかと思いを巡らせた。
宣州州宰は字(あざな)を克明(こくめい)という。長く宣州府に勤める官吏であるがさほど出世はせず、前宣侯の代には中大夫州遂人を務めていたが、現宣侯が就任し若干の人員整理が行われるといきなり州宰に抜擢された人物であった。
克明は宣侯に莫大な賄賂を贈ったのだと噂される。遂人といえば山野を治め、地を整える官。多額の公金を扱うため、不正でもって公金の一部をかすめ取るのはたやすい立場にある。それによってため込んだ財で州宰の地位を買ったのだろうというのが専らの噂であった。
しかし、それでも自分を引き上げてくれた宣侯には恩義を感じるのか、宣侯の右腕として活躍している。宣侯が余り朝議に顔を出さなくなっても宣州の政が滞らないのは州宰の手腕によるものだと班素は聞いていた。
その州宰が、膳部を呼び出す。
―――まあ、宣侯の機嫌を取ろうと山海の珍味でも出すように指示しているのだろう。
班素がそんなことを考えながら茶を飲み干すと、
「これはこれは、班素殿。お待たせして申し訳ありません」
待っていた人物がようやく現れた。
「菜種油と胡麻油をいつもと同じ量だけ。干し鮑のいいのがあれば少し多めに入れてほしいですね。青菜はできるだけ新鮮なものを。先日頼んだ塩はいつ入りますか?」
「それは2、3日中に必ず」
「それで結構です。それと鶏肉を。できれば金鶏がいいのですが」
「金鶏ですか。わかりました」
「それと―――」
二人の話し合いはよどみなく進む。いつもの通りだ。可韓が必要なものを言って、班素がそれを書きとめていく。特段の問題もなく、打ち合わせはすぐに終わった。
「ところで、州宰さまは一体何用だったんですか?納めた荷に何か問題でも」
そんなことは露ほども思っていなかったが、話を聞きだすための手段として班素は少し心配そうな顔をして問うた。すると可韓は班素を安心させるためか、わずかに笑みを浮かべた。
「いえいえ、そうではありません。何でも今堯天からお客人が見えているらしく」
「堯天から?というと、王宮からですか?」
「州宰さまが随分と気を使われておられるようだから、きっとそうなのでしょう。そのお客人が、とにかく蜂蜜好きらしく、お出しした蒸しパンに蜂蜜をつけたいとおっしゃられたようで。それで州宰さまが蜂蜜はないのかと」
「蜂蜜ですか?」
班素は少しびくりとして反応した。
無理もない。蜂蜜といえば非常に高価な食材だ。州府でも、ほぼ州侯しか口にできない。だからこそ、薬を混ぜる食材に蜂蜜を選んだのだ。
「―――蜂蜜好きのお客人とは、相当な貴人のようですね」
「さて、どうなのでしょう。中央と地方では、まるで生活の基準が違うのかもしれませんし」
可韓の言葉に、なるほどそうなのかもしれないと頷きつつ、班素はわずかに苦笑した。
「しかし蜂蜜をお出しせよと言われて可韓殿も困られたことでしょう。あの一件以来蜂蜜の納入は止まっていますから」
「ええ。ですが、以前納められたものの残りが少しありまして」
「え?でもあの加水事件の時、厨房の蜂蜜は秋官がすべて押さえたはずでは?」
「そうなのですが、小瓶に分けていた物のことをすっかり失念していたのです。後日気がついてどうしようかと迷っていたんですが、本当にほんの少しだし、問題になるより以前の蜂蜜なので厨房に置いていても問題ないだろうと、そのまま取っていた物があったのです」
「それをお出ししたのですか?」
班素が動揺を必死に隠しながら問えば、可韓は頓着ないように頷いた。
「ええ。州宰さまも、事件のことは重々ご承知でいらっしゃるけれども、加水が問題になるより以前の物が少しくらいあるだろうと。お客人の機嫌を損ねるわけにはいかないような感じでしたので、お出ししました」
「……そうですか」
班素は唸るように呟いて考え込んだ。
