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 「 記憶 3」
 
     
 

 王の記憶が失われてから三日が過ぎた。金波宮は、表面上は普段と変わらない様子を見せていたが、王の変異を知る側近らは、原因究明と事態改善のため秘密裏に動いていた。
 ここまでの調査で、事件発覚日の未明、王宮内に変わったことなど何もなかったことは判明していた。王がこっそり寝所から抜け出したという形跡も証言もなかったし、寝ずの番をする衛士らも何らかの不審を感じたということもなかった。
 現在は、記憶を封じる呪についての調査と、御物や食料庫に神経を麻痺させる食材が混入していないかの調査を進めていたが、未だ手がかりはつかめていない。
 彼らの唯一の救いは、陽子が落ち着いて現在の状況を受け入れていることだった。時折考え込む様子を見せるのはしょうがないとしても、笑顔も見せるし、鈴や祥瓊とも「また友達になりなおせばいい」とすぐに打ち解けた。
 浩瀚は時間の許す限り陽子のもとを訪れて、一緒の時を過ごし、彼女の疑問に答えていた。陽子はいろいろなことを聞きたがった。この国のことや他国のこと、人々の日々の生活や習慣について。
 陽子は会話の中で何気なく質問してくる。ごく自然に、さりげなく。だが浩瀚は気がついていた。彼女が肝心なことは何も問わないことを。
 自分がいつからここにいるのか。
 ここで何をしていたのか。
 毎日寝起きしているこの場所が何なのか。
 そういった質問は、意図的に避けている感じでさえある。
 まだ気持ちの整理がつかないのかもしれないし、運命と対峙することを無意識のうちに恐れているのかもしれない。
 だから浩瀚も、肝心なことはまだあえて言わないでいる。
 こちらの国の仕組みと王と麒麟の存在。ここが金波宮と呼ばれる慶国の王宮であり、ここの主である王とは貴女のことなのだと。
 だが、いつまでも触れないでいるわけにもいかないだろう。
 もう、三日もたってしまった、と浩瀚は思う。
 そろそろ朝議に王の姿がないことを不審に思う輩が出て来るだろう。特にあの重大案件が宙に浮いているこの時期に王の姿がないことを。
 あの案件はどんな判断を下すにせよ、早急な結論が必要だ。放置はできない。それをすれば王への信認は一気に低迷し、朝は乱れに乱れるだろう。
 「記憶を取り戻してくださることが一番なのだが……」
 まだ朗報は何もない。
 だがそれでも、そろそろすべてを話し、状況や立場を理解してもらい、少なくとも朝議に姿を見せる必要がある。
 とにかくまずは、玉座に姿を見せていただくだけでいいのだ。
 しかしすべてを知った上で彼女が拒否したら。それを思うと浩瀚は恐ろしくてたまらない。
 話すべきなのか、話さざるべきなのか。
 浩瀚は長いこと逡巡した。
 そして、王の記憶が失われて五日目。未だ朗報の得られない浩瀚はついに決断する。
 「すべてをお話し申し上げよう」
 しかしそれは、どの目が出るかわからない、完全な賭けであった。


◇     ◇     ◇


 陽子のもとに浩瀚が姿を見せたのは、夕餉の後のことであった。
 「大事なお話がございます」
 そう告げる彼の表情がどことなく硬くて、陽子は反射的に身構えた。
 浩瀚の話は、こちらの世界の仕組みから始まった。
 十二の国と十二の王。天の仕組みと神獣麒麟の存在。王の選定、黄海、蓬山、そして蝕。それらの話を浩瀚は、端的にわかりやすくゆっくりと話した。その話を聞きながら陽子は、驚きつつも己の知る常識とあまりにかけ離れた話にどこまでが事実なのかと疑いたくなったが、浩瀚の険しく真面目な態度はとても冗談を言っているようには見えなかった。
 「……では、私はその蝕というものに巻き込まれてこちらへ来たということなんでしょうか」
 ひと通りの話を聞き終えて、陽子は浩瀚に問うた。
 彼の話をまとめるとそういうことになる。だが、浩瀚はきっぱりと首を振った。
 「いいえ。あなたは台輔がお迎えにあがったのです」
 「台輔……。麒麟のことですね」
 「そうです。麒麟は生国に下ると宰輔という地位に就きます。ただし宰輔とお呼びするのを憚って台輔とお呼びするのが慣例です。麒麟は王気を辿って王の所在を知ることができます。台輔も王の気を辿って蓬莱に赴き、あなたを見つけたのだと聞き及んでおります」
 「麒麟が……なぜ私のもとに?」
 「麒麟は、天命を聞いて王を選びます。王以外には従わず、決して王以外の者の前で膝を折らない」
 「その麒麟が、なぜ私を……」
 陽子は言いながら語尾が震えた。
 脳裏に浮かぶ可能性。しかしそれはとても信じられなくて、反射的にその考えを打ち消した。
 二人しかいない室内には、妙に張りつめた空気が漂っていた。身じろぎすることさえためらわれる緊迫感。吐息による振動でさせそのぎりぎりに保った均衡を崩し、何かとんでもない事態を引き起こしてしまいそうで、陽子はただ息をつめて浩瀚を凝視した。
 だがそのもろい均衡は、浩瀚の吐き出す言葉によってあっけなく崩れ去る。
 「天命を得た者を捜しだし契約をかわすためです」
 再び空気が動く。容赦なく目の前に突き付けられた言葉を陽子は無意識に振り払おうとした。しかし、浩瀚の強い視線がそれを許さなかった。
 陽子はごくりと唾を呑み込んで問う。
 「―――契約?」
 「王となるための契約です。麒麟と契約を交わせばその者は王となり、玉座に座って国を治めていくことになります」
 もう、おわかりでしょう?そう言わんばかりの視線が陽子をまっすぐに見た。
 「……あなたは慶国の王なのです」
 「待って!」
 最後の抵抗とばかりに陽子は叫んだ。
 「私は単なる女子高生です」
 「王というのは玉座に就くまでたんなる人。王は家系では決まらず、性格とも外見とも関係がない。ただ、麒麟が選ぶかどうか、それだけなのです」
 「……でも」
 「台輔はあなたを選ばれた。それは間違いのない事実です。―――例え記憶を失われても我々の主たるお方は、貴女さま以外におられないのです」
 浩瀚は跪礼した。
 「本来なら主上には叩頭礼をもって崇敬の念を示すべきところではありますが、慶国では貴女さまが初勅にて伏礼を排しましたゆえ、跪礼にてお願い申し上げます」
 浩瀚は深々と頭を下げた。
 「どうか慶をお見捨てにならず、朝臣百官と三百万の民に慈愛をお注ぎくださいませ。慶には貴女さまが必要なのです」


