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 漆黒の闇の中に陽子は立っていた。
 どこからか高く澄んだ音色で、滴が水面をたたく音がしていた。ほそい音は闇にこだまして、まるで真っ暗な洞窟の中にでもいるかのようだ。
 闇は深く、広い。
 ―――私はこの闇を知っている。
 そう思ったが、果たしてどこで知ったのか、思考が思うように定まらない。
 闇の向こうに明かりが灯った。
 光に集まる虫のように、陽子はふらりとその光に引き寄せられる。
 距離感も、時間の感覚もわからない闇の中。陽子はただひたすらに、光に向かって歩き続ける。しかし向かっているのに、ちっともその距離が縮まっているように感じられない。その感覚に、陽子はいつしか焦りを覚えて走り出す。
 走っても走っても、やっぱり光には近づけない。
 ―――どうして。
 息が上がる。陽子は胸を押さえて、ついに立ち止まった。押し寄せる孤独感。渇望するように光を見据えれば、今度は途端に、光のほうが迫ってきた。
 ―――!
 驚愕に目を見開いている内に、陽子はすっぽりと光に包まれた。まぶしい光に思わず目を閉じる。そして、ほほをなでる風の感覚にゆっくりと目を開けば、なぜか、どこかで見たような里家にぽつんと佇んでいた。
 不思議に思いつつも、陽子は里家の中を探索する。
 懐かしいような気がするのに、一体ここがどこなのか思い出せない。
 勝手に入っていいものかと悩みつつも、ひと気がないので仕方がない。恐る恐る堂に入り、ひょいっと房間を覗き込む。そしてそこに、血を流して倒れている少女を見つけて目を見開いた。
 陽子は瞬時に思い出す。ここがどこだったか。そしてこれがいつの場面なのか。
 「―――蘭玉!」
 これが水禺刀の見せる幻で、もはや駆け寄っても少女に息がないことは百も承知であったが、それでも陽子は駆け寄らずにはいられなかった。
 背をなでれば、幻とは思えないほど暖かな感触が返ってくる。乱れた髪を整えて、硬く握られたその手にそっと触れた。
 その手の中に何があるのか、陽子はわかっていた。
 あれから、御璽を押すたびに思ったのだ。御璽の朱印は民の血の色。己が名と民の血は常に重なってあるのだと。
 その時、目の前の景色がかすんだ。光が闇に溶けていく。
 「待って!」
 陽子は思わず声を上げたが、景色は無常にも消え去って、後には元の闇だけが残る。
 再び押し寄せる孤独。言いようのない不安。
 四方八方見渡しても、何も見つけることが出来ない。
 「誰か!」
 陽子は叫んだ。叫んだつもりだったが、辺りに声は響かなかった。
 「誰かいないの!」
 もう一度叫んだが、やはり声は響かなかった。
 もうだめだ。この闇から逃れられない。
 陽子はあきらめて目を伏せる。その時ふと、耳が何かを拾った気がした。顔を上げて耳を澄ます。
 「―――――い」
 やっぱり聞こえた。
 「たん――――……えい」
 今度は確実に音を拾って、そちらを見据えた。
 「私はここだ!」
 驚くほどに声が響いて、陽子の意識は一気に覚醒した。


