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 陽子は、少し離れた岩影にひとり腰掛け、少々自己嫌悪に陥っていた。説教くさいことなどいうつもりはなかったのだが、つい、口をついて出ていた。
 紫琉は甘い。王になろうと、天意を諮ろうとしているのに、玉座の何たるかをわかっていない。
 三百年玉座を背負ってきて、陽子はどれだけの血が流れたか知っている。心の中で何度も涙を流し、非情な決断をしたことなど数え切れない。そうやって国と民とを守ってきたのだ。
 ずっと孤独に耐えながら。本性はただの小娘でしかない自分を、精一杯に隠して。
 そう思う一方で、もうずっとずっと昔の、登極した頃の自分を思い出す。思い返せば、紫琉なんかよりずっとずっと青くて、本当に何にもわかってはいなかった。こちらのことを何も知らず、文字すらも読めなかった。みんなにおんぶに抱っこで、何とか王らしいことをやっていたのだ。
 幾度となく、浩瀚に王の何たるかを説教されて、遠甫に教え諭されて、景麒に心配されて、鈴や祥瓊に励まされて、それで何とか玉座を背負っていたのだ。
 それなのに、いつの間に自分は、さも最初から自分の足で立っていた気になっていたのだろう。
 ―――どうして、ちゃんとみんなに、ありがとうって言ってこなかったんだろう……。
 ここにきて、陽子の頭には、後悔することばかりが浮かんでは消えた。


◇     ◇     ◇


 なかなか出発しない紫琉らの一行に、他の集団も出発を躊躇う。鵬を失った旅は辛い。まして、得体の知れないモノの縄張りに足を踏み込んでしまっている今、鵬と離れれば生きては抜けられぬだろうと、剛氏たちはどこかで確信していた。
 「よう、あんたのとこ坊ちゃんは思案中か?」
 とりあえずひとり淡々と出発の準備を進めていた巌堅は、近寄ってきた季徳に声をかけられて顔を上げた。
 「まあな」
 短く答え、作業を続ける。その返事に、季徳が勘違いするだろうことなど承知の上だ。
 「まあ、行くか戻るか確かに迷うわなぁ。戻った連中が、果たして無事かどうかもわからねぇ」
 季徳はそう言って、来た道を振り返る。
 巌堅は、そんな季徳にばれない程度の小さな溜息をついた。
 確かに紫琉は行くか戻るか思案中だ。しかしその時の戻るは、来た道を戻るという意味ではない。蓬山に行くのをやめ、次に開く四門に向かい黄海の外に戻る、という意味だ。
 まあ、巌堅の仕事は、依頼者を無事黄海から連れ戻すことであるから、蓬山に行こうが行くまいかはさほど重要ではない。とはいえ、剛氏の引いた道は基本的に四門と蓬山を結ぶ。蓬山に向かわずに、途中から別の門へ向かうのはなかなか至難の業だった。
 ―――縛り上げてでも、吉量に乗っけて逃げるべきかな。
 巌堅は、重い水袋を抱え上げて一瞬迷ったが、しっかりとした手つきで吉量の背にくくりつけた。
 「昼も夜も襲われるんじゃ、涼しい夜に進んだほうが賢明かもしれんな」
 季徳が朝日に目を移した。太陽は昇り始めたばかりだというのに、もう肌を刺すように鋭い。
 「せめて月があるならな」
 「今夜は、まだ三日月か」
 その時、紫琉が立ち上がった。そばにいた李郁に何事かささやいて、李郁が頷いて少し離れたところにいる少女に向かって駆けていく。
 「お、結論が出たかな?」
 季徳のその呟きに、巌堅も振り返った。
 事件が起きたのは、まさにその直後であった。