厨房に納められていた蜂蜜にはすべて薬が混ぜてある。仙にも効く薬だが遅行性であり、少量体内に取り入れただけではさほどの効果はない。だがそれは、高位である宣侯を対象として考えていたことであり、客人とやらが一体誰か分からないが、位によっては少量でも何らかの症状が出るかもしれない。
―――大丈夫だろうか。
客人に異変があれば当然問題になるだろう。
だが、
―――それが蜂蜜のせいだとわかるだろうか。
そう思って班素はわずかに気を取り直した。
薬の効果は最初全身の倦怠感から現れると聞いている。たんなる体調の不調と思っている間に、やがて頭がぼうっとしてやる気がなくなってくる。しだいに人と会うのが億劫になって感情の起伏が激しくなり、さらに症状が進めば廃人同様になるというが、如何に下位の仙であってもわずかな量を口にしたくらいでそこまで重い症状が出るとは思えない。
多少の倦怠感くらいなら、移動の疲れと誤解するはずだ。
「お客人の接待があるなら、これから可韓殿もお忙しいでしょうね。急な要り物があるなら私も協力しますよ。堯天からいらっしゃったのなら、大層舌も肥えておいででしょうし」
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。お客人はすぐにお立ちになるそうで、宴の準備は必要ないと言われましたから」
「そうですか。随分お急ぎなんですね」
客人とやらが何をしに来たのか気にはなったが、班素はすぐに自分には関係ないことだと考えるのをやめた。
「では、わたしはこれで」
班素は席を立つ。軽く会釈して立ち去ろうとすると、可韓が慌てたように班素を呼びとめた。
「ああ、班素殿。少しお待ちを」
「どうなさいました?」
「すいません。うっかり大切な注文を伝え忘れるところでした。そう言えば州宰さまからのご依頼で、葡萄酒を入れてくれないかと頼まれていました」
「葡萄酒ですか?」
可韓の言葉に班素はわずかに驚いた。
葡萄酒は現在慶ではほとんど作られていない。かつて征州では盛んに葡萄酒を作っていたこともあったと聞くが、もともとが葡萄を育てるのに適した土地が少なかったこともあるし、長い動乱の中で作るべき作物としての優先順位が格段に低かったことでしだいに生産されなくなった。
現在慶で飲まれる葡萄酒のほとんどが雁からの輸入品だが、たいへん高価なため相当な高位高官でなければ口にできず、王の酒などとも言われている。
「驚くのも最もです」
可韓は班素の様子を眺めながら頷いた。
「何でも先日郢緯(ていい)郡の太守から侯に葡萄酒が献上されたらしくて。侯はめったにお酒を飲まれる方ではないのですが、その葡萄酒はいたくお気に召したようです。それで州宰さまが、葡萄酒が手に入らぬかと私に相談なさったわけです。費用の方は多少かかってもよいからと」
「そうですか」
答えながら、班素は先日温恭とした会話を思い出していた。
今回の件、おそらく温恭が動いたのだ。
思惑を受け取って班素は笑む。
「わかりました。そういうことなら私も奔走してみましょう」
◇ ◇ ◇
奔走すると言いながら班素のすることといえば、注文のすべてを曹家に丸投げすることであった。
「金鶏に、葡萄酒。何といやはや、舎人殿の注文はときどきびっくりします。金鶏がいかに手に入りにくいかご存知ないのだろうか」
州舎人班素との仲介を一手に担っている曹家の嫡男洵由(じゅんゆ)は、州府から帰るなり愚痴をこぼした。
その様子に曹家の家公であり、洵由の父である曹鄭徳(ていとく)がゆったりと笑む。
「それほど曹家をご信頼くださっておるのだよ。それにお前も、無理だと申し上げたわけではあるまい」
「そのようなこと言えるはずがないでしょう。曹家の面子にかかわることです」
