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 巌堅が安全だと語った三日が過ぎた。一行はまだ森の中を歩いていたが、ちょうど良い頃合にちょうど良い草地に出るのは同じであった。その日も夕刻に広場に出た。合図がなくても止まると思うが、壮勇は広場に出るたびにいちいち号令をかける。一行には、それがもう当たり前になっていた。

 紫琉が、いつもと違う気配に目を覚ましたのは、その日の夜のことだ。なれぬ野宿はきつかったが、一日中歩きどおしで疲れ、夜はいつも泥のように眠り気づけば朝であった。なのにその日は、夜半にふと目が覚めたのだ。
 満月の夜。辺りは思いのほか明るい。
 なんだ?
 目が覚めたことが最初不思議であった。そのくらい唐突に意識が覚醒したのだ。紫琉はやや顔をしかめながら辺りをうかがう。しかしどこも変わった様子などない。広場で騒いでいた連中もすっかり寝静まって、辺りには静寂ばかりが流れている。
 そして、ふと気づく。丹英の姿がない。
 ――― 一体どこへ?
 周囲に気を飛ばせば、沢の方へ下って行く微かな気配がひとつ。それが丹英かも知れないと紫琉はゆっくりと身を起こした。
 後を追ったのは、何をしに行ったのか純粋に気になったため。それと、夜に女性が一人うろつく危険を考えたからだ。しかしふと、小用だったら、と足を止めた。そんなところを覗こうと思うほど紫琉は悪趣味ではない。
 だが、しばらく待っても戻ってくる気配がない。紫琉は意を決して、沢へと下りる道を進んだ。
 そして沢が見下ろせる場所まで来て、紫琉ははっと息を呑む。そこに、一糸纏わぬ姿で水浴びをする少女の姿があったのだ。
 一瞬で目に焼きついたそのあまりに神々しい姿。妓楼で、数え切れぬほどの女性達と交わってきた紫琉であるが、これほど美しい姿は見たことがないと思った。
 欲情すると言うよりも、その美しさにただただ見とれる。月光に光る水滴を纏って、その姿はまるで地上に舞い降りた天女のごとく―――。
 その時ふと、少女が顔を上げた。
 しまった、と紫琉が思うひまもなく、少女と目が合う。
 「―――紫琉?」
 「す、すまない!」
 少女の呼びかける声にはっとわれに返り、紫琉は慌てて背を向けた。
 何か言い訳をせねば、と悪戯に思考を空転させた紫琉の視界にきらりと光る物が飛び込んできたのはその時であった。

 「死ね!」

 草陰から突然飛び出してきた男は、短く叫んで紫琉に襲い掛かる。きらりと光ったのは男が手にしていた短刀。紫琉は反射的に身をよじった。一刀目はよけたが、足場の悪い土手の上。紫琉は思い切り体制を崩す。そこに容赦ない二刀目が襲いかかった。紫琉は腰に差していた短剣を引き抜いて男の短刀を受けた。
 痺れるような衝撃が腕に走り、紫琉は顔をゆがめて叫んだ。
 「何者だ!」
 「姜家に恨みがある者だ」
 その言葉に眉をひそめる。実際姜家をうらみに思っている者などごまんといるだろう。多くの商売敵を潰して大きくなってきたのだから。
 「俺を殺しても姜家はぐらつかんぞ。俺はただの放蕩息子だからな」
 「それでもいくらかは俺の気が済む」
 「―――なるほど」
 男の言葉に、紫琉は一瞬状況も忘れて苦笑した。しかし男の気休めに死んでやるわけにはいかない。繰り出される容赦ない攻撃を何とかかわしていくが、かわしているだけでは埒が明かない。
 男の短刀が紫琉の腕をかすった。
 にやり、と男が笑う。
 「くそ!」
 にじわりと広がる痛みに紫琉は顔をしかめた。しかしこんな状況でも、相手を殺すことに戸惑いがある。殺生などしたことがない。
 とにかく短刀を叩き落とせれば―――。
 紫琉は間合いを読みながら隙をうかがう。
 その時だった。紫琉の視界の端に何か黒いものが映った。とっさに身を反らしたのは条件反射に過ぎない。直後、紫琉が今までいたその空間を黒い影が横切った。その姿を確認して紫琉は驚愕に目を見開く。それは黒い犬のような姿をした妖魔だった。
 妖魔は、紫琉の目の前で男の頭を食いちぎる。身を反らさねば、食いちぎられていたのは紫琉の方だっただろう。まさに危機一髪。しかし危険が去ったわけではない。
 地に着地した妖魔は、身を翻すとひたと紫琉を見据えた。
 反射的に身構えたが、自分の腕程度で妖魔と渡り合えるとは到底思えない。しかし、簡単にあきらめて喰われてやるわけにもいかない。
 妖魔が再び跳躍した。
 紫琉は無我夢中で短剣を構える。その時、目の前が赤に染まった。
 「―――え?」
 一瞬、何が起きたのかわからなかった。目の前をふわりと舞った赤い髪。どさっと重いものが落ちる音を聞いたかと思えば、美しい翠玉の瞳が己を覗き込んでいた。
 「無事か?」
 「―――丹英?」
 その手を見れば、血を滴らせている剣。足元には真っ二つに切り裂かれた妖魔の死骸。
 まさか彼女が切り捨てたのか?と思ったが、状況を考えればそれでしかありえない。
 呆然とする紫琉の前で、丹英は手にした剣をぶんと振って露を払う。それだけで白刃は美しく光った。
 「急いで移動しよう。血の匂いに新手が来る」
 彼女の言葉に紫琉は漸く状況を飲み込んで、急いで巌堅たちの元へと駆け戻った。


