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   洵由が翠嵐楼を訪ねると、店の者に話が通っていたのか、待たされることなくすぐに部屋へと通された。
 「これはこれは、洵由殿。ようこそお越しくださいました」
 室内にいた若い男が立ちあがって洵由を迎えた。部屋の中には彼しかおらず、彼の年若い主の姿はなかった。
 「丹英さまは今外に出ておりますが、せっかくのお越し、まずは一服差し上げましょう」
 男は言うと洵由に椅子を勧め、自分は茶の準備を始める。主不在の場所に居座っていいものか一瞬だけ悩んだが、さっさと茶の準備を始められてはこのまま帰るのも失礼かと洵由は勧められるままに椅子に腰を下ろした。
 何とはなしに男の動きを目で追えば、茶を入れる男の手つきはなれたもので、随分と優雅な所作だった。商人と言うより貴人のようで、洵由の商売人としての勘が漠然とした違和感を伝える。それを内に隠しながら、洵由はちらりと室内を見回した。
 翠嵐楼は東遼でも名うての高級舎館だ。この宿に泊まれるというだけでも相手の懐事情がある程度予想できるというものだが、その中でもこの部屋は特に格式が高い部屋であった。
 普段なら恐らく、堯天から出向してきた高官位しか泊まれぬであろう。そんなところに何泊も平気で宿泊している様子を見れば、彼らはよほど裕福な商家であるのか、そもそも雁の商人の経済力が自分たちの想像力をはるかに超えるものであるのか。洵由は新たな好奇心を持って改めて男を見やった。
 そう言えば何でそもそもこの男が茶を入れているのだろうか、と洵由は改めて思う。主人に仕える身とはいえこの男だって普段は幾人もの奄奚に身の回りの世話をさせている身分であろうし、この宿に関して言えば客である。部屋付きの女中がいるはずで、茶を入れるのは本来彼女らの仕事のはずだ。
 そんな洵由の疑問を感じ取ったのか、男はふと笑みを浮かべて洵由を見やった。
 「我が主人丹英さまは、放っておくと勝手に自分で茶を入れておしまいになるものですから、先回りして茶を入れるのがすっかり癖になってしまいましてね」
 男はそう言って茶を洵由に差し出した。ひとくち含めば、飲み慣れた地元産の茶の味が口の中に広がる。さわやかと言えばそうだが、最高級品百端に比べれば何とも薄っぺらい単調な味がした。
 これほど豪華な部屋に泊っていながら安っぽい茶を飲んでいることに違和感を覚えつつ、洵由は茶器を置く。それはなんの意図もない、無意識の動きだったのだが、
 「東遼の方にとっては、珍しくもなんともないお茶でありましたね。気の効かないことを致しました」
 静かな男の声がして、洵由は自分がしでかした失態にはっとした。手ずから入れてもらった茶に謝辞も述べずに一口含んだだけで卓に置くとは、考えれば失礼なことこの上ない。洵由は慌てて居住まいを正した。
 「―――これは失礼を」
 「こちらこそ、別の茶を用意すべきでした。丹英さまがいたくこの茶を気に入られまして、こちらに来てからは毎日この茶を入れているものですから、ついいつもの調子で。
 この茶も、百端に比べれば味の深みもないし香りも足りないかもしれませんが、日差しの強い宣州にはぴったりのさわやかな喉越しですし、味わって飲むというより喉の渇きをうるおすために気軽に飲むにはよい茶だと思います」
 「そう、―――確かにそうですね」
 洵由はばつの悪さを隠すように茶を口に運んだ。
 父には商売人としての処世や心構えをたたき込まれたつもりだが、曹家の嫡男として生まれた洵由は幼い頃から裕福で、人に気を使うより使われる方に慣れている。まして東遼で商売をやっている限り人より立場が上であることが多い。そのせいで慢心し、商売人としての本質を忘れてはいなかったか。
 「―――素直なお方だ」
 「え?」
 「いいえ、なんでもございませんよ。それよりお茶を淹れなおしましょう」
 「いや、結構です。この茶で十分。久しぶりに飲んでいろいろ思い出しました」
 そうしてしばし他愛もない雑談を交わしつつ、さて、今日の本題を切り出していいものやら、出直してくるべきやら、と洵由が逡巡していると、男は唐突に話題を変えた。
 「ところで東遼では先頃、蜂蜜に加水されていたという事件が起きたそうですね」
 思わぬ話題に、洵由は反射的に男を見やった。
 「―――さすがお耳が早い」
 つぶやくように答えれば、男はゆったりと続けた。
 「卸しの商人がわずかばかりの売上金目当てに蜂蜜を水増ししていたと聞きました」
 「……どうやら、そういうことになったようですね」
 答えながら洵由の口の中に苦い物が広がる。あの事件は、曹家にとっても洵由自身にとっても複雑な思いを残した事件だった。本心を言えばこの話題には簡単に触れてほしくはなかったが、下手にはぐらかそうとすれば誤解が生まれる。誤解は洵由が最も望まないことだった。
 「そのご様子だと、なにやら別に真相がありそうですが?」
 「正直にいえば私にも真相はわからないのです。ただ、蜂蜜をうちに納めていた夏句(かく)とは私自身も面識がありましてね。私が見る限り実直な男だったのです。―――その男があのような事件を起こすとはとても信じられないのです」
 「事件とは往々にして思わぬところから起きるものではないですか?そもそも、最初から怪しいと思えば人は何らかの対策をとるものですから」
 「その通りかもしれません」
 洵由はぽつりとつぶやいて、浅くはない交流のあった夏句の姿を思い出す。
 「しかし我々は……、私も私の父も、夏句のことを信頼していたのです」
 「裏切られた気持ちですか」
 静かな質問に、洵由は小さく首を横に振った。
 「あの事件に関しては、後悔しかありません。我々は州府御用達商人としての誇りと責任を持って州に納める商品の検査は入念に行っているのですが、夏句の納める蜂蜜だけは、味や品質をうちで確かめることなく州府にそのまま納めていました。というのも、夏句の納める蜂蜜樽には紙封がしてありましてね。彼なりの矜持だったと思うのです。絶対に自信があるものを納めているのだという。しかし、中を確認するためにはその紙封を破らなければなりません。夏句を信頼していた我々は、その紙封を破るのは失礼だと考えていたのです」
 「その信頼を逆手に取られたというわけですか。盲目的に信頼してしまったことを後悔なさっておいでなのですね」
 「―――いいえ、そうではありません」
 洵由は小さく息をつく。答えながら洵由は自分の思いを再確認していた。
 「中身の確認さえしていれば、あの事件は未然に防げたのです。そして、夏句がそうせざるを得ない事情があるなら相談に乗ってやることも。……そしてこれは、私の心の片隅にある小さなしこりなのですが、本当に最初から蜂蜜に加水されていたのかどうか、真実を知ることができたはずなのです」
 「洵由殿は、蜂蜜に加水した犯人は夏句殿ではないかもしれないと?」
 「私の知る夏句と言う男は、そんなことをする人間ではありません」
 「しかしそうなると、誰が加水したのでしょうか」
 そう、それが問題なのだ、と洵由は瞑目した。蜂蜜が州府に納められて膳夫の可韓が異常に気づくまでに加水できる人間など限られている。そしてその誰にも加水して得になることがないのだ。一番考えられる可能性としては、誰かが小遣い稼ぎのために蜂蜜をくすねて転売し、減った分量をごまかすために水を加えたというものだが、舎人ならば最初から帳簿をごまかせばいいのだし、厨房の者なら加水などしたらすぐにばれるということはわかるはずだ。
 「わかりません。そもそも私が夏句を信じたいだけで、やはり夏句が犯人なのかもしれません」
 そして視線を上げて目の前に対座する男を改めて見た瞬間、洵由は男の視線の中に潜む鋭い気配を敏感に捉えた。
 この男は自分の何かを計っている。唐突にそう直感した。
 反射的に警戒心が湧きあがる。捉えた気配は、決してただの商人が持つものではなかった。
 「一体あなたは何者なのだ」
 洵由がそう問いかけようとしたその時、堂に接する小房の扉が開いて、はっとするような緋色が洵由の目を射抜いたのだった。


