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 森を抜けるのに半月を要した。その間に妖魔の襲撃を受けたのはたったの三回で、欠けたのは人が六人と馬が二頭だけだった。
 剛氏たちが囁き始める。今回の連中のなかに鵬がいる、と。

 この頃になると、集団はまた別の様相を見せ始めていた。集団の先頭を率いているのは相も変わらず壮勇という男。そして、色々あるがやはりこの男についていくのが安心と、この男を中心に集っている者たちが第一の集団だ。第二は、剛氏を中心とした集団。これは第一集団と付かず離れずだが、時々は第一集団と違う道を選ぶこともあった。行き先は同じでも、右を行くか左を行くかといった時に分かれるのだ。第三は第一集団と第二集団のどちらについていこうかふらふらとしている連中で、あとはどの集団にも組しない者たちが作る小集団だった。そういった者たちの中には、まったく違う道を選んでそのままの者たちも多い。道は一本ではないのだから、互いに無事であれば蓬山で再会するのだろう。

 「いよいよ奇岩地帯か」
 森で最後の野営地。巌堅は視界に現れた乾いた大地を眺めて呟いた。これから先は、水も草木もない。持っているものだけで乗り切らねばならない場所であった。
 「よう。いよいよだな」
 背後からかけられた声に巌堅は振り返る。季徳だった。二人とも剛氏を中心とした集団に入っているので、自然親しくなっていた。
 とはいえ、剛氏たちはべつに協力体制を誓い合ったわけでもなんでもない。互いにすべきことをわかっているから行動が似てくるし、何かあれば協力する。だから集団であるように見えるが、所詮は個の集まりでしかない。いざとなればおのおのの依頼主を守ることが最優先。そのためには他者を利用したり蹴落としたりすることも厭わないのだ。
 誰もそんなことを口にはしないが、それが暗黙の了解というやつだった。
 「こっから先は難所だな。昼に行くか夜に行くか、毎回悩む」
 季徳は笑みを浮かべたまま続ける。
 「日をさえぎる物がないから昼間進むのは体力を消耗する。だが、夜進めば物影から突然妖魔が飛び出してくることもある。かなり慎重に早朝と夕刻だけ進んだこともあるが、その時は不運にも早起きの妖魔にばったりと出くわした。何とか殺って助かったが、依頼主は喰われた。まあ、要するに運だな」
 「……運か」
 巌堅は呟く。確かにここを無事抜けられるかどうかは運しだいだろう。それほどの難所だ。
 「馬を一頭潰して妖魔をおびき寄せる手もあるが、確実ではないし、逆に足を失うことが後々敗因になったりもする。だがまぁ、余分な馬があれば俺なら試す」
 「壮勇という男にそう吹き込んできたらどうだ。了悟とかいうやつに馬を出せと命じるかも知れんぞ」
 「実は、それもひとつの手かと思案中だ」
 季徳は頓着なく笑った。
 「まあ俺はどっちにしろ、お前さんについていこうと思っている」
 季徳の言葉に巌堅は季徳を見る。すると季徳は口の端に笑みを浮かべた。
 「今回の連中には鵬がいる」
 「姜家の坊ちゃんが、それだとでも言いたいのか?」
 「さあ、あんたのとこは三人もいるからな。誰とも言えんが、あの赤毛の小僧も只者じゃない感じがする」
 「―――あれは小僧じゃなくて女だ」
 「へぇ」
 本当に気づいていなかったのか、季徳はかなり驚いたように目を見開いた。
 「じゃあ、ますますそっちの方が怪しいかな」
 「わからん」
 巌堅は再び荒野に目を向けた。
 奇岩地帯を抜けるのにうまくいって十日。その先も楽というわけではないが、ここを抜けられれば蓬山へたどり着く可能性はぐんと高くなるだろう。
 今回の旅の山場だ。
 ―――昼行くか、夜行くか、か……。
 巌堅は険しい表情をしたまま口の中で呟いた。