 紫琉は立ち上がり、そばにいた李郁に、丹英を呼んで来い、とだけ短く告げる。そのささやきが聞こえるほど近くではないが、視界に入る場所にはいる少女が、紫琉が立ち上がった気配にこちらに目を向ける。
 つながる紫琉と陽子の視線。その間を小走りに駆ける、灰褐色の髪の少年。
 その時、地面が盛り上がったような気がした。
 いや、実際盛り上がったのか。それとも瞬時にそこに何かが現れたのか。
 陽子は、驚いて目を見開いた。
 李郁はその陽子の表情に首をかしげると同時に、突然己が影に包まれたのを不思議に思い、足を止めて振り返る。
 辺りに悲鳴とも怒号ともつかぬ声が上がったのは同時であった。
 なに?
 振り返ってもただの黒い壁。後ろに見えるはずの光景が一切ない不思議。
 どん!という衝撃を受けたのは、その直後であった。
 何が起きたのかわからない。見上げれば目の前にゆれる赤い髪。
 「丹英?」
 「逃げろ、李郁!」
 さらに視線を上げ、李郁は絶叫した。そこに見たこともない、恐ろしい黒い大きなものが、二人を見下ろしていたのである。
 黒いものは、鎌のような体の一部を振り上げて容赦なく振り下ろす。
 陽子は腰の剣を抜いて、それをなぎ払った。
 何とも表現しようのない咆哮を、黒いものが上げた。
 「李郁、早く!」
 陽子は叫ぶ。
 しかし李郁は、体が震え動くことが出来なかった。奥歯はがちがちと鳴るだけで返事も出来ず、下半身を暖かいものが濡らす。
 黒いものが、再び鎌を持ち上げた。陽子を狙って鋭く振り下ろされる。それをぎりぎりでかわしてなぎ落とし、陽子は李郁を振り返った。
 そして、そこに見た姿に一瞬驚く。
 李郁がいるはずのそこに、かわいらしい兎の姿があったからだ。いや、正確には兎の半獣というべきか。
 ―――半獣だったのか。
 しかし今は、そんなことはどうでもよい。人の姿より小さくなったその体を、陽子は腕に抱えあげた。
 「丹英、こっちだ!」
 吉量の手綱を操って、紫琉が声を張り上げた。伸ばされる手に、陽子は李郁を渡す。
 「お前もだ!」
 紫琉は再び声を上げたが、陽子は無視して踵を返し、黒いものに対峙した。どうせ荷を乗せた吉量に三人乗っては、妖魔から逃げられない。
 次々と振り下ろされる鎌を、陽子は必死にかわしていく。切っても切っても、次の鎌が振り下ろされる。しかも妖魔にしてみれば、この程度のダメージはさほどのこともないのだろう。弱る様子どころか、いよいよ猛り狂って激しさを増す。
 「丹英!」
 「逃げろ!こいつは私が引き受ける!」
 「馬鹿いうな!お前をおいて逃げられるか!」
 「王になるんだろう!王を待っている三百万の民を思え!」
 「紫琉!」
 孟極の手綱を操って、巌堅が叫ぶ。本能でその場を逃げ出さんとする騎獣を何とか操りながら、巌堅は吉量に寄せた。
 「今の状態では、三人乗せては逃げられん!一旦、安全な所までさがれ!」
 「丹英を見捨てろというのか!」
 「ひとり見捨てることで他が助かるならな。迷わずそうしろという。しかし、あいつがやられれば、奴は今度は俺達を追ってくる。それよりも、あいつがまだ余力あるうちに荷を降ろして来る方がいい」
 「それでも丹英をひとり残すことになるだろうが!」
 「ここにいればいずれ全滅だ。全員が助かる微かな道を捨てるというならそうしろ!」
 「くそ!」
 巌堅の言葉に、紫琉は一旦丹英に眼をやって唇をかみ締めると、吉量の身を翻した。
 辺りいた人々はとっくに、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。


