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 臨艮の港を出た船は、その日の夕刻、何の問題もなく対岸の艮県の港に着いた。
 前方はすっかり金剛山によって遮られており、空はまだ微かに夕暮れの色を残していたが、港の街は金剛山の作り出すその長い影に飲まれて沈んでいた。
 他よりも早く夜が訪れるこの街に、船の到着を知らせる鐘が地を這うように響く。
 初めての者はその常ならぬ雰囲気に飲み込まれて押し黙り、慣れた者はいつものようにただ黙々と下船するので、船上は今までになく静寂に包まれた。
 そんな中で一人、場違いにのんきな声を上げる者がいる。
 「いや〜、やっと着いた。船の旅ってのもなかなか乙なもんだな」
 道程の半分以上は甲板上で昼寝に徹していた紫琉が、到着を知らせる鐘の音で目を覚ましたのだ。
 「波に揺れるのが妙に心地よくって、昼寝にはもってこいだ。……って、巌堅。何でこんなに暗いんだ?」
 「金剛山が夕日を遮るからだ。降りるぞ。さっさとしろ」
 ちらちらと投げられる視線に居心地の悪いものを感じながら、巌堅は吉量をつないでいた縄を解きながら紫琉を促す。
 「こいつがいるから、いい厩舎のある舎館じゃなけりゃならん。急ぐぞ」
 巌堅は言いながら、さてどの舎館にしたものかと悩む。
 朱氏は本来剛氏の真似事などしない。人に雇われないことを誇りにしているからだ。
 出来れば昇山者に雇われたなどとばれたくはないが、この街に何度も来た事がある巌堅は、生憎と知り合いも多い。基本的に騎獣を連れているので、厩舎のある舎館といったらどこも馴染みだ。
 ―――くそっ。ならいっそより親しい所に行って、事情を全部ばらしたほうが清々するか。
 巌堅はやけっぱちになりながら、わき目も振らずに目当ての舎館を目指した。
 広途に喧騒が上がったのは、その時であった。