洵由は言うと、榻にどさりと身を投げ出す。
金鶏は雉に似た鳥だ。黄金色の羽をもち、長い尾羽をもつ。肉は非常に美味で重宝されるのだが、卵で増えるわけではないこちらの生き物は、需要があっても自分たちで勝手に増やすことはできない。
しかも、金鶏は里木にはならない。山中に生える野木にしかならないのだ。どういった仕組みなのかわからないがそうなので、金鶏が欲しければ山に分け入らなければならない。
そういった山の生き物を捕ってくるのを生業にしている者を猟師というが、さらに特定の生き物を野木から孵ってすぐ持ち帰り育てて売る者を猟山師といった。野木には特定の種をつけやすい木があって、金鶏など需要があって高値で取引される生き物の卵果をつけやすい木が見つかれば、山中を動き回る金鶏を捕まえるよりはずっと確実に手に入れることができるのだ。
ただ、野木の下で殺生はできないので、金鶏の雛を見つけても動き出すまで待たなければならないが。
「金鶏の方は、知り合いの猟山師に聞いてみようとおもいます。金鶏を専門にしている猟山師だから何羽か持っているでしょう。ただ葡萄酒は……。今まで扱ったことがないので、入手するまでに時間がかかりそうです」
「葡萄酒は問題ないのじゃないかな」
鄭徳は言って、下女が持ってきた茶を飲む。榻に身を投げ出していた洵由は、父のその言葉にわずかに身を起こした。
「父上は、葡萄酒の入手先に心当たりがあるのですか?」
「おや、お前は先日来た客人をもう忘れたのかね?」
「先日来た客人……」
言われて洵由ははたと思いだす。そういえば先日、雁で商売を営む商家の御曹司とやらが訪ねてきた。なんでも修行中の身らしく、親元を離れて各地を巡っているらしい。その修行の一環として新しい取引先を捜していると言っていた。
「私たちどもは葡萄酒を主に扱っております。葡萄酒といえば雁ではごくごく一般的な酒。しかし、他国にもっていけばまだまだ珍しくとても重宝されます。雁で売るよりも、他国で売る方がもうかるのです」
そう説明したのは、御曹司の連れとやらの若い男だった。絹衣を着た身なりの立派な男で、怜悧な風貌に、とてもやり手の商人であろうと容易に想像できた。年若い御曹司の武者修行に彼の父親がつけたお目付け役なのであろう。交渉は専ら彼がやっていた。
「しかし、他国で売ると言っても販売経路が確立できなければそう簡単にはいきませんし、高価であるだけに売れる目算がつかなければ運んできても輸送費がかさむだけです。それで雁の商人の多くが慶国ならば首都堯天にその経路を見出そうとするのですが、正直後手に回った者が今から堯天の販売競争に参入しても勝てる見込みはないのですよ。それで我々は堯天以外の場所を捜しているのです」
男の言い分はいちいちもっともだった。今の慶で高価な酒を買う者がいるとすれば、堯天以外にないだろう。王のおひざ元として日に日に繁栄する堯天には市井に富裕層も多いし、高位高官も客になる。
「あちこち巡っているうちに宣州にたどり着きました。そして、宣州に来て、曹家のことを耳にしたのです。曹家は宣州府御用達の商家だとか。もし、曹家で葡萄酒を扱うようなことがあればぜひ我々と取引をしていただきたい」
あの時は、今まで葡萄酒の注文を州府から受けたことがなかったので、仕方なくそのままお引き取り願ったが……
「しばらくは翠嵐楼に泊まっていると言っていたから、まだおられるだろう。お互い良い時期に巡り会ったものだ」
そうですね、と答えながら洵由は、よどみなくしゃべる男の横で寡黙に座っていながら、無視できない存在感とはっとするほど鮮やかな緋色の髪をしていた雁の商家の御曹司の姿を思い出していた。
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