◇     ◇     ◇

 翌日の朝議には、六日ぶりに王の姿があった。
 陽子にとってみれば何もかもを納得して受け入れたというわけではなかったが、浩瀚の懇願は切実に見えたし、とりあえず座っておけばいいという朝議の場で誰も違和感を覚えないのならば浩瀚の話を裏付ける証拠になるような気がした。
 だが、ただ座っておけばいいといわれても、さすがに緊張する。
 「何を言われても無視してもらって結構です。王とは、本来直接臣らに言葉をかけるものではございませんので。後ははったりでも虚勢でも、とにかく堂々となさってくださっていれば結構にございます」
 朝迎えに来た浩瀚は、再度陽子に言い含めた。
 「本当に座っているだけでいいんだよね」
 「恙無いお姿をお見せになるだけでよろしゅうございます。後は私が何とでも致しましょう」
 今はその言葉を頼るしかない。陽子は頷いて、浩瀚に導かれて朝議の場へと足を踏み入れた。
 銅鑼がなる。御簾が上がると号令に合わせて集まっていた人々が一斉に礼をとった。立派な身なりの大人たちに深々と礼をされて陽子は落ち着かない気持ちになったが、何とか平静を装った。
 浩瀚の司会で始まった会議は、時折紛糾する場面もあったが、おおむね恙無く進行した。何度か陽子の様子を窺うように視線を投げかけてくる者がいたが、特別何かを言ってくることはなかった。
 「ではこれにて、今日の朝議は終了する」
 浩瀚が締めの言葉を吐く。どうやら無事に終了したらしい。
 陽子は内心ほっと胸をなでおろし、席から立ち上がった。
 だがその時―――
 「お待ちくださいませ」
 ひとりの男が、険しい表情で陽子を呼びとめたのである。


 どきり、として陽子は声を上げた官吏を見やった。男の表情は険しくてどこか陽子を責めているようであった。
 激しい視線がまっすぐに陽子を見据える。その姿はいまにも飛びかかってきそうな獣のようで、陽子は反射的にすぐにでも逃げだしたい衝動に駆られた。
 その男が鋭く問う。
 「いま慶国において最も重要といえる例の件、一体いつになったらその処遇を決められるおつもりでしょうか」
 陽子は全く話が分からずに、動揺しながら浩瀚を見た。
 「久しぶりにお姿をお見せになったからには、今日こそは何かお言葉があるのかと思っておりましたのに。まさか主上は目を閉じていれば勝手に事態が収束するとでも思いですか」
 「確かに重要なのは承知しているが、簡単に決められる問題ではない。いまここでの返答は出来かねる」
 動揺を隠せない陽子の代わりに浩瀚が答える。すると男は、鋭い視線をさらに鋭くして浩瀚を睨みつけた。
 「冢宰に問うているのではない!」
 会場がざわめく。空気が一変した。
 「控えよ大司馬。御前である」
 「であるからこうして問うているのではないか。主上!ご返答いただきたい」
 「越権である!」
 「冢宰こそ越権ではないのか!主上のお言葉を奪うつもりか」
 「私ごときが主上から何かを奪えるものか」
 「ないものねだりは人の業だな。無自覚ならなお悪い」
 「私を愚弄するつもりか」
 「冢宰の職掌は六官を纏めることであって、主上のお傍近くに侍ることではあるまい」
 「両名とも静まれ!」
 きざはしの上から空気をびりりと震わせる一喝が降り注いで、二人ははっとしたように玉座を仰ぎ見た。そこにすっくと立った少女の表情は険しくて、睨みつけるように二人を見下ろしていた。
 「いい大人が見苦しい。口喧嘩ならよそでやってくれ」
 「これは見苦しい姿をお見せしてしまいました。どうぞご寛恕くださいませ」
 浩瀚は深々と頭を下げる。大司馬もそれにならった。
 その姿を見下ろしながら陽子は大きく息を吸った。
 「あなたの思いはわかったが、すぐに返答はできない。もうしばらく待ってほしい」
 精一杯の虚勢を張って陽子はそう言うと、ふるえそうになる足を励ましながらその場を後にしたのだった。

 
 
 
 

…つづく

 
 
     
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