「私にはまだ、知らなければいけないことがあるらしい」
足早に去った彼女を追っていくと、少女はその足を止めて振り返った。その力強い瞳に浩瀚ははっとした。
―――彼女は王だ。
記憶を失おうと、それが変わることはない。
当然と言えば当然のその事実を浩瀚は改めて目の当たりにした思いだった。と同時に、自分の浅慮を恥じる。
自分は彼女を失うことを恐れるあまり、本当に大切なことを忘れてはいやしなかったか。
「すべてをご説明申し上げます。どうぞ、こちらへ」
浩瀚は陽子を積翠台へと案内した。
「事の始まりはひと月ほど前のことです」
室内に淡々とした声が響く。
内殿最奥の書房の一郭。積翠台には久しぶりに王と冢宰の姿があった。
「瑛州北部の里で疫病が発生したのです。疫病は見る間に里全体に広がり、半月もたつ頃には里の半分の者が死にました」
「……半月で半分も」
陽子の表情が曇る。
それをちらりと見やって浩瀚は続けた。
「報告によると、初期症状は風邪のような感じらしいのですが、次第に全身に発疹ができそこから膿が噴き出して七日の内に死に至るとか。―――どんな薬も効き目がないようです」
それで里を管理する族里は、疫病の伝播を防ぐべくすぐさま里を封鎖した。しかしその甲斐なく近隣ふたつの里で疫病者が出た。
「それで県正が、これ以上の疫病の伝播を防ぐべく疫病発生地を含む族ごとすべて封鎖したのです」
その封鎖は文字通りの封鎖であった。人の出入りはもちろん、物資の運び入れさえ完全に遮断された。こちらでは疫病が発生するとよく取られる手法なのだが、とにかく発生地を封じ込めて病気の拡大を防ぐのだ。だがこれでは当然、中にいる者たちは見殺しになる。
その他多くの民を守るための仕方ない犠牲。しかし―――
「当然まだ疫病にかかっていない者も封鎖地区内に閉じ込められました。彼らは、これから疫病にかかって死ぬか飢え死にするか、とにかく明るい未来などありません。それで何とか封鎖地区を脱出しようと試みる者も多いのですが……」
そういった者が他に疫病を運ぶ可能性は大きい。封鎖地区の管理は厳しく、脱走者への処罰は容赦なかった。見つけ次第射殺されたのだ。捕縛すれば今度は衛士らが感染する可能性があるために取られている処置で、ゆえに射殺した遺体に触れることも出来ず、結果封鎖地区周辺には多くの遺体が転がることになった。
考えるだけで悲惨な光景だ。
「すべてを遮断して閉じ込め、中の者たちが息絶えるのを待つのは拷問に等しいことです。それに封鎖だけでは疫病が他に広がる可能性をいつまでも抱えることになります」
よって官吏の中に積極的に事態を解決すべきだと主張する者たちが現れた。
つまりは、封鎖地区に火を放ち、すべてを燃やして浄化してしまうべきだ―――と。
「……それって」
陽子ははっと息を飲んで浩瀚を見た。
その視線を受け止めて、浩瀚はゆっくりと頷いた。
「疫病にかかっている者もかかっていない者も、死んでいる者も生きている者も、老人だろうと赤子だろうと関係なく里に火をかけるということです」
「それだけは駄目だ!」
反射にも等しく陽子は叫んだ。その叫びは、叫んだ本人がぎょっとするほど鋭く室内に響いた。
「―――貴女さまは、以前もそうおっしゃられた」
鋭い余韻を中和するかのように浩瀚は静かに答える。その意外なくらい静かないらえの内にあるのは、安堵なのか落胆なのか。陽子は男の胸中が急に気になって不安な視線で浩瀚を見やった。
「……それでそのまま事態を放置していた?」
「いいえ」
浩瀚は首を振る。
「何か解決策があるはずだと、もう少しだけ時間が欲しいと。―――貴女さまは貴女さまなりのやり方で事態を解決する方法を見つけようとなさっておられた」