◇     ◇     ◇


 ―――確かに難所だな。
 巌堅とはまた別の場所からひとり、荒野を見つめていた陽子は心の中で呟いた。
 黄海を奥へと進むごとに気温は上昇していた。照りつける容赦ない太陽。さえぎる物も何もなく、その光を浴び続けることは、かなり体力を消耗するだろう。
 多少の無理の出来る神なる己の身ならまだしも、人の身では命にかかわる。
 だからといって夜進めば、あちこちに点在する奇岩の影から急に妖魔が飛び出してくるかもしれない。少々の妖魔なら切って捨てる自信はあるが、周囲の者たちはそんな自分に不審を向けるか、あるいは、妖魔が出たらすべて切り捨ててくれると頼りにされるか、どちらにしても鬱陶しい。
 国と民を捨てようとしている今、雁の昇山者を守ってやる義理などないし、そんな心境にもならない。
 だが、いないならいないで困る。彼らは道案内なのだから。
 そんな冷めたことを思いつつ、陽子はひょんなことから同行することになった三人にちらりと思いを馳せた。いまの陽子にとっては、彼らさえ道具にすぎない。無事に黄海を渡るための道具だ。黄海を渡るための準備はそれなりにしてきたつもりだが、それでも彼らの持つなにかに頼ることも多少ある。だから必要なのだ。
 しかし、そう思う一方で三人の存在が陽子の心を揺らす。冷え切った心の奥底にまだ微かに残っているのかもしれない熾火がちろちろとあおられる。
 三人はどこか、陽子が大切にしてきた人に似ているのだ。あるいは陽子を大切にしてくれた人々に。誰が誰それに、というわけではないが、三人のふとした言動の中に、黄海に入るまでは別れを惜しいとも思わなかった、あるいは二度と会えないことを覚悟し、己の中で切り捨てた面々が重なった。
 それが妙な執着を生むのだ。
 陽子はそれを何処か忌々しく思う。
 もはやこれ以上玉座を背負えないと思ったときから、今回のことは綿密に計画を進めてきた。誰にも告げず、遺書めいた物だけを見つかるか見つからぬかの所に隠してきた。冬至の祭礼に王がおらぬとなれば、あちこち引っ掻き回して行方を追うだろうことを見越してのことだ。
 王宮を最後にした時の開放感。達成感。してやったりと思う高揚感。あれほどの感情を抱いておきながら今ぐらつく自分が忌々しい。
 これほど時間が流れてもなお、自分はやはり迷う。
 迷いをすべて捨ててここへ来たのに、ここでまた迷う。
 陽子はため息をついて軽く頭を振った。そして思いを半身に向ける。
 景麒にだけは厳重に口止めをした上で告げてきた。麒麟に誤魔化しはきかないからだ。
 共に逝くなら蓬山で待て。考える時間は多少あるから、ゆっくり考えろよ。
 それが、陽子が景麒に残した言葉だ。
 お得意の溜息をつくかと思ったが、その時景麒はただ一言「わかりました」とだけ告げたのだ。蓬山にいるのかいないのかは、行ってみなければわからない。
 だから陽子は、途中で死ぬ気はない。景麒の決断を己が目で確かめねばならないから。
 ―――今はとにかく蓬山にたどり着く。それだけを考えればいい。


◇     ◇     ◇


 少し離れたところから、紫琉は一人佇むその華奢な背を見つめていた。
 丹英。最初に見かけた時から、気になってしょうがない少女。
 気になったのは、巌堅が最初に暗いと言ったあの瞳。紫琉とてあの瞳の暗さに気づかなかったわけではない。むしろ気づいたからこそ気になったのだ。
 昔、紫琉が気にかけていた少女がいた。今考えればそれが初恋。少し年上の、とても聡明な少女だった。いつもからからと陽気に笑い、官吏になるんだと必死に勉学に明け暮れていた。どうして官吏になりたいのかと問えば、国を良くしたいのだと言っていた。いつか必ず現れる卮王(しおう)のような賢帝を支え、共に良い国を造るのだと。
 しかし少女の夢はかなわなかった。王のいない国はどうしたって荒れる。雁は官吏が優秀で仮朝でも揺るがないと他国にも評判であったが、それでも王のもたらす恩恵には与れないのだ。少女の父が妖魔に襲われ、少女は勉学だけに打ち込むことは出来なくなった。家族を養うために働いて、いつしか彼女は妓女になっていた。
 再会した時、少女の目にはすでにかつての輝きはなかった。すべてを受け入れて、すべてをあきらめて、暗く沈んだ瞳をしていた。そんな彼女を抱いたが、虚しいばかりであった。足抜けさせてやる、だからもう一度夢を追いかけたらどうだ、と彼女に言ったが、彼女は力なく笑って言ったのだ。
 それはあなたのお金ではなく、お父様のお金なのでしょう―――と。
 言い返せなかった。確かにそうだったから。
 それから紫琉は官吏を目指した。せめて自分が彼女の夢を引き継ごうと。幸いに紫琉は、頭は悪くなかった。大抵のことは一回で覚えられたし、知識を得ることを苦だと思うこともなかった。そもそも小さい頃から家庭教師が付いていて、大学を受けるために一から勉強しなければいけないということはなかったのである。
 そして大学入試を数日後に控えた時、事件は起きた。父に慶国行きの仕事を任されたのだ。行けば入試日に間に合わない。そう訴えると、父は笑って言ったのだ。
 官吏になるのに何も大学にいく必要などない。高官に金を握らせればそれで済む。
 ああ―――と、紫琉はその時悟ったのだ。
 俺はきっとこの先もずっと、姜尚昆の息子以外のものにはなれぬのだな、と。
 父が嫌いなわけではない。大抵のことは自由にさせてもらってきたし、愛されているという自覚もある。だけれども、何かがとても虚しかった。
 そして、あの少女にどうしても会いたくなった。今ならあの少女の瞳の暗さを共感できる気がしたから。心に抱えた虚しさを、慰めあいたかったのかもしれない。だが、それはかなわなかった。少女はすでに己で命を絶っていたのだ。
 ―――俺は、あの時慰めてもらいたかった虚しさを、今丹英にうめてもらおうと思っているんだろうか。
 そう思うと自嘲が漏れた。自分の女々しさにあきれたのだ。
 蓬山に行こう。
 紫琉は、南西の空を見上げた。見えぬがそちらに蓬山があるはずだ。
 蓬山に答えが待っている。


 
 

  
 
 
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