 洵由は反射的に立ち上がった。
 鋭い光に目がくらんだかのような錯覚に、洵由は数度目をしばたいた。
 「―――あなたは」
 戸口に立っていたのは、先日屋敷で会った雁の御曹司。
 外出中だと言っていた少年が、なぜ続き部屋から現れるのか。洵由が驚きに言葉を失っていると、現れた少年は神妙な顔をして頭を下げた。
 「すまない。あなたを試すような真似をしてしまった」
 その言葉に意味がすぐには呑み込めないまま洵由が呆然と立ち尽くす前で、少年は男を見る。
 「浩瀚。私は、この人は信頼できると思う」
 「丹英さまが、そうおっしゃるのであれば、私に異存はございません」
 男は答えると、少年に対して恭しく腰を折った。
 洵由はわけがわからなかった。
 自分は何か謀られたのか。だがそれが何で、現在どういう状況に陥っており、これからどうなるのか。噴出した疑問が脳裏を駆け巡ってただただ戸惑っていると、少年は再び翡翠の双眸を洵由に向けた。
 「まずは座ってくれ。事情を説明したい。―――あくまで、あなたが望むならば、だが」
 そう前置きをして少年はさらに意味深な言葉をつづけた。
 「ただし、聞いたら我々に協力してもらうことになる。私達としては、手伝ってもらえればとても助かるのだが、あくまで決めるのはあなただから」
 一体何を言っているのか。わけがわからない。洵由は戸惑いながらなんとか口を開いた。
 「―――申し訳ありませんが、少し時間をもらえませんか。急なことで、一体何が何やら」
 「もちろん」
 少年は頷く。
 「庭を散歩してくるといい。私たちの話を聞く気があれば戻って来て。その気がないなら、そのまま帰ってもらって構わない。もしそうしても、あなたの不利益になることはないし、曹家に何らかの損失が生じるわけでもない。それは約束しよう」
 不思議とその言葉に警戒心は湧かなかった。少年の纏う清廉で真摯な空気に、この少年がそういうなら確かにそうなのだろうと洵由は素直に思った。
 「―――わかりました」
 洵由は頷きをひとつ残して、ひとまず部屋を後にした。