 急げ!急げ!と広場は一気に騒然となった。
 さすがの巌堅はすぐさま状況を理解し、すばやく行動を開始した。李郁だけがよく状況を飲み込めず不安げにしていたが、「とにかく急げ」とだけ告げて荷をまとめさる。紫琉が丹英に目配せすれば、丹英はそれだけで心得たようにうなずいて、孟極に李郁を座らせるとその後ろに飛び乗って手綱を取った。同時に吉量に紫琉と巌堅が飛び乗る。二頭の騎獣はどの集団よりも早くその場を飛び立った。
 広場には、まだ状況を飲み込めずにただぽかんとたたずむ人も多かったが、そういう人々にかまっている余裕はなかった。
 「何が出た?」
 騎獣の足を緩めた巌堅らに声をかけてきたのは、剛氏らしき男。男は季徳と名乗った。
 「俺は知らん。後ろの奴に聞いてくれ」
 巌堅は答え、あごで紫琉を指す。巌堅が手綱を握っているのは、当然、道を知るのが巌堅だからだ。
 「黒い犬のような奴だ」
 「キキか」
 「さあな。名は知らん」
 「お前がやったのか?」
 「・・・・・・まあな」
 紫琉は、少し後ろを行く丹英にちらりと目を向けて答える。彼女が、そういうことにしておいてくれと言ったのだ。自分がやったと言うより不自然じゃないだろうからと。
 「へぇ、見かけによらず腕が立つじゃねぇか」
 「たまたまだ。運が良かった」
 「そうか。まあ、キキでよかったな。あれはまだ小物な方だ」
 それより、と男は巌堅に視線を向けた。
 「逃げるのはいいが、行き過ぎるのは危険だぞ」
 「わかってる。例の沼が近いんだろう?」
 「そうだ」
 二人は、二人にしかわからない会話を交わす。
 「どこまでなら大丈夫だ?」
 「もう少し先に広場がある。そこまでだ」
 「わかった」
 季徳の言葉に巌堅は頷く。それで男は離れて行った。
 取るものもとりあえず、後を追ってきた人々が広場までやって来たのは、巌堅ら一行が朝まで寝直そうとすっかりくつろいでいた頃だった。


◇     ◇     ◇


 翌朝、ちょっとした騒動が起きた。
 いつものように、行くぞ!と壮勇が号令をかけると、了悟という男が、ちょっと待ってくれ、と言い出したのである。聞けば何でも、昨日の広場に多くの荷を残しまたままだというのだ。
 了悟は商人。今回一番多くの荷と随従を持っており、天幕もかなり立派なものを持ち込んでいた。壮勇は了悟に招かれて、その天幕のひとつを借り受けている関係だ。しかし壮勇は、了悟の申し出にかなり露骨に顔をしかめた。
 多くの荷を持ち込むのは勝手だが、とっさに対応できないのは自身の責任。それで全体に迷惑をかけるのはいかがかと。
 「荷を取りに戻るなら勝手に戻ればよかろう。我らは先に行くから、後から追いかけてくれば良い」
 「そんな!」
 壮勇の言い様に、了悟は憤慨したように叫んだ。
 「都合の良い時だけ利用して、それが王たらんとする者の有様か!笑えるわ!」
 「何だと!時には小を切り捨て大を取るのが王たる者の務めだろうが。そもそも自分の荷の管理も出来ないお前こそ、王たらんとは笑える。国も民も抱えきれぬと、今のように投げ出すのか」
 「昨日のはあまりに急であったのだ!」
 「国政に急務はつきものだ」
 激しい二人の口論に、他の者はただ黙って成り行きを見守るしかない。壮勇に逆らって切り捨てられることを恐れる者たちは固唾を呑み、都合がよいからただ集団にくっついているに過ぎない者たちは、一歩離れてどちらかに転ぶのを待っている。
 「そもそも!」
 と了悟は声を上ずらせた。
 「そなたは師帥ではないか。師帥といえば民を守るのが職分のはず。本来の役目も果たさぬとはいかなることか」
 「それこそ笑止」
 壮勇はあきれたように笑みを浮かべた。
 「ここは雁国ではない。黄海だ。国の保護など届かぬところである。己の身は己で守るという覚悟もなくして立ち入ってよい場所ではない」
 「なればなぜこうして集団で蓬山に向かうか」
 「そりゃ臆病だからだろう」
 揶揄の声を挟んだのは季徳だ。その言葉に了悟が顔をしかめて振り返った。
 「臆病というならそなた達こそ臆病ではないか。黄海に詳しい剛氏のくせして、真っ先に逃げたのはそなた達であろう」
 「妖魔が出たら逃げる。それが黄海で生き延びる鉄則だ。もたもたして餌になりたくはないんでね」
 「そもそも昨夜は本当に妖魔など出たのか。影すらちらりとも見なんだぞ。我らをたばかっていらぬ騒ぎを起こし、楽しんでいるのではあるまいな!」
 「疑り深い奴だな。そう思うなら、今度から妖魔が出たと聞いてもその場に留まればいい。俺は別にそれでいっこうに構わん。いや、むしろありがたいかな。その場に餌がたんまりあれば、妖魔はそちらへ行ってくれる」
 「―――狗尾が!」
 了悟の怒声が広場に満ちた。

 

 
 

  
 
 
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