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 臨艮の港町に一頭の騎獣がひらりと舞い降りた。その背に乗るのはまだ若い男。銀色の髪にひと房だけ混じる紫の髪が特徴的で、なかなかの美青年である。
 年の頃は二十歳を少し過ぎたぐらいか。いかにも育ちがよさそうなお坊ちゃん風で、身なりも随分とよい。乗っている騎獣も吉量と、これまた随分といい騎獣であった。
 「いやー、やっと着いた」
 青年は吉量の背からひらりと降りると、両手をつき上げて大きく伸びた。関弓から休まず飛んで丸一日。揺れもしなければ風を切る感覚もない、それなりに快適な旅路であったが、やはり丸一日飛び続けるのは疲れる。
 「さーて、宿を探して一眠りするかな。どっかいい宿を知っているか、巌堅?」
 青年はそう言うと、未だ騎乗している同乗者に目を向けた。こちらは頑強な壮年の男で、庶民一般が着るような毛織の着物に厚手の外套を羽織っていた。しかし、簡素ながらも皮甲と武器を身につけているところを見ると、青年の仗身といったところだろうか。
 「お前の言ういい宿とは、緑色の柱の宿のことか?」
 巌堅(がんけん)と呼ばれた男が、騎獣から降りながら少々揶揄を込めてそう言うと、青年はやれやれという風に頭を振る。
 「それはわざわざ確認する必要のあることなのか?」
 青年のその言葉に、決して長くはない、というより、つい先日出会ったばかりの付き合いながら、巌堅は「まあ、そうだろうな」としか言い返せなかった。


 二人が出会ったのは、関弓でも名高い高級妓楼。思いもかけず大金を手にし、一生に一度の思い出とその門をくぐった巌堅と違い、青年はいかにもその宿の常連であった。いや、実際にそうなのだろう。しかも、あちこちの妓楼を連日連夜のように遊び歩いている風であった。
 だがそれも納得というものか。この青年、実は、関弓でも名高い豪商、姜尚昆(きょうしょうこん)の次男坊で、名を姜亮(きょうりょう)、字を紫琉(しりゅう)といった。
 姜家は、現在空位の雁国にあって、いま姜家以上の生活が出来る者は雁国にはいない、といわれるほどの大富豪だ。首都関弓に構える屋敷は雲上にある玄英宮よりも豪奢だと噂され、ゆえに尚昆は、地上の王――地王とさえ呼ばれていた。
 そこの次男坊となれば、それはもう太子のような生活ぶりだろうと軽く想像がつく。周りに人が侍るのは当たり前。身の回りの一切を人にしてもらい、かしずかれるのにも命令するのにも慣れている。
 故に、普通の宿では物足らぬのだ。何せ普通の宿では、部屋を貸してくれるだけで周りに人が侍らない。
 「おい、言っておくが今日で最後になるぞ。海を渡ればもう妓楼なぞない。黄海に入れば宿もない」
 巌堅が言い含めるようにそう言うと、紫琉はまた、やれやれとあきれた風に頭を振った。
 「そんなことは、わかっているさ。だから一足飛びに海を越えないで、わざわざ臨艮に降りたんだろう」
 ……なるほど、そういうところにはやたら頭が回るようだ。と巌堅は心の中でため息をつく。
 「―――もうひとつ。ここには関弓ほどの妓楼はないからな」
 それでも文句を言うな、と続けると、どうも喰えない若者は、今度はにやりと笑った。
 「そんな心配をしなくても大丈夫だ。俺は違いを楽しめる男だから」
 さ、いいから、さっさと案内しろ、と促されて巌堅は歩き出したが、自分はとんでもない疫病神に捕まってしまったのではないかという思いがどうして拭い切れなかった。


◇     ◇     ◇


 事の始まりは、今年の夏に令坤門から黄海に入ったことによる。
 巌堅は朱氏だ。黄海で騎獣を狩り、それを売って生計を立てている。その時も仲間数人と徒党を組み、騎獣を狩るために黄海に入った。
 しかし、騎獣を狩るのはそうたやすいことではない。気配さえ見つからずにそのまま帰ってくるのはまだ良い方で、妖魔の餌になりに行ったのではと思える事も多かった。
 そう、黄海は人外の地。妖魔が跋扈し、厳しい自然環境が人を排除しようとする。慣れた者同士揃っていても、生き抜くだけで精一杯という時も珍しくはなかった。
 だから、この狩で駮が二頭と孟極が一頭取れたのは、大収穫であった。しかも極め付けにかえりしな、吉量まで捕まえた。これで人生すべての運を使い切ったのではないかと、巌堅は思ったほどだった。