しかし、陽子はただただ苦悩する日々を重ね、そしてそのまま記憶を失くしてしまったのだ。
「なぜ貴女さまが記憶を失ってしまったのか。色々調べてはおりますが皆目見当もつきません。可能性のひとつとして、嫌なことを忘れるために自ら記憶を封印することもあるのだという話もでましたが、私はそうは思いません」
少女は確かに苦悩し、迷っていた。
しかし彼女はいつだって王であり、その自覚を失くしたことはなかった。己に課せられたものを受け止め背負うだけの覚悟を持っていた。
確かに今回起きたことは、彼女が登極して起きた諸問題の中でも難題であり、目をそむけたくなるような惨事である。どんな決を下すかは非常に慎重な判断が必要であったし、己が血にまみれる以上の苦しみを味わうことになるかもしれなかった。
しかしそれでも、簡単に尻尾を巻いて逃げ出すような少女ではないことを浩瀚は知っている。
不安に震えながらも己の両の足で大地に立ち、涙を流しながらも現実から目をそむけず、その手に血の滴る剣を握っていても慈悲の心を持ち続ける、そんな少女だからこそ自分がこんなにも惹かれてやまないのだから。
「―――むしろ目をそむけたかったのは私の方かもしれません。貴女さまが心を痛め、判断に苦悩し、多大なる負担を背負わせることになるとわかりきっている報告など、できることならしたくないと―――」
口に出してみて浩瀚は、改めてその通りだと思った。自分は、彼女を悩ませることに怯んでいたのだ。だから彼女が記憶を失ったとわかってから昨日まで事実を打ち明けることを先延ばしにしてしまったのだ。
色々理由をつけて現実から目をそむけていたのは自分の方ではないか。
「この問題は確かに大司馬の言う通り、現在最も重要な課題であり、早急に結論を出さなければなりません。……この六日の間もなんとか貴女さまの御心に添う解決策がないものかと私なりに調べてはみましたが、名案と呼べるものは何も得られませんでした。後は貴女さまがどう判断なさるか。その御心しだいかと」
「……本当に二者択一しか選択肢はないんだろうか」
このまま封鎖を続けて里の者が息絶えるのを待つか、火をかけて皆殺しにするか。消極的殺人か積極的殺人か。どちらにしろ殺すことでしか解決できないのだろうか。
「もし自分が里に閉じ込められている立場なら、どちらも嫌だ。特にまだ、自分が病気にかかっていなかったら、国の対応を恨むと思う。……でも、近くの里に住んでいるなら早くこの問題を解決させてほしいときっと思う。自分たちのところに疫病が広がる前に早く処理してほしいと。―――それが多くの人の命を犠牲にすることだとわかっていても」
難しいな、と陽子は呟く。
しかも、誰でもない自分が決めなければいけないことだと思えば、何もかも投げ出して逃げ出したくなる。過去の自分は本当に、王としてこんな難しい問題を処理していたのだろうか。
とても信じられない。
今からでも今までの話は全部嘘だと言ってほしいくらいだ。
「もう少し、もう少しだけ時間が欲しい。今ここでは決められない」
◇ ◇ ◇
その日の夜も浩瀚の書房には遅くまで明かりがついていた。
ただしその手にあるのは国政に関する案件等ではない。随分と古びた書物で、慶国内の各地から集められた伝承等をまとめた物語集であった。
寝付けぬ夜の慰みにと眺めているわけではない。昔がたりの中に疫病に対処するヒントが隠されているかもしれないと浩瀚は淡い期待を抱いたのだ。
疫病は、ある間隔を持って過去何度も人々を襲ってきた。恐ろしい疫病は擬人化あるいは妖魔化され物語となって人々に語り継がれていくことが多い。その話の中で人々が、擬人化や妖魔化された疫病とどう戦い、どういう結果を迎えたのか、それを知ることで何か手掛かりがつかめるかもしれなかった。