 「丹英!」
 目を開けると、己を心配げに覗き込む一対の瑠璃の瞳が飛び込んできた。汗ばんだ額に、銀の髪が張り付いている。その顔色はどこか蒼く、陽子が知っているよりも少し痩せたように見えた。
 「大丈夫?顔色が悪い」
 陽子が心配げに言えば、己を覗き込んでいた青年は思わず顔をしかめ、近くからはくすくすと笑いが漏れてくる。
 首を動かしてそちらを見れば、巌堅と李郁の姿があった。
 「……それは、俺の台詞じゃないのか?」
 「まあまあ、紫琉さん。意識が戻ったばかりの人に当たらないでくださいよ」
 李郁がそう言って近づいてきて、陽子に椀を差し出した。
 「とにかく意識が戻ってよかった。薬です。飲めますか?」
 陽子は頷いて、身を起こす。ひとりでも何とか起き上がれそうだったが、紫琉がさりげなく身を支えてくれた。
 「苦いですけど、ちょっと我慢してくださいね」
 その言葉どおりの苦さに、陽子は思わず顔をしかめた。それでも全部飲んで椀を返す。めったに病気などしない神仙だから、薬を飲むのも実に久しぶりだった。
 「傷はどうです。痛みますか?」
 その質問に自分の体を見回せば、あちこちに治療の跡がある。もっていた衣服を切り裂いて、包帯代わりにしてくれたのだろう。
 「たぶん、大丈夫。随分世話になったみたいだな。礼を言う」
 「お礼なんて。僕らの方が言うべきじゃないですか?」
 「まあ、そうだな」
 李郁の言葉を受けて、巌堅が頷いた。
 「しかしお前はとんでもない奴だな。あいつを一人でやっちまうとは」
 その言葉に陽子は少し動揺する。
 実は、とんでもないことをやってしまった記憶がある。
 すべてを詳細に覚えているわけではなかったが、それでも残っている記憶の断片をつなぎ合わせれば、そういうこと、にしかならない。
 指にはきっちりと、記憶にある指輪がはまっていた。
 「……その、実はよく覚えてないんだ。手が痺れて、もうだめかなーって思ったような気がするところまでは記憶があるんだけど」
 「お前を助けに戻った紫琉の話では、お前がやったらしいぞ」
 その言葉に紫琉を見れば、ちろりと顔を上げた紫琉と視線が合って、ふっと反らされた。
 「あんな奴とやり合って、その程度の傷ですんで運が良かったな。でも、運が良かっただけだぞ。もう二度とするな」
 紫琉はどこか不機嫌にそう言うと立ち上がり、「水を汲んでくる」と言い放って、四人が集っていた空間から出ていった。その段になって、自分が寝ていた場所がどこかの洞窟らしいことに気がついた。
 その背を目で追って、李郁が笑った。
 「紫琉さん。本当に心配してたんですよ。傷だらけで意識のない貴女を抱えてきて、僕にすごい剣幕で手当てをしろと。自分のほうが倒れそうな顔色で」
 「……それは、やっぱり随分世話になっちゃったな」
 「それにしても、あれだけの怪我をしておいてその元気とは、恐れ入る」
 「だから、人より丈夫だって言っただろう」
 「そうだったな」
 陽子は言って、鞘につけていた玉をはずした。一番痛む肩に当てれば、すうっと痛みが引いていく。
 「それは?」
 「便利道具」
 短く答えれば巌堅が、怪訝そうに片眉を上げたので、陽子は笑った。
 「傷の治りを早めるんだ」
 「そんなものがあるのか」
 「実は、空腹もしのげる」
 それはさすがに冗談だと受け取ったのか、巌堅はわずかに肩をすくめただけだった。


 現在までの状況をまとめれば、どうやら陽子は一日半ほど意識がなかったようである。現在いるのは奇岩地帯の終わりのほうで、そこに偶然見つけた洞窟にいるらしかった。
 さらに運がよいことに、近くに水が沸いている場所があったらしく、そこから汲んできた水によって、血だらけだったはずの陽子の体はきれいに清められており、べたつく嫌な感じはなかった。男ばかりのこの一行で、一体誰がそれをしたのかというのは気になるところだが、随分昔に助けられた時のことを思い出し、それも今さらだなと陽子は思った。
 「で、今からどうするんだ?」
 陽子は一行に問う。確か、行くか戻るかで悩んでいたはずだ。紫琉が何事か決意して、立ち上がった時にあいつに襲われたのだ。
 その陽子の問いに、紫琉がひとつ息をついて答える。
 「決まっているだろう。蓬山に行くんだよ。俺は王になるんだからな」
 「―――紫琉」
 「俺は欲張りだからな。何でもかんでも手に入れて、それで玉座も背負ってみせる。幾万もの命を守るために百を犠牲にすることもあるとお前は言ったが、例えそうだとしても、俺はそれを一でも減らして見せる。得られるものが一でもあるなら、俺はそのための努力を惜しまない」
 その答えに陽子は微笑んだ。
 そんな陽子をまっすぐに見つめて、紫琉はびしっと言い放つ。
 「俺は絶対登極する。だから、必ず即位式に来いよ!」
 至極まじめな紫琉のその表情を陽子は一瞬きょとんと見返して、そして笑った。
 「わかった。約束する」
 こぼれた笑みは、三人が今まで見たことがないくらい晴れ晴れとしたものだった。

 
 

  
 
 
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