「その辺にしておけ」
季徳に殴りかからんと振り上げたその手を壮勇がつかんだ。
「自分の意のままにならぬからと駄々をこねるは子どものすること。そんな性根では昇山するまでもない」
「私は!」
了悟は、つかまれた手を忌々しく振り解きながら、再び壮勇に向き直った。
「黄海は人外の地。なればこそ協力し合って蓬山を目指すのが道理というものではないかと言っておるのだ。如何に天命を受けた王とてひとりで国を動かすわけではない。百官を導き協力して百姓を守るが王たる者の責務。なのに都合が悪いと切り捨てていくお前は、王になってもさぞ雁の民を切り捨てていくのであろうな」
「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志をしらんや、だ。百を守るために一を切る王の心中などお前には想像できるまい」
要約すれば「お前は小物だ」発言に、了悟はさらに怒気を深めた。
それを一歩離れたところで見守りながら、紫琉は呆れたように息をつく。
「あそこまでいくと、どっちもどっちだな。王の資質という名目で互いをののしりあっているにすぎん」
その言葉に、丹英がくすりと笑った。たしかに、と呟いて紫琉を見る。
「でも、彼らの言い分には互いに一理ある」
「・・・・・・まあ、そうかもしれないが」
「ところで」
と、丹英が問う。
「この場合お前は、壮勇の言と了悟の言どちらを取る?」
荷を取りに戻るという了悟を捨てていくのか、それとも待つのか。そう問いかけられて、紫琉はしばし迷って口を開く。
「俺は、壮勇の言を取るかな」
「しかしお前が王なら、了悟も守るべき雁の民だ。簡単に見捨ててしまうのか?」
「一を守るために百を犠牲にするなら本末転倒だ」
「一だから簡単に切り捨てるのか?」
紫琉をのぞき込む翡翠の色が深まった。
「では二なら、三なら?どこまでが簡単に切り捨てられる数だ?雁には三百万の民がいる。百の内の一が簡単に捨てられる数なら、三百万の内の三万は簡単に切り捨てられるということか?」
思いもしない鋭い言葉に、紫琉は思わず詰まった。さすがに三万を少ないとは思わない。
「―――では、お前は待つべきだと?」
「さて、それはどうかな」
丹英は、口の端に笑みを乗せた。
「巌堅によると、この先に水妖の住む沼がある。昼間近づくぶんには問題はないが、夜は一定の距離を置いておかないと襲ってくるという」
それは紫琉も聞いていた。先ほど聞いたばかりの情報だ。それもあるから、壮勇の言を支持すると紫琉は言ったのだ。巌堅が言うには、今がちょうどぎりぎりの距離らしい。そして早朝出れば午に問題の沼につく。同じ距離だけ先に進まないとまた危ないということになるから、つまりは夕刻ぎりぎりまで歩いて漸く危険から脱せるわけだ。ここで今了悟達が荷を取りに戻るのを待つということは、今日はもう出発は出来ない。丸一日を無駄にするということになる。
黄海では日を無駄にすることは出来ない。そもそもぎりぎりの荷物しか持って入っていないからだ。蓬山に辿り着く前に水や食料が尽きれば、飢えるしかない。たかが一日、されど一日。先にどんな状況が待ち受けているのかわからない。
葛藤する紫琉の心の内を読んだように、少女は意地悪い笑みを浮かべて言葉を続けた。
「王になればこの程度の葛藤はいくらでもあるぞ。一国を統べるのはそうたやすいことではない」
「やけに知った風なことをいう」
言われっぱなしに少々かちんときて、紫琉は強い視線を返す。だが少女は、少しも動じなかった。
「常識を言ったまでだ。お前が王ならこの場をどうするのだ?」
「……お前こそ、人に尋ねるばかりじゃなく、自分の意見を言ったらどうだ。お前こそ、お前が王ならどうするんだ」
紫琉の言葉に丹英は笑う。
「そんなもの。当然、巌堅に意見を求めるに決まっている」
「偉そうな事を言ったわりに他人任せか」
「違うな」
紫琉が口元に笑みを浮かべると、少女は意外なほど真面目な表情を返した。
「王は、一人で国を動かしているわけではないし、万能でもない。周囲に意見を求めるのは悪いことじゃないし、そのために信頼できる者を集めるのも王の務めだ。紫琉は今、信頼でき黄海にも詳しい巌堅をそばにおいているんだから、巌堅に意見を求めることはちっとも他人任せではない。しかし、すべてを巌堅に任せてしまうのは他人任せだ。それは王がすべてを官吏に任せてしまうことと同じ。王は官吏に意見を求めても、最後の決定権だけは手放してはならない」
存外に真面目な意見に、紫琉のみならず他の二人も目を見張る。
「紫琉は黄海に入ってからずっと巌堅にすべてを任せてしまっている。何かあれば巌堅が判断して、自分に指示を出してくるだろうと思っている」
「―――それは、俺は黄海について何も知らないからな。知っている者に任せるのが一番……」