物語の中で人々は、ある時は完全に敗北し、ある時は救世主に救われ、ある時は賢者に知恵を授けられた。
「里を荒らす妖魔を焼いた剣で切った」とあれば、恐らく患部を焼いた刃物で切りおとして病を治療したのだし、「清水に弱い」魔がいればきっときれいな水で体を清めて病を治療したのだ。聞きかじり程度の知識ながら、知っている病の治療法から病名も想像できる。
だが、今回発生している疫病と同じまたは類似のものと思える話は見つからない。
民を見殺しにすることを望まない主にわずかなりとも光明をもたらすことができるならと、ほんの少しの期待をもってこんなところまで手を伸ばしてみたが、最後のあがきもどうやら無駄だったようだ。
浩瀚はひとつ息を落として本を閉じる。
今頃彼女は眠れぬ夜を過ごしていることだろう。
それを思えば胸が痛んだ。
―――自分に彼女の心をやすくするだけの知識や知恵があれば。
力不足が歯がゆかった。
その時、ぬるい夜風が吹きこんで灯火が大きく揺れた。浩瀚は窓を閉めるべく立ち上がる。そして窓辺に立ったその時、闇夜に揺れる影を見た気がした。
緊張が走る。
この時間に、こんな場所をうろついているなど曲者しかあり得ない。浩瀚は五感を研ぎ澄まし、相手を探った。男なのか、女なのか。一人なのか、複数なのか。何が目的で、どんな武器を所持しているのか。
しかし相手は微塵ほどの殺気もなく、ゆらりゆらりとその存在を確かなものにしながら真っすぐに窓辺へと歩み寄ってくる。そしてついには、窓から漏れる明かりの下にその姿を晒した。
浩瀚ははっきりと相手を確認し、そして驚きに目を見開いた。
そこには何と、襤褸を纏いつつも力強い光をその双眸に湛えた主君が、口元に笑みを浮かべて立っていたのである。
「―――主上」
浩瀚が半ば呆然としてつぶやくと、少女はより一層口もとにはっきり笑みを乗せた。その笑みはどこか苦笑を孕んで、ばつが悪い時に彼女が見せる笑みそのままだった。
「やあ、浩瀚。こんな時間に悪いな。だが、ちょっと話があるんだ」
その様子は、まさしくいつもの彼女。浩瀚はどこか釈然とせぬものを抱えたまま呟く。
「……記憶を取り戻されたのですか?」
「記憶?」
きょとんと彼女が浩瀚を仰ぎ見る。一瞬怪訝そうな顔をして、何かに気づいたように表情を緩めた。
「ああ、そういうことになっていたのか」
「主上?」
「ええと、説明する。入ってもいいか?」
少女の問いかけに浩瀚は頷く。走廊に面した戸を開けて、彼女を迎え入れた。
浩瀚にはわけがわからなかった。
記憶を取り戻したのだとしてもなぜこんな恰好をしているのか。まるで忍びで市井に降りていま帰って来たばかりの時のようだ。
「ところであの問題はどうなった?」
「あの問題、というと例の疫病のでございましょうか」
「そうだ」
「あれは、どうもなにも。今日の朝議で大司馬に早く結論を出せと迫られるほど何も進んではおりません」
浩瀚は言いながらひどく奇妙な感覚に陥っていた。
記憶が戻ったら、今度は記憶を失っていた間の記憶が抜け落ちたとでもいうのだろうか。だがそれにしては、彼女には何やら事情がありそうな気配がする。
「そう、よかった」
「よかった?」
「いや、どうやら残していった私の方に記憶がないようだからさ」
「残していった?主上、一体どういうことなのでしょう」
「いまから説明する。とにかく間に合って良かったよ。これで事態解決だ」
「主上」
もどかしく浩瀚がもう一度呼びかければ、彼女は不敵な笑みを見せたのだった。
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