◇     ◇     ◇


 広途に出来た人垣の中心で、もめているのは二人の男であった。一人はやたらとがたいのでかい男で、もう一人はまだ子どもといっても良いくらいの少年であった。
 男が、孟極の手綱を握っている少年になにやら怒鳴りつけている。聞けばどうやら男は、自分の孟極をこの少年に盗まれたと主張しているようだ。
 ―――あれは
 喧騒に足を止めた陽子は、輪の中心にいる人物を見やって軽く目を見張った。確か船で一緒だった少年だ。
 少年は船から孟極を連れていた。それを見ている者は多い。変な言いがかりをつける者がいるものだと思っていると、
 「ちょっと待ちなよ!」
 人垣の女が声を上げた。
 「そりゃその子の騎獣だろう。あたしゃ、一緒に船に乗っているのをこの目でちゃあんと見たよ」
 「そうだろうよ」
 女の声に男がははんと笑った。
 「俺はそいつに臨艮の手前で盗られたんだ。やけに人懐っこく近寄ってきて、騎獣に触らせてくれとか言うから怪しいと思ったんだ」
 「ふざけるな!」
 つかまれた腕を振り払うように身をよじりながら少年が叫ぶ。が如何せん、相手はがたいのでかい男。がっちりとつかまれた腕は、到底振り解けそうにない。
 「ふざけているのはそっちだろうが!こっちにゃ、ちゃんと証書もあるんだぜ!」
 男は懐から書面を取り出し、周囲の人たちに見せるように広げてみせた。
 「孟極が俺のもんだって証拠だ」
 役所の判だってちゃあんと押してあるぜ、と広げられた書面を人々が覗き込む。確かに朱印が押してある。人垣にざわめきが起き、どうやら男の言い分のほうが正しいようだ、と人々が顔を見合わせる。
 だが、その様子をどこか冷めた目で見つめながら、陽子は薄く笑った。
 確かに証書らしき物があって朱印が押してある。しかし男がぴらぴらと振るものだから、誰にもしっかりとは見えない。
 ―――あれは、わざとだ。
 激昂して自然とそうなっているように見せて、おそらく芝居だろう、と陽子は思う。よくよく観察すれば、男の腕の振りが不自然だ。しかし陽子は、男のそんな下手な芝居よりも、たったそれだけのことでころりと騙される観衆の方がおかしかった。
 「これで悪いこたぁできねえって判ったろう。素直に返しな」
 男はそう言って少年を突き飛ばした。軽い少年の体は簡単に吹き飛ばされて、地面に思い切り尻餅をつく。
 その様子を眺めながら、これで騎獣をとられて終わりかな?と陽子はあくまで他人事に考える。おそらく猛極はあの少年のものだろう。そういえば黄海に入らずに艮で狩りをする悪辣な者達がいると聞いたことがあるのを思い出す。しかし、助ける気など毛頭なかった。ここはいわゆる黄海の門前町。すでに弱肉強食の前哨戦は始まっている。
 しかし意外にも少年は、不敵な笑みを口元に浮かべてみせた。
 「なるほど。あんたは、こうやってこの街で狩をする腑抜けな猟尸師というわけだ。黄海に入るのが怖いか!」
 「何だと!」
 「事実だろう!」
 「素直に返せば許してやろうと思ったが、どうやら痛い目にあいたいようだな!」
 男がこぶしを振り上げた。
 今度こそ終わりか、と思ったその時、
 「そこまでだ」
 突如、二人の間にひとりの青年が割って入った。船で一緒だった、吉量を連れていた青年だ。
 陽子は、へえ、と心の中で呟きをもらす。この青年が割って入ってきたのが、少々意外であったのだ。何せ、腕っ節が強そうには見えない。腰に短剣を差してはいたが、随分と立派な装飾を見ると、実用というより単なる装飾品のひとつだと思われる。
 「何だ、てめえ」
 「平和的に解決を図る手伝いをしようと思ってね」
 割って入った青年は、あっさりとそう述べた。
 「人が殴られるのを見るのは好きじゃないもんで」
 「だったらどっか行け!てめえにゃ関係ねぇ!」
 「殴られるだろうと判っているのに、放置するのはもっと好きじゃない」
 「大体、貴様。何者だ?」
 「人に名を尋ねるときは、まず自分から名乗るのが礼儀だと思うが?」
 「勝手に割り込んでおいて、何ほざいてんだ!」
 男の恫喝にも動じる様子もなく、青年は、「ま、それもそうかな」と肩をすくめておどけてみせる。
 青年のその素振りは、わざと男を煽っているのか?と思えるほどだ。
 案の定、青年の態度に男の堪忍袋の緒が切れる。
 「ふざけてんのか、てめぇ!」
 男はこぶしを振り上げて、青年に向かって勢いよく振り下ろした。
 殴られた!
 と、誰もが思ったが、青年はそれを身軽にひらりとかわした。その上、狙いがそれてよろけた男の足を引っ掛けて、男を地に転がすという芸当まで見せたのである。
 観衆に、おお!という歓声が上がる。
 「てめえ!」
 派手に転んだ男は、怒りに顔をゆがませて吼えた。それをふさぐように青年が声を張り上げる。
 覇気のある声が辺りの空気を震わせた。
 「我が名は、姜紫琉。関弓姜家の縁の者だ」
 その言葉に、周囲にざわめきが起きた。雁で姜家の名を聞いたことがない者などいない。影響力は絶大で、公共事業もいまや姜家が金を出さねば出来ぬという。実を言うと、この艮県の港の補修事業も姜家が金を出していた。
 とはいえ、姜家はあくまで官位など何もない一庶民。なのに観衆の中には、慌てて礼を取る者までいる始末。さっきまで勢いの良かった男の顔からも、さっと血の気が引いたようであった。
 そんな男に青年は、先ほどとは一転、涼しい顔をして続けた。
 「ゆえに首都州靖州の役人には、いくらか顔が利く。ちょうど良いことに、ここは一応靖州だ。府第で問い合わせをしてやろう。なあに、もう閉まる時間だが、姜家の名を出せば多少の融通はつけてくれる。すぐさま照合してくれるだろう。時間はかからないさ」
 どうする?と青年が問いかけると、男は観念したのか、もはや何も言わず脱兎のごとくその場を逃げ去っていた。
 その後姿を、集まった人々がぽかんとした顔をしながら見送る。「あれは一体、なんだったんだい?」という呟きが、その場にいた人々の心境を如実に物語っていた。
 その呟きを最後に、陽子は静かにその場を立ち去った。
 その背を青年が、じっと見詰めていることに陽子が気づくことはなかった。

 
 

  
 
 
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