 いや、実際そうだったのかもしれない。

 巌堅たち一向は、狩を終えて、次に開く令巽門に向かった。令巽門は、巧国に接する門。捕らえた騎獣を、内乱が起きて騎獣の需要が増えている巧で売るか、それともその隣、治世三百年の大国慶で売る方が高値がつくか、帰りの話題はそればかりであった。
 そして、門まであと三日という所で妖魔の襲撃を受けたのだ。
 巌堅が助かったのは、たまたま水を汲みに行き、少し離れた所にいたからにすぎない。とっさに潅木の陰にへばりついた巌堅は、妖魔に食いちぎられる仲間と騎獣を、ただ見つめることしか出来なかった。

 どうか妖魔が、こちらに気づきませんようにと祈りながら―――

 数瞬が何刻にも感じられた時間。妖魔が腹を満たして去って行った後には、食い散らかされた三人分の肉片と二頭の騎獣の残骸が辺りに異臭を放っていた。その中でも生き残ったものがいたのは、妖魔の胃袋よりこちらが差し出すものの方が多かったからに他ならない。一人は足をえぐられはしたが息があり、五人が乗ってきた騎獣の内の四頭と、捕らえた騎獣の内の三頭が無事だったのだから、天に感謝せねばならないだろう。
 巌堅は怪我をした仲間を一頭の騎獣にくくりつけると、捕らえたばかりの駮二頭を放し、仲間の騎獣と吉量をつれて急いで門へと向かった。ここでもたもたしていると、血の臭いをかぎつけて他の妖魔が集まってくる。駮二頭を放したのは、一人で運ぶのはとても無理だったからだ。慣れた騎獣ならまだしも、捕まえたばかりの騎獣を御するのは難しい。吉量だけは手放さなかったのは、売れば一番の大金になるからだった。
 九死に一生を得た二人は、仲間の騎獣と吉量を売り払って二分した。仲間の死はつらかったが、逆に懐は今までにないくらい暖かくなった。それで巌堅は、令艮門に向かう前に関弓に寄り、前から一度行ってみたいと思っていた妓楼を試してみることにしたのだ。

 そこで事件は起きた。

 あろう事か、共に妓楼にやってきた仲間が、巌堅の有り金をもって姿をくらませたのである。その男は知り合いが連れてきた男で、巌堅は今回の狩りで初めて出会った男であったが、数ヶ月とはいえ苦労を共にした仲間だ。しかも男にしてみれば自分は命の恩人といっても過言ではない。その男の裏切りに、巌堅は目の前が真っ暗になった。
 こんなことになるなら、あの時そのまま見捨ててくるのだったと巌堅は憤慨した。何せ、そうしたところで咎めだてする者など誰もいないのだ。より確実に生き延びられる方がより確実な手段で生き延びる。それが朱氏の考え方だ。
 だが、よくよく考えてみれば巌堅は、男がそういった行動に出る可能性を疑わなければいけなかっただろう。何せ男は、一命は取り留めたもののもはや朱氏として生きていくには致命的な怪我を負っていた。二度と黄海には入れない。朱氏にとってそれは、収入源を失うことと同じであった。
 これから生きていくためには金が要る。今回得た収入をすべて独り占めできれば、しばらくはその心配をしなくて済む。それだけの収入が今回はあった。
 そう思って、男の行動にどこか納得はしたが、だが、出来れば妓楼の支払いを済ませていって欲しかったと、巌堅はそれだけはどうにも怒りを抑えることが出来なかった。しかも、では乗ってきた騎獣を支払いの代わりにしようとしたら、それさえも持ち逃げされていたのである。
 怒りを超えて虚脱した。夢なら早く覚めて欲しいとさえ思った。
 身なりの良い青年が声をかけてきたのは、その時であった。


 「どうやら困っているようだな」
 多くの妓女を引き連れて現れたいけ好かない感じの若者は、そう言うなり巌堅の耳元に口を寄せると、まるで悪魔のようにささやいた。
 「助けてやろうか?」
 訝しげな視線を巌堅が送ると、青年はにっこりと微笑む。
 「あんた、朱氏なんだろう?俺の頼みを聞いてくれたら、ここの支払いは俺がしてやる。もちろん、頼みごとの報酬は別に払う」
 そんなうまい話があっていいのか?と、巌堅は一瞬疑いもしたが、何せ藁にもすがりたい状況だ。巌堅は、一も二もなく頷いた。
 「俺に出来ることならな」
 「もちろん。では、契約成立だ」
 青年は、そう言って満足そうに笑うと、懐から為替を取り出した。貨幣で払わない辺りが金持ち振りを如実に現していた。
 「―――で、俺に頼みたいこととは?」
 連れだって妓楼を出たところで巌堅が問う。すると青年はくるりと振り向き、ものすごいことをこともなげに言ってのけたのであった。
 「俺は、紫琉だ。昇山するから、蓬山まで案内してくれ」
 ちなみに、決めたのはついさっきだ。とからからと笑う世間知らずなお坊ちゃまを眺めながら、巌堅は目眩がする思いだった。

 
 

  
 
 
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