 巌堅と紫琉の会話は聞こえなかったが、陽子は去っていく吉量を視界の端に捕らえて、微かに息をついた。
 それでいい。
 紫琉の行動に、陽子は満足する。
 紫琉が真実王なのかどうか、そんなことはわからなかったが、もし紫琉が王ならば、雁は生まれ変わるのではないかとそんな予感がしていた。
 二百年前から、変化を忘れた国―――雁。
 古きよき伝統を継承する国。そういえば聞こえはよいが、それは同時に停滞を意味していた。淀んだ水は腐る。六百年かけて築かれたものがあまりに偉大だったから二百年の停滞にもったが、雁は確実にじわりじわりと腐りかけていた。
 有為転変。それを忘れた国は滅びるしかない。
 容赦なく繰り出される攻撃に、さすがの陽子も息が上がってくる。少しでもこいつをひきつけて、紫琉らが少しでも遠くに逃げる時間を稼ぐ。
 右に左に地に転がり、鎌をなぎ払い、懐に飛び込んで体に剣をつきたてる。飛びのけば、間髪いれずに突進してくる巨体をかわし、尾のようなものの攻撃を受けて反射的にそれを切り落とす。
 乾いた大地に、黒いものの体液がどろりと流れ出す。
 「さあ、来い!それとも、この剣のように封じられるか!」
 こんな状況の中で、陽子は不敵にも笑った。
 考えてみれば、死と隣り合ったこんな状況は実に久しぶりであった。
 血がたぎる。妖魔と死闘を繰り広げながら生き延びた、あの日のことが蘇る。
 ―――私は獣だ。
 黒いものと対峙して、陽子は笑う。
 ―――お前こそ獲物。私に狩られる哀れな狗だ!
 水禺刀が怪しく光る。


 一体、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。ほんの四半刻ぐらいのことかもしれなかったし、あるいは優に、一刻は過ぎていたのかもしれない。
 剣を握るその手が、しだに痺れて感覚がなくなってくる。陽子の体のあちこちに、浅くはない切り傷が刻まれていたが、妖魔の体はそれ以上に傷ついて、かなり衰弱を始めていた。
 翠玉の瞳が妖魔の目をまっすぐに捉える。妖魔も金の目で陽子を見据え、ぴたりと行動を停止した。最後に残された覇気の応酬。目に見える攻防はなくとも、その場で繰り広げられるのは激しい死闘。
 眉間が激しくうずく。そこが燃えるように熱い。
 そこから何かがあふれ出しそうな感覚に、陽子はわずかに顔をしかめた。
 今まで一度たりとも感じたことのないその感覚。己はひょっとして、思っている以上に衰弱しているのだろうか。
 ぎりっと奥歯をかみ合わせ、陽子は妖魔を見据える瞳にさらに力を込める。
 (ひれ伏せ)
 陽子は念ずる。
 (我の前にひれ伏せ)
 それは無意識。しかし、頑強な意思を持っていた。
 「我は慶東国王 景!」
 陽子は叫んだ。
 捨てようとしていたはずのその号を、威厳を持って叫んでいた。
 「景王の名をもって命ずる!」
 辺りに風が吹いた。それは渦のように二人を包み込んで、周囲に砂塵を巻き上げた。
 「我にひれ伏し、我に従ぜよ!」
 額から光が溢れた。
 目の前の黒いものの姿が緩やかにゆがんでいく。
 何が起きたのか、陽子自身も良くわかっていなかった。
 伸びたり縮んだりしながら形を失っていく黒いもの姿をどこか遠くに眺めながら、陽子はふと懐かしい男を思い出していた。
 その男の、自信に溢れた黒曜石の瞳。自分を見つめるその目はいつも優しくて、でも、どこかにいつも陰を背負っていた。
 その男が戯れにくれた一個の指輪。
 今蓬莱では、こういう物を贈ったりするんだろう?
 そう言って笑って、陽子の指にはめた。薬指にはめるその意味を、どこまで理解していたのか。今となってはわからない。
 そのくせに、何も言わずに一人逝った男。ひどい裏切りだと、指輪を雲海に投げ捨てた。
 ああ、何で捨ててしまったのか。今になって後悔する。
 あれ以来、指輪をつけることはなかった。胸が苦しくなるから。
 置いて行かれた悲しさと、裏切られた辛さを思い出すから。
 でも、そう。今ならもう一度、つけてもいい気がする。男が何も言わずに逝った訳を、何となく理解できるから。
 目の前の影が大きくゆがんだ。そして急速に縮んでいく。陽子はそれに無意識のうちに手を伸ばした。
 「……尚隆」
 風が収まった。
 辺りに今までの激戦の影はどこにもなく、黒いものの姿も欠片もない。
 気づけば指にぴったりとはまった一個の指輪。
 それを不思議に見つめて、陽子はそのまま意識を失った。

 

 
 

  
 
 
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