言いながら紫琉は、丹英の言いたいことに気づいた。ちっと舌打ちして手を上げると、開きかけた少女の口を止めた。
「わかってる。だったら国政は知っているのかといいたいんだろう。確かに知らないからわからないからと、すべての判断を他人に任せていれば王として成り立たない」
「疑問をたずねるのは悪いことじゃない。知れば次に自分で判断する材料になる。でも、そういうものなのだろうと流してしまえば、いつまでたっても他人任せだ」
「―――初日のことを言っているんだな」
「それだけじゃないけど」
「……で、巌堅はどう思う?」
紫琉は少々顔をしかめたまま、巌堅に視線を向けた。どこか不機嫌になってしまうのは、考えれば確かに当たり前のことを指摘されるまで思い至らなかったせいだ。
「そうだな……」
紫琉の不機嫌な顔を見ながら、巌堅はつい苦笑が漏れた。気に入りの少女にこうもやり込められてさぞ立つ瀬がなかろうと、その心境を思いやる。
「俺だったら、荷を取りに戻れというな。確かに日を無駄にはしたくないが、先の方がまだ長い。荷がなけりゃ先々行き詰るのは目に見えていえる。そんな奴らを抱えていく方がぞっとする。だからといって別行動もいただけない。森を抜けた先は奇岩地帯だ。地上の視界が悪い割りに、上空からは丸見えになる。妖魔に襲われやすいんだ。当然、集団の方が見つかりやすいが、その分危険は分散される」
なるほど、と李郁が感心したようにうなずいたが、
「しかしそれじゃあ、後々相手を盾にしようと考えているだけじゃないか」
なんか納得いかん、と紫琉が顔をしかめると、巌堅が笑った。
「俺たちにとっては結果がすべてだ。どんなに奇麗事を考えたところで、依頼主が殺られりゃ意味がない。王もある意味そうじゃないのか?どんなに奇麗事を言ったところで民に安寧がもたらされなきゃ意味がない」
「巌堅の言うとおりだ」
丹英の言葉に、紫琉はむっつりと押し黙ったままだった。
◇ ◇ ◇
結局一行は、そこに留まることになった。
荷を取りに戻れるなら戻りたいと、了悟以外の者も言い出したからだ。置いて行かれては堪らないと荷を諦めかけていた者たちも、先の方が長いことを思い出したのだろう。我も我もと言い出せば、結構な数にのぼったのである。
もちろん先に行く者たちもいたが、全体の数から行けばわずかなものであった。
「やはり、得体のしれん奴だな」
木陰でのんびりと過ごしながら巌堅は呟く。今、横には紫琉しかいない。李郁が紫琉の腕の怪我を治療するために薬草を探しにいき、丹英はそれについて行ったのだ。といっても二人とも、視界に入る範囲内にはいた。巌堅が注意したこともあるが、あの娘も森に分け入る危険性を十分理解しているのだろう。眺めていれば、野草探しに夢中になりがちな李郁をうまいところで呼び戻している。
「丹英のことか?」
「ああ。やけに肝が据わっていて、妖魔に詳しい。頭も口も回れば腕も立つときている」
巌堅の言いように紫琉が訝しげな視線を向けると、それを受けて巌堅が口の端をくいっと上げて笑った。
「キキをやったのはあいつだろう?」
「―――なぜわかった」
「最初からわかってたさ。キキがいくら小物とはいえ、お前の持つ短剣でやれる相手じゃない」
「―――」
「ひょっとしたら、あの指導者をきどっているどっかの師帥さまのように、仙なのかもしれん。仙なら見た目通りの年齢じゃないしな」
「ということは官吏?」
「しらん。仙といっても色々あるんだろう?」
「そりゃ、官じゃない仙もいる。飛仙といえば大体そうだし……」
「ま、なんでもいいか。どうやら随分と頼りになりそうだしな。あのガキもなかなか拾いもんだったじゃないか。実はあいつが結構野草を取ってくれるおかげで、食材にかなり余裕がある。俺たちにしてみれば、一日のんびりしたところで予定通りってとこだな」
「使える人間が集まるというのは賢帝の証さ」
その思考回路には感心する、と巌堅はからからと笑う。
直後、遠くから紫琉を呼ぶ声がした。視線を上げれば、李郁が勢いよく手を振っている。
「紫琉さーん。見つかりましたよー」
それに軽く手を挙げて応えると、今度は手招きされた。
「下の沢に行きましょう!傷口を洗ってから手当をします!」
その言葉に紫琉は立ち上がる。
「ということだ、ちょっといってくる」
「ああ」
巌堅は、軽く頷いてその背を見送る。
なんだかんだで、あとの二人がいるから自分たちはうまく回っているのかもしれん。そんなことを思えば、あの三人がそろった事に何か意味があるのかもしれんな、と巌堅は蒼穹の空を眺めながら、ぼんやりとそんなことを思った。
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