◇     ◇     ◇

 
 半刻ほど外の空気を吸った洵由は、迷うことなく部屋へと戻った。その間、特に何かを考えたわけではない。ごちゃごちゃと考えて思考を絡ませてしまうよりも、むしろ頭の中をまっさらにした方が見えるものがあるような気が直感的にしたのである。
 夏の日差しを浴びてキラキラと光る庭の木々を眺め、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。
 そうして洵由は再び、少年と向き合ったのである。
 一方陽子の方はと言うと、正直洵由が戻ってきてほっとした。これから計画していることは曹家の助けがあれば格段にやりやすくなる。だが、その話をする前にどうしても確かめておかなければならないことがあった。それは、あの蜂蜜事件には本当に曹家は関わってはいないのか、ということだ。
 浩瀚のかまかけに対してどう答えるか。隣室で盗み聞きするやり方はあまり気持ちいいものではなかったが、結果陽子は白と判断した。洵由は自分たちの罪を他人になすりつけるような人物ではないし、なにより、洵由もあの事件の真相を知りたがっている一人だと。
 「率直に言おう。私たちは雁の商人ではない。実は、ある事件を調査するために堯天から来たんだ」
 陽子が言うと洵由は無言でうなずいた。
 洵由にとってそれは今までの違和感のすべてを納得させてくれる言葉だった。
 陽子は洵由の表情を確認して、とある包みを卓に置いた。包みを開けば小さな甕が現れる。
 「それは?」
 「事件より以前に州府に納められた蜂蜜だ」
 陽子が答えれば洵由は驚いたように軽く目を見開いた。が、すぐに表情は元に戻る。よくそんなものを入手できたな、という驚きと同時に、つまりはそういうことができる立場なのだろうと察したのだ。
 「―――なるほど」
 「この一部を堯天に送って調べてもらった。事件が起きる以前の蜂蜜なのだから本当であれば、これはなんの混ぜ物もないただの蜂蜜のはずだ」
 「しかし、そうではないかもしれないと、疑ったわけですね」
 「早い話をすればそうだ。というのも、蜂蜜になぜ加水したのかというのがずっと腑に落ちなかった。そして様々な可能性を考えているうちに、じつは蜂蜜にはもともと何らかの混ぜ物がしてあって、それを隠すために加水したんじゃないか、という一つの仮説が生じた」
 「蜂蜜の異常を加水事件にすり替えたかったと?―――しかしそれがもし事実なら、犯人はとっさに加水できる人間ということになります。少なくとも夏句ではない。自分の身の安全を考えるなら、加水は危険な行為ではないですか?」
 「確かにそうとも言える。だが、蜂蜜に混ぜ物をした犯人は、蜂蜜に本当に混入されているものがばれてしまうことを嫌がった。そう、嫌がったんだ。怖がったんじゃない。恐らく本来の混ぜ物の正体がばれても夏句のせいにされた可能性は高い。しかしそれでは、今後その混ぜ物をすることができなくなる。それが嫌だった。恐らくそいうことだろうと、私たちは予想したんだ。すると犯人が危険を冒してまで加水した謎も見えてくる。
 ―――つまりは、蜂蜜にされていた混ぜ物は、長い期間混入してこそ意味がある遅行性の毒ではないか、と」
 洵由はごくりと息を飲んだ。もしそれが事実なら、これは大変な事件だと瞬時に思った。
 蜂蜜は基本的に州侯しか口にしない高級品である。それに遅行性の毒を混ぜるということは、誰かが州侯の命を狙っているということになる。
 高位の仙の命を奪おうとすることは大変重い罪だ。本人はもちろん家族も許されない。ましてや主上が直接任命した州侯の命を狙えば、最悪謀反も疑われる。
 「そして、堯天から届いた報告で、私たちの考えていたことは間違いじゃなかったことが証明された」
 「――― 一体誰がそんなことを」
 言いながら洵由は言葉が震えた。州侯の暗殺など一介の商人に過ぎない洵由には考えるだけで恐ろしかった。
 「それを突き止めたいんだ」
 そのためにはあなたの協力が必要なのだ、という陽子に洵由は戸惑いを孕んで唇を引き結ぶ。できれば話は聞かなかったことにして、この場を立ち去りたかった。しかし今更それができないことはわかっていた。わかってはいたが、どうしても躊躇する気持ちに心をかき乱された。
 そんな洵由に陽子は深々と頭を下げた。
 「どうか力を貸してほしい。私は官吏の身勝手さで民が不遇を被るのを黙って見過ごすわけにはいかない」


 
 

  
 
 
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